趙雲--最も演義で出世した?
■ 趙雲--最も演義で出世した?
趙雲--最も演義で出世した?
正史と演義で一番差がある人物は趙雲でしょう。「趙雲ファンは正史を読むな」とまで言われています。演義での趙雲の活躍として代表的なのは
・長坂橋の戦いで阿斗を抱いて一騎で曹操軍を突破する。
・孫夫人との結婚式で劉備(玄徳)を護衛する。
・孫夫人が後に連れ帰ろうとする阿斗を取り戻す。
・漢中攻防戦で一騎で曹操軍を引きつけた後に撃退して、劉備(玄徳)に「趙雲は全身が肝っ玉」と称賛される。
・夷陵の戦いで朱然を討ち取り劉備(玄徳)の危機を救う。
・北伐で敵将の多くを討ち取り、街亭の戦いで敗れた後も兵をよくまとめて引き上げて、諸葛亮に称賛される。
などなど、数え上げればキリがありません。一方、正史での記載は
・長坂橋の戦いではぐれた劉備(玄徳)の家族である阿斗と甘夫人を保護した
・北伐において箕谷の戦いで曹真に破れたが、趙雲はよく兵をまとめて退却したので、大損害とはならなかった。
位なものです。ほとんどの活躍は演義での創作です。
趙雲が劉備(玄徳)の配下になったのは、公孫瓚が劉備(玄徳)を陶謙・田楷への援軍として、趙雲を共に派遣してからです。そして、死亡するのは演義と同じく第一次北伐の後、その間は30年以上です。そんなにも長い間劉備(玄徳)・劉禅の二人に仕えていたということで、蜀漢を正当とする演義では趙雲がスーパースターのように書かれたのでしょう。趙雲が好きな人は演義でストップするほうが夢が壊れなくて良さそうです。
馬超--活躍したのは劉備(玄徳)軍に入る前
■ 馬超--活躍したのは劉備(玄徳)軍に入る前
馬超--活躍したのは劉備(玄徳)軍に入る前
馬超も演義と正史では大きく差がある人物です。演義では
・董卓の残党、李傕・郭汜軍に馬騰に率いられて挑むも敗れる。
・親(馬騰)の敵である曹操に復讐戦を挑むも、賈詡の離間の計に敗れる。
・劉璋への援軍として益州にやってきて、張飛と壮絶な一騎打ちを行い、その後、劉備(玄徳)に帰順する。
・漢中に張飛とともに攻め入る。
・夷陵の戦い、南蛮行の間、蜀漢の留守を守る。
などのシーンが印象的です。特に曹操との対立が強調されています。
ところが、正史では
・馬騰と韓遂が争った際、馬超も出陣していたが、曹操の仲裁で休戦する。
・曹操の要請で袁紹の甥である高幹を、龐徳を引き連れて討伐する。
など、曹操に大いに助けられ、また、曹操のために働いています。ですが、曹操との対立、合戦は創作ではありません。演義と同様、韓遂と同盟し、曹操軍に対して合戦を挑みます。ところが、そのきっかけが演義とは正反対です。演義では父(馬騰)・弟(馬休・馬鉄)が曹操に殺されたので復讐戦を挑みますが、正史では都に父・弟が住んでいる状態で、合戦を仕掛けます。その際、韓遂に
「私も父を捨て、今後は韓遂殿を父とします。韓遂殿も都に住む子を捨て、私を子としてください。」
と、自分から父を見捨てます。当然、その後、父・弟は曹操によって処刑されます。演義での馬超は情に厚い人物ですが、正史においては自分の野心のために、非常に残酷になる人物でした(当時はそれが珍しくなかったのかも知れませんが)。この合戦で、賈詡の離間の計によって、馬超が敗れるのは演義と同様です。
その後は正史でも、劉璋の援軍として益州に入り、劉備(玄徳)に帰順します。張飛との一騎打ちは完全に創作ですが。劉備(玄徳)の益州支配後は漢中へ攻め入ります。馬超の功績は演義と同じく、大して上がっていません。
