黄巾の乱に参加した当時の農民たちの状況

黄巾の乱に参加した当時の農民たちの状況

三国志演義は、漢王朝による汚濁政治に耐え切れなくなった農民たちが蜂起する黄巾の乱から始まります。 黄巾の乱では劉備(玄徳)、曹操(孟徳)、孫堅(文台)らが活躍するのですが、本記事では乱を起こした民に焦点を当てます。


壮大なる漢王朝

漢王朝は高祖劉邦が楚漢戦争で勝利を上げて創建された前漢が紀元前に約200年、一度滅亡した漢王朝を光武帝劉秀が再興した後漢が紀元後に約200年。およそ400年以上続く史上稀に見る王朝です。そして、はるか昔よりしだいに発展をとげてきた中国古代の歴史が漢王朝によってついに開花したともいえる壮大な王朝でした。
しかし、漢王朝は古代の歴史の完成であり、威容を誇りましたが、それと同時に完成されたものが滅びゆく予感と新しい時代の幕開けを内に秘めていました。
中国という国は農民たちが作った農民社会です。前漢末期の農民の人口は5959万人。後漢末期は4915万人であったと伝えられており、漢の国民の大半は農民が占めていました。王朝はこの巨大な農民社会の上にそびえ立ち、農民たちを基礎として農民たちを支配することによって存続します。つまり漢王朝の行く末は農民たちの動向にかかっていたと言っても過言ではありません。
そして漢王朝が存続した400年の歴史は農民社会が不気味な変容をとげつつあるまさしくその時期に当たるものです。それが漢王朝の宿命でした。

前漢期の農民たちの生活

紀元前の時代の農民社会は比較的身分差の幅が小さいものであったと言われています。農村には自立した生計を数人家族で賄える平均的な農民が広く存在していました。彼らが居住する村では一種の共同生活が営まれていて農民にとって村は彼らの生存を保障する母体と言うべき存在でした。

しだいに流亡していく農民たち

上記のような農民社会が営まれていく過程で、ある動きがしだいに目立つようになります。それは少数の豪族による農地の独占でした。すでに前漢末期には限田策(土地所有制度)の必要が唱えられ、もはやその有効性が期待できないほどにこの動きは勢いを増していきましたが、後漢になるとその動きはさらに加速していきます。大規模な土地所有者の登場によってそれまでの農民社会が瓦解していったのです。
大規模な土地の所有は開墾活動による場合もあったのですが、一方で王朝の高官や商人による権力と富にものを言わせる業因な農地収集によるものも少なくありませんでした。そのような場合、対象となるのはたいてい租税負担や借財、自然災害で疲弊した弱小農民の土地でした。土地を失った農民に残された道は死か他国へ逃亡、盗賊、地主の土地で耕作民となることくらいしかありませんでした。
このように一方では社会不安が広がり始め、一方では本来の自立農民の姿を喪失して地主の小作農や奴隷に転落する者が増えてゆきます。なお、農村には自立農民も多くいたのですがかれらもまた大規模な土地所有者の経済的、社会的な力の影響を受けずにはいられませんでした。

農民社会の変化により王朝も影響を受け始める

上記のような農民社会の変容はそれを基礎とする王朝そのものに衝撃を与えました。大規模な土地の所有者は一般的に豪族と呼ばれますが、彼らは大地主であるばかりでなく大抵は大家族制をとり、一族がまとまって集合体を形成し、時には数千におよぶ大量の耕作民、私兵とよばれるお抱えの武装集団を持つようになります。
このような集団において指導者的な地位に上るのは豪族自身ですが、その力は単に彼らに所属していた一族や耕作民だけでなくその近隣に住む一般農民にまで及びました。豪族たちは民を従え傷害、窃盗を取り締まり訴訟の法を定め冠婚葬祭の礼を作り、一種の理想的社会を実現させていきました。
つまり当時の農民社会ではこのような豪族の統率指導が地域社会の全体を安定させる重要な要素であり、理想的な形としては住民となる農民全体の参加と協力によって集団がされるのでした。しかし、多くの豪族の統率指導は上下関係にもとづく理想的な社会ではなく、豪族の一方的な支配が大半でした。というよりも理想的な社会を実現させた例の方が稀であるとも言えます。たしかに豪族の側から見ても従属農民は言わずもがな一般農民たちの支持なくして社会の安定を保つことはできなかったので周辺の一般農民へのある程度の配慮は不可欠でした。ところが意図する、しないに関わらず豪族の一般農民に対する関係は結局上下、支配と被支配の関係の枠をはみ出すことがなかったのです。

