三国志・諸葛亮(孔明)の評言を見抜き、豪語した任務を有言実行した甥の諸葛格とは

三国志・諸葛亮(孔明)の評言を見抜き、豪語した任務を有言実行した甥の諸葛格とは

孫権から将来を期待された「諸葛格」。慢心過ぎる人物として人気がありませんが、確かな実績はあげています。今回はそんな諸葛格についてお伝えしていきます。


諸葛亮(孔明)からの忠告の手紙

諸葛亮(孔明)からの忠告の手紙

諸葛亮(孔明)からの忠告の手紙

蜀の諸葛亮(孔明)が、229年に親書を送った相手は、呉の上将軍・陸遜でした。この年は蜀漢における建興七年にあたり、魏では太和三年にあたります。正式に三国が並立した年で、孫権が皇帝に即位し、建業に遷都した年です。ですから呉の元号では黄龍元年となります。

諸葛亮(孔明)は魏に対して三度目の北伐を仕掛けていました。そのためにも呉との同盟関係は継続していく必要があったのです。魏や蜀に接する武昌に在って、最前線の軍事面を任されていたのは陸遜でしたから、諸葛亮(孔明)は交流を深めておくべきと考えたのでしょう。

諸葛亮(孔明)は孫権の皇帝即位に祝意を表し、さらに忠告を添えました。呉が弱体化することは、蜀の北伐をより困難なものにしてしまいます。魏を牽制するためにも、呉には強くあってもらう必要があったのです。
しかし、その忠告は陸遜を困らせました。なぜなら陸遜の上司に関する苦言だったからです。
諸葛亮(孔明)が指摘した相手は、呉の大将軍である諸葛瑾と、その息子である諸葛格でした。諸葛亮(孔明)の実兄と甥になります。

格ハ性、疏ナルニ(諸葛格伝)

格ハ性、疏ナルニ(諸葛格伝)

格ハ性、疏ナルニ(諸葛格伝)

諸葛亮(孔明)は手紙で、甥の諸葛格には細かいことをおろそかにする性格があるのに、重要な糧食の司令官(節度官)に就かせていることが不安であり、それを見逃している兄の諸葛瑾は老いぼれてしまっていると記しました。そして、皇帝に進言して職務を変えるように忠告したのです。

陸遜は孫策の娘を娶っているので、孫氏一門に属しているとはいえ、大将軍の諸葛瑾は孫権から最も信頼されている臣でした。その息子の職務について口を挟むことは、さすがの陸遜にも難しい話です。下手をすると陸遜自体が孫権からの信頼を失ってしまう危険性があります。
もしかしたらそういった内部分裂を狙って、諸葛亮(孔明)が仕掛けてきた罠かもしれません。陸遜は慎重に考え、諸葛亮(孔明)の手紙をそのまま孫権に見せることにしました。余計な手を加えない方が得策と考えたのです。

皇帝・孫権が諸葛格を呼ぶ

皇帝・孫権が諸葛格を呼ぶ

皇帝・孫権が諸葛格を呼ぶ

孫権は諸葛格を呼び、現在の仕事が諸葛恪に適していないと進言している者がいると伝えます。諸葛格はそれが叔父の諸葛亮(孔明)の評言だとすぐに見抜きました。孫権は驚いて、なぜわかったのか尋ねると、諸葛格はそれが諸葛亮(孔明)の性格であり、些細なことまで気を配り、他人任せにできない点が弱点だと指摘しました。孫権はその言葉に喜んだようです。

諸葛格自身も今の職務に満足しているわけではなく、解任されても受け入れると述べています。孫権は興味を持って、ではどんな職務につきたいのかと問うと、諸葛格は「丹楊郡の統治を任せていただけたら、三年で四万の兵を調達してみせる」と豪語しました。

これには孫権も苦笑し、すぐには許可しません。失敗することが目に見えていたからです。険阻な地形を利用し、孫権の統治に抵抗する武装した民が住んでいる場所です。これまでも何人もの太守が大きな損害を出していました。統治に成功したのは、若い頃の陸遜だけだったのです。
つまり陸遜に匹敵する器量がなければ、丹楊郡の太守は務まらないことになります。失敗すれば父親である諸葛瑾の名に傷がつく恐れもあり、孫権はそれを配慮して許しませんでした。

再度直訴する諸葛格

再度直訴する諸葛格

再度直訴する諸葛格

自信満々の諸葛格としては却下されたことに納得がいきません。それを帰ってから口に出したので、父親や義兄(張承)の耳に入り、諸葛瑾も張承も諸葛格が一族を滅ぼすことになるだろうと不安になりました。
それでも諸葛格は実力行使で孫権に直訴し、屯田兵一万だけで解決してみせると大言は吐きます。孫権は無理だと思い、諸葛瑾も陸遜も同じ思いでしたが、諸葛格が執拗に願うので孫権は許可して丹楊郡太守兼撫越将軍の印綬を与えてしまいました。

陸遜は実際に統治の苦難を経験しているだけに、その困難さを理解しており、せめて軍資金だけは多く渡そうとして諸葛格を自宅に招こうと使いを出しましたが、心配無用と断られています。

諸葛格は赴任すると、不服従の民に攻撃しないことと、ひたすら防備を固めることを指示し、陣地を補修し始めました。収穫の時期になると不服従の民は下山して食物を奪っていくのですが、諸葛格がいち早く収穫を終わらせ、固めた陣地に収納したため、不服従の民は防備を崩すことができません。しかも帰順したら食物を与え、移住する場所も提供することや、帰順した者を逮捕することはないとことを布告しました。