馬超の演義と正史の差でもう一つ大きいのは死亡時期です。演義では、諸葛亮の南蛮行の後、病死とありますが、正史では劉備(玄徳)より早く死亡しています。その際に、一族の生き残りである馬岱のことを劉備(玄徳)に頼んでいます。なので、夷陵の戦い、南蛮行の間、留守を守っていたというのも演義の創作です。
正史において、馬超は記載は多いですが、劉備(玄徳)軍としてではなく、自分や父(馬騰)の野望や合戦におけるものが大部分です。
諸葛亮--局地戦より外交戦
■ 諸葛亮--局地戦より外交戦
諸葛亮--局地戦より外交戦
諸葛亮は演義では天才軍師として描かれています。
・夏侯惇10万の軍勢を瞬殺
・孫権と周瑜を手玉に取り、赤壁の戦いを起こし、曹操軍を撃破
・漢中攻防戦で将兵を起用し、曹操軍を撃退し、漢中を支配
・北伐で曹真・張郃を撃破
これらの殆どは演義の創作です。そもそも、諸葛亮は将軍の位をもらってはいましたが、益州攻略・漢中攻防戦での、劉備(玄徳)の軍師は龐統・法正が中心でした。諸葛亮はどちらかというと、劉備(玄徳)たちが出兵した後の、留守を守る役が多かったです。諸葛亮が政治・軍事の全権を握るのは劉備(玄徳)の死後です。そして、諸葛亮は馬謖を起用して張郃に敗れる、司馬懿と戦い、結局退却に追い込まれていることなどから、正史の作者陳寿は
「諸葛亮の政治は公平でみんな納得して従っていたが、用兵は得意ではなかったのではないか」
と記述しています。
では、諸葛亮は戦争において無能だったのでしょうか?そんなことはありません。古今東西、戦争において最も大切なのは、第三者を味方につけることです。日本の歴史を見ても、源頼朝、足利尊氏、徳川家康、みんな豪族や大名を味方に付けて、戦争をし、勝ち抜いて天下を取っています。諸葛亮の軍事的行動として最も大きいのが孫権軍との同盟です。
・赤壁の戦いの前、自ら魯粛と共に孫権の元へ行き同盟
・伊籍を孫権の元へ派遣し、荊州の一部を譲り、同盟を維持
・夷陵の戦いの後、鄧芝を孫権の元へ派遣し、同盟締結
天下三分の計を掲げる諸葛亮は、強大な魏に対抗するため、孫権軍と劉備(玄徳)軍の同盟に拘ります。そして、諸葛亮の生きている間、死んでからも暫くの間は、呉と蜀漢が共に健在であり、強大な魏に対抗し続けることが出来たのです。
劉備(玄徳)--実は正史のほうがかっこいい??
■ 劉備(玄徳)--実は正史のほうがかっこいい??
劉備(玄徳)--実は正史のほうがかっこいい??
劉備(玄徳)は演義では、張飛の暴れん坊っぷりに手を焼きながら、
・漢王朝に忠実
・世話になった人に報いる
・配下や民衆に優しい
などの道徳の教科書に出てくるような人物として書かれています。そこが良いと感じる読者も多くいるでしょうが、逆に偽善者っぽく見えたり、もどかしくも感じます。
ところが、正史の劉備(玄徳)は全く違います。まず、張飛の代表的なエピソード
「賄賂を求めてきた役人を気に縛り付けて鞭打つ」
ですが、正史でこれを行ったのは劉備(玄徳)です。大人しい劉備(玄徳)のイメージがあっという間に崩れます。
その後、曹操が呂布を倒すと、劉備(玄徳)は都で曹操に厚遇されます。高い位を与えられ、宴や車で座る時には曹操と同格の位置に座って良いという扱いでした。ところが、劉備(玄徳)は袁術討伐後、その曹操をあっさり裏切ります。その事自体は演義でも一緒なのですが、「漢王朝復興のため、逆賊曹操に対抗する」という背景のある演義では正義の行動でしたが、献帝を擁しており、曹操が官軍である正史においてはただの反乱です。野心家・恩知らずと言われても仕方ない行動です。
このように正史の劉備(玄徳)は聖人君子である演義と比べると、非常に荒っぽいです。ですが、そこに人間味を感じることが出来、魅力的に映ります。