諸葛亮(孔明)からの忠告の手紙
■ 諸葛亮(孔明)からの忠告の手紙
諸葛亮(孔明)からの忠告の手紙
蜀の諸葛亮(孔明)が、229年に親書を送った相手は、呉の上将軍・陸遜でした。この年は蜀漢における建興七年にあたり、魏では太和三年にあたります。正式に三国が並立した年で、孫権が皇帝に即位し、建業に遷都した年です。ですから呉の元号では黄龍元年となります。
諸葛亮(孔明)は魏に対して三度目の北伐を仕掛けていました。そのためにも呉との同盟関係は継続していく必要があったのです。魏や蜀に接する武昌に在って、最前線の軍事面を任されていたのは陸遜でしたから、諸葛亮(孔明)は交流を深めておくべきと考えたのでしょう。
諸葛亮(孔明)は孫権の皇帝即位に祝意を表し、さらに忠告を添えました。呉が弱体化することは、蜀の北伐をより困難なものにしてしまいます。魏を牽制するためにも、呉には強くあってもらう必要があったのです。
しかし、その忠告は陸遜を困らせました。なぜなら陸遜の上司に関する苦言だったからです。
諸葛亮(孔明)が指摘した相手は、呉の大将軍である諸葛瑾と、その息子である諸葛格でした。諸葛亮(孔明)の実兄と甥になります。
格ハ性、疏ナルニ(諸葛格伝)
■ 格ハ性、疏ナルニ(諸葛格伝)
格ハ性、疏ナルニ(諸葛格伝)
諸葛亮(孔明)は手紙で、甥の諸葛格には細かいことをおろそかにする性格があるのに、重要な糧食の司令官(節度官)に就かせていることが不安であり、それを見逃している兄の諸葛瑾は老いぼれてしまっていると記しました。そして、皇帝に進言して職務を変えるように忠告したのです。
陸遜は孫策の娘を娶っているので、孫氏一門に属しているとはいえ、大将軍の諸葛瑾は孫権から最も信頼されている臣でした。その息子の職務について口を挟むことは、さすがの陸遜にも難しい話です。下手をすると陸遜自体が孫権からの信頼を失ってしまう危険性があります。
もしかしたらそういった内部分裂を狙って、諸葛亮(孔明)が仕掛けてきた罠かもしれません。陸遜は慎重に考え、諸葛亮(孔明)の手紙をそのまま孫権に見せることにしました。余計な手を加えない方が得策と考えたのです。
皇帝・孫権が諸葛格を呼ぶ
■ 皇帝・孫権が諸葛格を呼ぶ
皇帝・孫権が諸葛格を呼ぶ
孫権は諸葛格を呼び、現在の仕事が諸葛恪に適していないと進言している者がいると伝えます。諸葛格はそれが叔父の諸葛亮(孔明)の評言だとすぐに見抜きました。孫権は驚いて、なぜわかったのか尋ねると、諸葛格はそれが諸葛亮(孔明)の性格であり、些細なことまで気を配り、他人任せにできない点が弱点だと指摘しました。孫権はその言葉に喜んだようです。
諸葛格自身も今の職務に満足しているわけではなく、解任されても受け入れると述べています。孫権は興味を持って、ではどんな職務につきたいのかと問うと、諸葛格は「丹楊郡の統治を任せていただけたら、三年で四万の兵を調達してみせる」と豪語しました。
これには孫権も苦笑し、すぐには許可しません。失敗することが目に見えていたからです。険阻な地形を利用し、孫権の統治に抵抗する武装した民が住んでいる場所です。これまでも何人もの太守が大きな損害を出していました。統治に成功したのは、若い頃の陸遜だけだったのです。
つまり陸遜に匹敵する器量がなければ、丹楊郡の太守は務まらないことになります。失敗すれば父親である諸葛瑾の名に傷がつく恐れもあり、孫権はそれを配慮して許しませんでした。
再度直訴する諸葛格
■ 再度直訴する諸葛格
再度直訴する諸葛格
自信満々の諸葛格としては却下されたことに納得がいきません。それを帰ってから口に出したので、父親や義兄(張承)の耳に入り、諸葛瑾も張承も諸葛格が一族を滅ぼすことになるだろうと不安になりました。
それでも諸葛格は実力行使で孫権に直訴し、屯田兵一万だけで解決してみせると大言は吐きます。孫権は無理だと思い、諸葛瑾も陸遜も同じ思いでしたが、諸葛格が執拗に願うので孫権は許可して丹楊郡太守兼撫越将軍の印綬を与えてしまいました。
陸遜は実際に統治の苦難を経験しているだけに、その困難さを理解しており、せめて軍資金だけは多く渡そうとして諸葛格を自宅に招こうと使いを出しましたが、心配無用と断られています。
諸葛格は赴任すると、不服従の民に攻撃しないことと、ひたすら防備を固めることを指示し、陣地を補修し始めました。収穫の時期になると不服従の民は下山して食物を奪っていくのですが、諸葛格がいち早く収穫を終わらせ、固めた陣地に収納したため、不服従の民は防備を崩すことができません。しかも帰順したら食物を与え、移住する場所も提供することや、帰順した者を逮捕することはないとことを布告しました。
布告の徹底によって心を慰撫する
■ 布告の徹底によって心を慰撫する
布告の徹底によって心を慰撫する
もちろんそんな役人の言葉に何度も騙されてきた不服従の民は抵抗を続けますが、諸葛格が布告を徹底したために、帰順者が増えてきました。さらに頭目の周遺も、この布告を逆手にとろうと偽りの投降をします。
県長は周遺の帰順を危ぶみ、捕縛して諸葛格のもとに護送しました。諸葛格は、それに対して、官が民に示した約束自ら破っていたのでは、民の信用を得ることはできず、統治することもできなくなるとし、捕縛した県長を斬刑としました。
周遺は大いに驚きます。さらに諸葛格が周遺を残った不服従の民の説得の役に任じて、解放したために、周遺は感じ入り、必死に不服従の民を説得したため、最初の一年だけで帰順者が一万人に達しました。
諸葛恪は増えた人の力で開拓地を広げ、収穫を増やすのと同時に帰順者をどんどんと受け入れていき、三年目には四万の兵としました。誰もが不可能だと思った難業を諸葛格は見事やり遂げたのです。
まとめ・孫権から将来の丞相候補として大いに期待される
■ まとめ・孫権から将来の丞相候補として大いに期待される
まとめ・孫権から将来の丞相候補として大いに期待される
丹楊郡での諸葛格の功績は抜群なものがありました。
蜀とは同盟を結んでいるものの、魏とは交戦状態が続いており、内治のための余分な兵を割けない状況だったのです。そんな厳しい中を諸葛格は徳によって丹楊郡を治め、収穫量を増やし、兵力を増強したのですから文句のつけようもありません。
孫権は喜んで、諸葛格を威北将軍に任じ、都郷侯の爵位を与えました。
陸遜は諸葛格の我意の強さを懸念し、謙虚さを学ばせようと孫権に進言したために、諸葛恪はなかなか中央には戻れませんでしたが、地方の統治や魏との戦いで活躍し、陸遜の没後は大将軍となります。そして孫権が孫亮を太子としてからは、太子太傅に命じられ、孫権没後には全権を握ることになるのです。
しかし多くの先人たちが予言した通り、独断専行が過ぎた諸葛格は誅殺されてしまいました。