張遼文遠
■ 張遼文遠
張遼文遠
泣く子も黙る張遼
■ 泣く子も黙る張遼
泣く子も黙る張遼
張遼は思わぬ展開で丁原→董卓→呂布と主君に恵まれない前半生を送り、その後曹操に仕えて魏の軍指揮官として活躍した武将です。
日本の伝統芸能の歌舞伎や時代劇のヤクザ者が「泣く子も黙る○○とは俺のことよ」という決めゼリフは張遼の異名が語源になっているそうです。
この異名は、張遼人生最大の見せ場、合肥の戦いでの猛追撃が由来しています。
曹操が遠征に出かけた際、張遼と李典と楽進に合肥の留守を命じました。案の上攻め込んできた呉の孫権が率いる軍勢はその数なんと10万の大軍でした。それに対し、曹操軍が駐屯させていた兵力は7000あまり。戦況はどう考えても曹操軍の方が圧倒的に不利でした。
大軍を前にして諸将がためらっていると、張遼が周りの諸将を鼓舞。さらに、敵を叩く役割を買って出ました。
張遼は精鋭800を選りすぐると夜明けに出陣。陣頭に立って敵陣に突進します。張遼は、数十の敵兵と呉の将校二人を斬り、砦を破って、呉の本陣の目と鼻の先まで迫りました。
破竹の勢いでしたが所詮は寡兵。最初こそビビッていましたが数が少ないとわかった孫権は、張遼の分隊を包囲させます。しかしここで終わらないのが張遼。果敢に立ち回って見事に包囲網を突破。さらに、逃げそびれた味方の兵士が助けを求めると、即座に反転して彼らの救援に成功しています。このとき張遼の形相が怖すぎて、呉の兵士が恐れおののき、思わず進路を譲ってしまうほどでした。
これによって、士気の下落が著しくなった呉軍は一旦退却するのですが、張遼はこれを見過ごしませんでした。10万の大軍を恐れることなく猛追撃。殿を務める凌統の配下のほとんど破り、孫権にあと一歩のところまで近付いていました。
これには、孫権も身体じゅうのいたるところに冷や汗をかき、肝を冷やしたのでした。後ろを振り返ると鬼の形相をした張遼が「遼来遼来(張遼が来たぞ)」と大声で捲し立てながら家臣たちを斬殺して近づいてくるので、想像しただけでも鳥肌が立ってしまいます。
張遼の活躍は江東中に広く知れ渡り、子供が泣き止まないときは「遼来遼来(張遼が来たぞ)」と言うと、子供が怖すぎて泣くのをやめたとあります。
曹彰子文
■ 曹彰子文
曹彰子文
黄髭/黄髭児
■ 黄髭/黄髭児
黄髭/黄髭児
曹彰は、曹操と卞皇后の次男で、文帝曹丕とは同母弟です。曹操の息子たちは文才に長けている者が多かったのですが、その中でも曹彰は曹操の武の才能を色濃く引き継ぎました。野生の虎や猪と戦って武勇を磨き、ほかの兄弟と違って勉強嫌いでしたが、黄色い髭を生やしていたことから曹操に「黄髭児」と呼ばれて可愛がられていました。
正史で「黄髭児」と呼ばれるのを確認できるのは、中国北部の鳥桓族(鳥丸兵とも)が起こした反乱鎮圧にあたった活躍を曹操が褒めるときに出てきます。
鳥桓族の攻撃は曹彰を一時的に危機的状況に追い込みますが、曹彰の参謀、田豫の策により猛反撃を受けて退却を開始します。
曹彰は半月以上にわたり退却する鳥桓族を再起不能になるまで猛追撃を繰り返しました。これにより大勝利をおさめ、北方の平定を大成功に導きます。
曹彰は凱旋して鳥桓討伐を父曹操に報告。
曹操は曹彰の黄色い髭をなでつけ「お前の将来を懸念していたが、立派な将軍になったものだ。黄髭児よ、大きゅうなったな。」と言って息子を褒めます。
龐徳令明
■ 龐徳令明
龐徳令明
白馬将軍
■ 白馬将軍
白馬将軍
龐徳は、当初馬謄・馬超父子に仕え黄巾党討伐時に活躍。後に馬超と袂を分かちて、曹操配下となり、魏の臣下として活動した期間は短かいものでしたが、その忠烈な最期を称えられ、史書に名を残す事となった武将です。
