「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(10) 張遼の宿敵・彼はどんな男だったか?

「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(10) 張遼の宿敵・彼はどんな男だったか?

張遼は合肥(がっぴ)の戦いで、攻め寄せてきた孫権軍を見事返り討ちにしました。手痛い敗戦を喰らった孫権。張遼の宿敵だった彼は、どんな人物だったのか…ちょっと寄り道して見ていきましょう。


情愛の人・孫権

情愛の人・孫権

情愛の人・孫権

さて、前回に続き、合肥で張遼に敗れた孫権の人物像を見ていきましょう。
彼の特徴として(人に対する好き嫌いはあるものの)自分に忠節をつくす武将に対しては、大きな情愛もって接するところがありました。
合肥で孫権の退却を助けた凌統などは、特に孫権に愛された武将の一人です。
瀕死の重傷を負って帰還した彼を、孫権は自分の船に乗せて看病し、その衣服の着替えまで手伝ったと言います。当時の君臣の関係を考えれば、異常ともいえる愛し方でした。

この後、良薬での治療が功を奏し、凌統は一命を取り留めます。しかし凌統は悲しみに打ちひしがれていました。彼自身は奇跡的に生きのびたものの、ともに戦ってくれた側近の兵士たちは、ひとり残らず死んでしまったからです(あらためて、張遼の追撃のすさまじさが分かりますね)。
悲嘆にくれる凌統に対し、孫権は言いました。

「死んでしまった者は仕方がない。
 お前が生きていてくれたのだから、どうして人が無いなどといって憂いるだろうか」

孫権は命がけで戦った凌統に報いるべく、合肥の戦いの後、それまでの倍の兵士を与えました。
凌統は父の代から孫氏に仕える、いわば譜代の臣というべき存在であり、孫権としては特に親しみを感じる武将だったようです。
後に凌統が死去したとき、孫権の悲しみぶりは大変なものでした。孫権は凌統の遺児たちを宮中で育て、我が子同様に愛したと記録されています。孫権と凌統、主従の固いキズナがしのばれるエピソードです。

武将たちのカリスマ・孫権

武将たちのカリスマ・孫権

武将たちのカリスマ・孫権

凌統は奇跡的に生きのびたものの、合肥での張遼の追撃により、孫権は多くの将兵を失いました。
そのひとりが、孫権のお気に入りの武将・陳武(ちんぶ)です。
彼はもっとも孫権に愛された武将といわれ、孫権自ら、たびたび陳武の家に遊びに行くほどだったといいます。君臣の身分差を越え、ふたりは非常に親密な関係を築きました。
その陳武も合肥で張遼の追撃を受け、奮戦むなしく命を落としました。この時の孫権の落胆ぶりは大変なもので、彼は自ら陳武の葬儀に足を運んだといいます(これまた、当時の君臣の関係を考えると、異例のことです)。

孫権の情に厚い性格について、後世のある知識人はこう評しています。

「孫権は武将たちに対し、心を傾け、思いを尽くした。
 そのため武将たちは、孫権のため死に物狂いで戦った」

つまりは孫権の情愛が、武将たちを大いに奮起させ、戦場での力戦をうながしたという観方です。この指摘は当たっているのでしょう。凌統や陳武にかぎらず、多くの武将たちが孫権のために命がけで戦い、孫権軍(呉)の強さを支えていたのです。
武将たちとの心の交流によって、その奮闘を呼び起こす孫権。戦の強さでは父(孫堅)や兄(孫策)にかなわないものの、戦場で部下の力を引き出す能力は十二分に備えていました。彼こそまさに、武将たちのカリスマだったといえるでしょう。

また孫権は、特に親しい武将たちとは、身分の差を超えた交わりを持ちました。凌統を自ら看病して着替えを手伝ったり、陳武の家に遊びに行くなど、当時の君臣関係からすれば異例のエピソードが伝わっています。君主と家臣というよりは、同志的なつながりが根底にあり、そのキズナの強さが凌統・陳武の奮戦を呼んだと考えられます。
孫権は親しい武将たちとの間に、いわばスポーツチームにおける主将とメンバーのような関係を結んでいたのでしょう。彼は現在でいえば、体育会系のキャプテンのような存在として、武将たちのチカラを引き出していたのです。

王者らしからぬ孫権

王者らしからぬ孫権

王者らしからぬ孫権

こうした武将たちのかかわりを見ると、孫権は理想的な君主とも思えます。しかしこの美しい君臣関係の話には、まだ続きがありました。
合肥で陳武が戦死し、孫権はその葬儀に自ら出席しました。さらに驚くべきことに、陳武の妾(めかけ/注)だった女性に、殉死(じゅんし/注)するよう命じたのです。

(注)妾(めかけ)……正妻でない妻。側室。
(注)殉死(じゅんし)……家臣もしくは近親者が、主人の後を追って命を絶つこと。

なんとも……ショッキングな話ですよね。こんなエピソードをきいたら、全国の孫権ファンもドン引きしてしまいそうです。
現代の価値観では理解に苦しむ出来事なので、背景を説明しておきましょう。まず三国志の時代は大昔なので、いまよりも女性の地位はずっと低いものでした。ましてや(正妻でない)側室ともなれば、主人の「持ち物」のように位置づけられていたことでしょう。

お話ししてきたように、孫権は陳武を非常に愛しており、その死をとても悼みました。
「ひとりであの世に行ってしまっては、陳武もさみしいはずだ」
おそらく孫権はこう考えたのでしょう。陳武の愛していた側室に、陳武の後を追って殉死するよう命じたのです。

いくら女性の人権が認められていない時代とはいえ、あまりにひどい話です。実際、後世の知識人も孫権のこの命令を強く非難し、このように評しています。

「孫権は生きている女性に死を命じ、死んだ主人に従わせた。
 彼の王朝は、このような行為の報いを受けて、衰えていったのだ」

孫権の非情な命令は、過剰ともいえる陳武への愛から生まれたものでした。とはいえ、人の上に立つ者としては、さすがにバランス感覚を欠いた命令といわざるを得ません。

長所と短所は表裏一体

長所と短所は表裏一体

長所と短所は表裏一体

ここまで合肥での敗戦を中心に、孫権の人間性を見てきました。
彼は情に厚い君主であるとともに、その情愛によって武将たちの奮闘をうながす「武のカリスマ」でもありました。
その反面、時には情におぼれ、時には浅い思慮にとらわれ、軽はずみな行動に出てしまうことがありました。

たとえば合肥の戦いでの退却失敗がそうです。孫権は大将でありながら危険な最後尾に身を置いたため、張遼の追撃をまともに受けてしまいました。そのため自身が危険な目にあったのはもちろん、彼を守るために多くの将兵が討ち死にするという結果を招いたのです。
陳武の側室に殉死を命じたのも、陳武への愛情から出たものとはいえ、情におぼれた決定、浅い思慮による命令といえます。

孫権の情愛に流される、軽はずみな性格は、後に呉王朝の歴史に暗い影を落としました。
彼は情愛によって、自らの後継者争いを混乱させ、国の乱れの原因を生んでしまいます。さらには思慮を欠いた命令と言動により、陸遜(りくそん)ら呉王朝の柱石たる人物を死なせてしまいました。
孫権という人を見ていると、人間の長所と短所は表裏一体なのだと考えさせられます。

さて、張遼の項でありながら、ずいぶん孫権の話に寄り道してしまいました。次回はふたたび張遼に話をもどし、合肥後の彼の動向について見ていきましょう。





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孫権 張遼 合肥の戦い

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