豪族による農民支配の実態

当時の豪族の生活は、毎年元旦と定期的に行われる家長の先祖を祭ることを核として家族内の融和と団結が図られました。家長の家族以外にも地主は多くの一族の者を擁していましたが、そのなかにはすでに貧富の差が見られていたようで、しばしば貧困な族員に対して経済的救済措置がとられ一族の結合がより強められました。
家長の土地では毎月さまざまな農作業が行われ、多種多様な作物が多角的に栽培され、また婦女子を中心として養蚕、紡績、あるいは醸造作業が行われました。
これら農作物や手工業製品はほとんど毎月売り出され、ある時には逆に買い入れられますが、この売買は投機的、高利貸的な面をもっていたようで、地主の家計にはもちろんのこと、近隣の一般農民の経済にとても重要な役割を担っていました。
毎月開催される農作業意外の行事でとくに重要なのは、武器の修理、障壁など防御施設の保全、習射などの軍事的工事と訓練です。
農民たちは農作業を行うとともにその土地を自らの手で守るための準備を絶えず行っていました。豪族が執り行っていた年中行事からは豪族が社会のなかで経済生活や社会全般に渡って、いわばそれらの核というべき重大な役割を果たしていたことがわかります。こうしたこと全体が豪族の農民層に対する支配者的地位を実現させるのでした。

苦しい生活を強いられた末農民がたどり着いたのは宗教

豪族勢力の増大は漢末期にはさらに著しくなりました。天災や疫病の流行、王朝中核が政治経験の未熟な宦官に独占されて適切な対応ができなかったことも加わり、農民たちは流亡したり、豪族の支配下におかれる民へ身分を落とす農民は激増し、農民社会は破滅への道を歩き出しました。
かつて農民たちが生存を保障する場であった農村の共同生活は崩壊し、農村は豪族が支配するものとなりました。そして2世紀も半ばに差し迫ると漢王朝の農民と農民社会は世紀末的な様相を呈するようになります。このような状況にあえぐ農民が宗教に救いを求めたのはもはや仕方のないことでした。張角が説く太平道のお教えは農民たちの心をがっちりと掴みます。太平道の強要の評価は一種のまじないによる病気治療以外はほとんどわかっていません。太平という文字が示すとおり、太平道はより多くの者が平等になる社会を目指しました。農民は病気治療よりもかつてみなが協力して生活していた平等な社会への回帰を願い、太平道の運動へ参加したものと思われます。また、太平道と似通った教義をもっていたとされる五斗米道という宗教は集まった民と協力して一種の宗教王国を築きました。そこには官長はおらず祭酒とよぶ有力信者が行政を担当し、各地には義舎という施設が置かれて食べ物が供給され、道行くものはだれでもそれを飲食することができたと言います。官長による王朝の支配への不信、平等互恵、相互扶助の精神をこの太平道、五斗米道から読み取ることができます。太平道が掲げたスローガン「蒼天已に死す。黄天まさに立つべし」は農民が思い描く理想社会の喪失とその回帰を願う意味が込められています。

まとめ

後漢末期に起きた国家を脅かす農民の暴動「黄巾の乱」は上記のように農民たちの生活事情、豪族たちによる支配、宦官による未熟な政治、かつての暮らしぶりへの回帰する願望などいろいろな要素が積み重なって起きたできごとでした。
一般的に知られている三国志のストーリーでは本記事にあるような当時の農民たちの状況が棚に上げられて、武将たちの活躍しか取沙汰されていません。たしかにこのような状況であれば誰しもが神様仏様にすがったり、生まれ故郷を離れてよりよい暮らしを求める行動を起こすことでしょう。

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