龐徳の従兄弟と旧主君の馬超が蜀側に就いていたため、魏の諸将たちは内通していると疑っていました。しかし、彼はいつも「私は国のご恩を受け、命を懸ける事で義を行なうものである。この手で関羽を討ちたい。今年関羽を殺さなければ、関羽が必ず私を殺すであろう」と語っており、樊城の戦いで関羽と対峙したときに関羽の額を矢で射ています。
龐徳が日頃から騎乗していた白馬に跨り、関羽軍を苦しめたので敵方の兵士は「白馬将軍」と言って恐れたと言われています。
司馬懿仲達
■ 司馬懿仲達
司馬懿仲達
司馬八達
■ 司馬八達
司馬八達
司馬懿は、曹操の参謀で諸葛亮のライバルになった三国志でも1位2位を争う名軍師です。魏の文帝(曹丕)の家庭教師を務めたほか、魏国初代丞相や司馬を歴任。曹家4世代に渡って仕え、晋建国の基盤を作った人物です。
司馬懿の兄弟は彼を含めて八人おり、全員聡明な賢者ぞろいでした。八人兄弟は皆、字に「達」の文字が使われており、ひとまとめにして「司馬八達」と呼ばれました。また、この異名には、八人の達という意味の他にも八人の達人という意味も含まれています。
狼顧
■ 狼顧
狼顧
司馬懿は身体を正面に向けたまま、首を180度後ろを振り返ることができる「狼顧の相」の持ち主であったと言われています。
「晋書」によれば、司馬懿に「狼顧の相」があることを聞いた曹操はこれに興味をもちました。警戒する狼が顔だけを振り返らせて後ろを見るように、司馬懿が振り向けるのかを偶然をわざと装って確かめようとしました。
適当な難題を検討するように指示をして「用が済んだから下がってよいぞ」と言っておきながら、退室しようと出入口に向かっている司馬懿に「仲達、別の件なんだが…」と呼止めると、司馬懿の身体は出入口の方向を向いているのに、顔は完全に曹操と正対していたとあります。
曹植子建
■ 曹植子建
曹植子建
詩聖
■ 詩聖
詩聖
曹操と卞皇后の三男で、文帝(曹丕)と曹彰の同母弟。軍事や政治で活躍することは少ないのですが、父曹操、兄曹丕と並び建安文学の三曹に数えられる文学者です。
中学、高校で習う漢文の五言詩などの形式の確立に大きく貢献した人物で、唐の李白・杜甫が登場するまでは、中国文学で最高の地位にいました。
漢詩が得意で優れた作品を多く残したので、詩の神様「詩聖」と評価されました。
七歩の才
■ 七歩の才
七歩の才
兄弟同士で血で血を洗う泥試合となった曹操の跡目争いの際、文帝(曹丕)は自分に従わない弟たちを殺して地位を確実なものにしようとしていました。曹彰亡きあと次のターゲットにされたのは、秀でた文才を兼ね揃え父曹操から贔屓されていた曹植です(曹彰は武の才能を疎まれて殺されたとされています)。
ある些細なことで難癖をつけ、曹植を召し出した曹丕は「俺が七歩歩くまでの間に詩を詠め」と無茶ブリをします。曹丕が「一歩…二歩…三歩」と歩数を数えながら七歩目を踏み出す前に振りむこうとした時、曹植は下記の歌を詠みました。
豆を煮る豆の豆がらを燃く
豆は釜中にあって泣く
本是同根より生ずるを
相煎るなんぞはなはだ急なる
(豆を煮るために豆がらを燃やす、
豆は釜の中で泣いているような音を立てる。
もともと一つの根から生じたものなのに、
どうしてこんなに酷くいたぶるのですか。)
兄が自分を殺そうとしている状況を、「煮られる豆」と「燃料とされる豆がら」 に例えて詩にしました。
曹丕はこれを聞き、恥を知って涙をこぼした。そして、曹植のことを許したそうです。
あだ名列伝~魏編その2~のまとめ
■ あだ名列伝~魏編その2~のまとめ
あだ名列伝~魏編その2~のまとめ
悪党の座を欲しいままにする曹操ですが、異名をとる武将や文人を多く抱えていたので配下にした人々に恵まれていることがわかると思います。もし、張遼が合肥で怖じ気づいてそのまま呉軍に敗戦をしていたら、今日歌舞伎で人気を博し、主人公の自己紹介のセリフを言うのに5分かかるという演目の「助六」が誕生することもなかったでしょう。