布告の徹底によって心を慰撫する

布告の徹底によって心を慰撫する

布告の徹底によって心を慰撫する

もちろんそんな役人の言葉に何度も騙されてきた不服従の民は抵抗を続けますが、諸葛格が布告を徹底したために、帰順者が増えてきました。さらに頭目の周遺も、この布告を逆手にとろうと偽りの投降をします。
県長は周遺の帰順を危ぶみ、捕縛して諸葛格のもとに護送しました。諸葛格は、それに対して、官が民に示した約束自ら破っていたのでは、民の信用を得ることはできず、統治することもできなくなるとし、捕縛した県長を斬刑としました。

周遺は大いに驚きます。さらに諸葛格が周遺を残った不服従の民の説得の役に任じて、解放したために、周遺は感じ入り、必死に不服従の民を説得したため、最初の一年だけで帰順者が一万人に達しました。
諸葛恪は増えた人の力で開拓地を広げ、収穫を増やすのと同時に帰順者をどんどんと受け入れていき、三年目には四万の兵としました。誰もが不可能だと思った難業を諸葛格は見事やり遂げたのです。

まとめ・孫権から将来の丞相候補として大いに期待される

まとめ・孫権から将来の丞相候補として大いに期待される

まとめ・孫権から将来の丞相候補として大いに期待される

丹楊郡での諸葛格の功績は抜群なものがありました。
蜀とは同盟を結んでいるものの、魏とは交戦状態が続いており、内治のための余分な兵を割けない状況だったのです。そんな厳しい中を諸葛格は徳によって丹楊郡を治め、収穫量を増やし、兵力を増強したのですから文句のつけようもありません。
孫権は喜んで、諸葛格を威北将軍に任じ、都郷侯の爵位を与えました。

陸遜は諸葛格の我意の強さを懸念し、謙虚さを学ばせようと孫権に進言したために、諸葛恪はなかなか中央には戻れませんでしたが、地方の統治や魏との戦いで活躍し、陸遜の没後は大将軍となります。そして孫権が孫亮を太子としてからは、太子太傅に命じられ、孫権没後には全権を握ることになるのです。
しかし多くの先人たちが予言した通り、独断専行が過ぎた諸葛格は誅殺されてしまいました。





この記事の三国志ライター

関連する投稿


「天下三分の計」を実際に唱えたのは誰!?

三国志のストーリーで重要な役割を果たす「天下三分の計」。多くは諸葛孔明が劉備(玄徳)に献策したものと理解しているが、史実を紐解いてみると面白い事実が分かる。天下を曹操・孫権・劉備(玄徳)の三勢力に分けるという「天下三分」の構想は、意外な人物にオリジナルがあったのだ。


働きすぎ!軍師・孔明の死因は過労死だった?

三国志最高の軍師と言われる諸葛亮孔明。彼の死因はなんと過労死!?いったいどれだけ働いていたのか、なぜそこまでしたのかを彼の人生と共に見ていきます。正史と演義での彼の役割の微妙な違いにも注目です。


三国志を彩る個性豊かな知将7選

三国志を彩る個性豊かな知将7選をご紹介!


諸葛亮孔明が北伐にこだわった本当の理由とは?

劉備(玄徳)に三顧の礼で迎えられた天才軍師・諸葛亮孔明。劉備(玄徳)に迎えられてからは名軍師として数えきれない活躍を見せます。そして最後は北伐でその生涯を閉じるのですが、そもそもなぜ北伐を繰り返していたのでしょうか。推測も交えつつ、北伐にこだわった理由に迫ってみるとしましょう!


行ってみたい!三国志オススメの聖地(遺跡)7選

日本でも多くのファンがおり、とても人気な三国志。三国志人気の聖地(遺跡)をご紹介します。


最新の投稿


春秋戦国時代 伍子胥の人生について

伍子胥(ごししょ)は、中国の春秋時代に活躍した楚の武人です。彼の本名は員(うん)で、楚の平王によって父と兄が殺されたため、復讐を誓いました。彼は呉に亡命し、楚との戦いで、ついに復讐を果たしました。しかし、後に呉王夫差が越王勾践を破った際、降伏を許そうとする夫差に反対し、意見が受け入れられず、自害させられました。


孫氏の兵法の孫武(そんぶ)とは?

『孫氏の兵法』における「孫氏」とは、古代中国の軍事思想家である孫武です。兵法書『孫子』を著し、戦争や軍事戦略に関する理論を全13篇から構成。特に「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」が有名で、戦争を避けることが最も優れた戦略であると説いています。 参考:ドラマ 孫子兵法 ‧


『キングダム』における羌瘣とは?

羌瘣は、漫画『キングダム』に登場する架空のキャラクターです。彼女は羌族出身の少女で、精鋭の暗殺者集団「蚩尤(しゆう)」に属していました。彼女は、原作、映画においても非常に魅力的なキャラクターです。その環境や周辺を史実を参考に紐解いてみます。


赤兎馬とは? 三国志初心者必見 三国志における名馬の物語

赤兎馬とは、三国志演義などの創作に登場する伝説の名馬で、実際の存在については確証がなく、アハルテケ種がモデルとされています。体が大きく、董卓、関羽、呂布など、三国時代の最強の武将を乗せて戦場を駆け抜けました。


春秋戦国時代 年表 キングダム 秦の始皇帝の時代の始まり

キングダム 大将軍の帰還 始まりますね。楽しみにしていました。 今回は、秦の始皇帝「嬴政」が、中華統一を果たす流れについて記述しようと思います。映画、キングダムのキャストの性格とは若干違うかもしれませんが、参考程度に読んでみてください。


アクセスランキング


>>総合人気ランキング

最近話題のキーワード

三国志の魅力と登場人物で話題のキーワード


故事 三顧の礼 泣いて馬謖を斬る 苦肉の策(苦肉計) 破竹の勢い