曹操(孟徳)さえも警戒しつつ重用した司馬懿(仲達)の人生

曹操(孟徳)さえも警戒しつつ重用した司馬懿(仲達)の人生

三国志演義で劉備(玄徳)、曹操(孟徳)など三国志の第一世代が亡くなった後、物語の展開で欠かすことのできないキャラクターと言えば諸葛亮(孔明)と司馬懿(仲達)ではないでしょうか? 本記事では司馬懿(仲達)の人生について説明します。


名門司馬氏の出身にして司馬八達のひとり

司馬懿(仲達)の一族は遥か昔から名門だと言われています。司馬氏のうちで著名な人物と言えば、秦の始皇帝に仕え将軍のひとりとなった司馬錯や史記を著作した司馬遷らがいます。そのような学者や将軍と同族である司馬懿(仲達)は司隷河内郡温県の出身です。父親の司馬防には司馬朗(伯達)、司馬懿(仲達)、司馬孚(叔達)、司馬馗(季達)、司馬恂(顕達)、司馬進(惠達)、司馬通(雅達)、司馬敏(幼達)という8名の子がいて、かれら兄弟はいずれも優れた知識人であったため、周りからは「司馬の八達」または「司馬八達」と称されていました。
司馬防の次男である司馬懿(仲達)が司馬氏の領袖となったのは、兄の司馬朗(伯達)が西暦217年に47歳で死去したためです。
ちなみに父親の司馬防はその2年後に亡くなっています。

司馬懿(仲達)が就職するまで

司馬懿(仲達)が就職するまで
幼い頃の司馬懿(仲達)は同郡の楊俊より「非常の器」という評価を受け、すでに曹操(孟徳)に仕えていた兄の司馬朗を通じて、崔媛の評価を受けました。崔媛という人物は魏の名士の中で荀彧(文若)を中心とする派閥に次ぐ位置づけにあった派閥の一員であり、その評価を受けた司馬懿(仲達)は郡を越えて全国レベルの名士の名士となりました。さらに荀彧(文若)からの推挙を受けると、曹操(孟徳)に辟召(へきしょう:三公や州の刺史が直接人材を招き、自己の属官とする制度)されて司空府の幕僚に大抜擢されました。このとき司馬懿(仲達)27歳。魏の官僚の誰しもが驚きを隠せない電撃人材登用でした。
晋の歴史書である晋書には司馬懿(仲達)の事績を記す「宣帝記」という章があります。そこに司馬懿(仲達)は曹操(孟徳)からの辟召を病気を理由に拒み、曹操(孟徳)に疑いをかけられたとあります。三国志演義では曹操(孟徳)から再三に渡る辟召を拒んだ結果、曹操(孟徳)を怒らせ逮捕されそうになる描写があります。
しかし、実際のところ曹操(孟徳)は荀彧(文若)ほどの名士が推す司馬懿(仲達)にそれに見合った地位や役割を与えていないことから、おそらく司馬懿(仲達)のことを警戒していたのではないかと思われます。そこまで警戒する相手のことを果たして「無理矢理でもよいから連れてこい」と言うでしょうか?
この件に関して私は、晋の初代皇帝の祖父たつ司馬懿(仲達)の事績を神々しくするためのでっち上げエピソードだと考えています。

魏の軍権を掌握し大将軍・大都督の地位に

曹操(孟徳)の嫡男曹丕(子桓)が太子となると、司馬懿(仲達)は太子中庶子を拝命しました。つまり司馬懿(仲達)は曹丕(子桓)の師匠になれと命令されたのです。司馬懿(仲達)は曹丕(子桓)に学問だけでなく世渡りの仕方までを教えこみます。さらに司馬懿(仲達)は曹丕(子桓)の祇王即位にも一役買っています。
通常王座には先王が指定した太子が即位するのが一般的なのですが、曹操(孟徳)には36人の息子がおり曹丕(子桓)のライバルとなる兄弟がゴロゴロいました。特に三男の曹植は文才に明るく、曹操(孟徳)もなにやら後を継がせることを匂わせていたようで太子であっても気が抜けない状況でした。そんな中曹丕(子桓)は司馬懿(仲達)らの名士の支持を受けて魏王となり、後漢最後の皇帝献帝に禅譲させました。このため名士層に借りがあり、司馬懿(仲達)を重用しないわけにはいきませんでした。
三国志の第一世代と言われる人々が次々に死去すると、司馬懿(仲達)はメキメキと力をつけて遂に名士の中心人物となりました。そして軍権を獲得していきます。曹丕(子桓)の在位中には大将軍のひとりとなっていましたが、その領する兵士は5000に過ぎず、決して大きくはありませんでした。
曹丕(子桓)の息子曹叡(元仲)が2代魏帝に即位すると司馬懿(仲達)は都督に任命され、初めて放免軍司令官としての資格を得ました。その後諸葛亮(孔明)の呼びかけに呼応して反乱を鎮めます。これにより蜀は荊州北部から進軍する道を断絶されることになります。
西暦230年には大将軍・大都督となり、翌年蜀が侵攻してくると魏軍の総司令官となります。このとき曹叡(元仲)は「君をおいてこれを託せる者はいない」と言って、司馬懿(仲達)に諸葛亮(孔明)との戦いを一任してします。
このとき曹操(孟徳)旗揚げ当初から曹氏、夏侯氏が掌握していた軍権が完全に名士側に渡りました。それとともに曹氏の君主権も徐々に弱まっていきます。

