劉禅は本当に無能なの?どんな人物だったのか紹介!

劉禅は本当に無能なの?どんな人物だったのか紹介!

蜀の2代目皇帝の劉禅と言えば、暗君として挙げられることが多いです。しかし、三国志好きの方でも、劉禅がどんな人物だったのかわかっていない方がいます。そこで今回は、劉禅とはどんな人物であり、本当に無能だったのかを検証していきたいと思います。


1.劉禅とはどんな人物?

出生から皇帝即位まで

劉禅が生まれたのは、207年のことです。劉備(玄徳)と甘夫人との間に生まれた子供です。出生の翌年には、長坂の戦いに巻き込まれたのですが、趙雲によって救われています。その後、劉備(玄徳)が蜀の皇帝になり、劉禅は太子となりました。221年には、夷陵の戦いで劉備(玄徳)らが出陣すると、成都の留守を任されています。医療の戦いで劉備(玄徳)が敗れたことで、益州は反乱が起きるのですが、諸葛亮などのサポートで鎮圧しています。

223年に、劉備(玄徳)が亡くなると劉禅は17歳の若さで皇帝に即位するのです。しかし、劉禅は政務を諸葛亮らに任せています。234年に諸葛亮が亡くなったことにより、蜀の情勢が悪くなっていきます。

黄皓の存在と蜀漢の滅亡

諸葛亮が亡くなってすぐは、まだ蒋琬や費禕、董允などの有能な人物がいたため、蜀は国として保つことができていました。しかし、そんな有能な人物たちが亡くなったり、一線を退いたりしたことで、ますます蜀の情勢は悪化していったのです。

そんな時に軍を掌握したのは姜維であり、政治的には黄皓が権力を握ります。姜維は大規模な北伐を行い国力が疲弊していきます。しかも、黄皓は奸臣であり、国をどんどん乱していったのです。そして、263年に蜀は滅亡し、劉禅は魏に降ったのです。ちなみに、魏に降った劉禅は、洛陽に移送されています。そして、幽州の安楽県で安楽公に封じられており、余生を過ごすことができ、271年に65歳で亡くなったのです。

2.劉禅無能派の主張

黄皓を重用した

劉禅を無能な暗君だと主張する人の多くが、黄皓を重用したことを挙げています。黄皓は劉禅に寵愛されたことで蜀の権力を掌握し、蜀の滅亡を招いたとされています。董允が生きている間は、董允が監視役となっていたため、黄皓の役職は低いままで権力を持てませんでした。しかし、董允が亡くなったことで、一気に出世して政治的な権力を掌握したのです。

もちろん、黄皓が優秀な人物なら、劉禅が権力を移譲しても問題ありません。しかし、黄皓は私利私欲を肥やす人物であり、政治はどんどん乱れていったのです。しかも、姜維からの援軍要請に対し、神託を信じて援軍を送らないように劉禅に進言するなど、あまりにも酷い奸臣だったのです。そんな黄皓を重用した劉禅は、「やはり無能だろう」という意見が多いのです。

蜀漢を滅亡させた

劉禅無能派の主張としては、蜀を滅亡させたことも挙げられます。劉禅の時代に、蜀が滅亡したことは間違いありません。劉禅が「無能だったから蜀が滅亡した」と言う主張につながるのです。

とくに、滅亡の原因は黄皓や姜維によるものが大きいです。黄皓によって政治は乱れてしまい、姜維の北伐によって国力は疲弊していました。国内がそんな状態なら、国が滅亡してもおかしくありません。それにもかかわらず、劉禅は対応することができなかったというのは、無能だったということの証明となってしまうのです。

3.劉禅は無能ではない派の主張

諸葛亮に権力を委任した

劉禅は無能ではなかったという意見も多くあります。無能ではない派の主張として、多いのが諸葛亮に権力を委任したことが挙げられます。通常、皇帝になれば自分に権力を集めたがるものです。しかし、劉禅は権力を自分に集めるどころか、諸葛亮に委任してしまいます。

諸葛亮は、誰もが知っているように有能な人物です。自分よりも優秀な人物に、国政・軍事を任せることで、劉禅は国を安定させていたと捉えることができます。優秀な人材に権力を委任したということは、無能な暗君ではなく、君主としての器を持ち合わせていたと考えることができるのです。

魏に降伏して多くの人を救った

劉禅を無能ではないと主張する方は、魏に降伏したことも挙げています。劉禅は、263年に魏へ降伏しています。徹底抗戦がまだ可能である状態だったものの、劉禅は降伏することを決意したのです。もちろん、劉禅がどこまで考えていたのかはわかりません。それでも、劉禅が早々と降伏したことによって、多くの兵士や民草が殺られずに済んだと捉えることができます。そう考えれば、魏への降伏も君主として正しい判断と考えることができ、無能ではなかったのではないかという意見があるのです。

40年にもわたって皇帝である

劉禅が無能ではない派の主張としては、40年にわたって皇帝の地位にいたことも挙げられます。223年に皇帝になった劉禅は、263年に降伏するまで40年もの長期間にわたって皇帝の地位に就いていました。実は、同時代の皇帝で40年もの間、皇帝に在位し続けたのは劉禅だけです。

もし、本当に劉禅が無能な暗君だったのなら、それほど長く皇帝の座に居続けることができたとは思えません。部下などの反乱や謀反があってもおかしくないのに、それもなかったことを考えれば、少なくとも無能ではなかったと考えることができるのです。

4.正史三国志の撰者の評価は?

陳寿の評価とは?

正史三国志の撰者である陳寿は、劉禅のことを「白い糸は染められるままに何色にも変ずる」と評しています。この意味とは、周囲の人間が優秀なら善いが、悪くなったらダメになる人間であるという意味です。実際に、諸葛亮など周囲が有能な時には、問題はありませんでした。しかし、有能な人材が亡くなったりしていなくたったことで、黄皓のような人物の台頭を許し、国は乱れて蜀は滅亡しています。

そう考えると、正史三国志の撰者・陳寿の劉禅への評価は、的を射ていると考えることができます。もし、蜀が優秀な人材の宝庫であり、諸葛亮らが亡くなってからも、有能な人物がたくさん残っていれば、劉禅の評価は全く違ったものになっていたのかもしれません。

5.まとめ

今回は、劉禅について紹介をしてきました。劉禅は、無能な暗君として描かれることが多い人物です。しかし、実は無能ではないという主張を持っている方もいます。実際に、劉禅の皇帝在位期間は40年と同年代の皇帝よりも長いです。そう考えれば、一方的に無能な暗君として評価するのは間違いに思えます。

とは言え、奸臣である黄皓の台頭を許してしまったのは、汚点と言えるでしょう。正史三国志の撰者である陳寿の黄皓への評価は、まさに的を射ています。歴史に「もし」はないですが、劉禅の周りの人物が違えば大きく違った評価になっていたかもしれません。劉禅を無能な暗君として見るのではなく、別の角度からも見てみてください。

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