五丈原の戦いと遼東平定

諸葛亮(孔明)は呉に挙兵を促すと、10万の兵を率いて五丈原に侵入します。これが第5次北伐です。五丈原の蜀軍にたいして魏軍を率いる司馬懿(仲達)は国城から渭水南岸に渡り、土塁を築いて本陣を設けました。背水の陣を敷いたのです。慎重な司馬懿(仲達)が敢えて渭水を渡った理由は、南岸の食糧庫を守る目的と全軍の士気の高揚にありました。諸葛亮(孔明)は渭水渡り北岸に出て、東へ進むつもりでしたが、自ら指揮を執らない別動隊では郭淮の守る北岸を渡ることができませんでした。
翌月、曹叡(元仲)は親征して諸葛亮(孔明)が期待を寄せていた呉軍を破ります。敗退の方を聞いて焦る諸葛亮(孔明)に司馬懿(仲達)は持久戦を強いました。諸葛亮(孔明)は婦人の衣服や髪飾りを贈って挑発しますが、司馬懿(仲達)はまったく動きをみせません。さらに司馬懿(仲達)は蜀からの使者に諸葛亮(孔明)の仕事ぶりを尋ねて諸葛亮(孔明)の死期が近いことを悟ります。
真夏に入るといよいよ諸葛亮(孔明)の病は篤くなり、ついに陣没しました。蜀軍は漢中に撤退し、司馬懿は北伐を守りきったのです。
司馬懿(仲達)は蜀よりも先に孟達を倒し、蜀の二方面作戦を封じました。これにより、諸葛亮(孔明)は益州からしか攻めあがることができず、補給が滞りがちになってしまいました。司馬懿(仲達)は蜀の弱点を見越した上で持久戦へと持ち込んだのです。これに対し、公孫淵との戦いでは、戦闘能力を十分に発揮します。
遼東半島では後漢末以降、公孫氏が漢から自立した政治を行っていました。公孫淵は表向きは魏に服従していながらも海路を通じて呉と手を結び魏から独立を果たします。司馬懿(仲達)は公孫淵の裏をかき、本拠地へと進みます。雨で遼水があふれても司馬懿(仲達)は布陣を動かさず、公孫氏の城内の兵糧が尽きるのと雨がやむことを待ち続けました。長雨があがると、司馬懿は一気に攻め立てて城を陥落させ公孫氏を滅亡させたのです。
意気揚々と引き上げる司馬懿(仲達)のもとに、曹叡(元仲)が病床に伏したとの知らせが届きます。臨終に間に遭った司馬懿に、曹叡(元仲)は息子と後事を託してこの世を去りました。

司馬懿(仲達)によるクーデター

曹叡(元仲)の遺言により、司馬懿(仲達)とともに幼帝曹芳(蘭卿)を補佐した曹爽(昭伯)は、司馬懿(仲達)を中核とする名士勢力が君主権力を脅かすほどの力を持つに至った現状を打破しようと図ります。曹爽(昭伯)は曹操(孟徳)から寵愛を受けた名士や親戚筋の官吏を行政の中核に置き、中央集権的な政治を目指しました。そして、司馬懿(仲達)を肩書だけでの役職だった太傅に祭り上げて政権の掌握に成功しました。
こうした中、西暦249年に曹爽(昭伯)による名士の既得権抑圧に対して、司馬懿(仲達)はくデーターを企てました。これが正始10年に起きたことなので、正始の変と呼ばれます。
この政変は皇帝の曹芳(蘭卿)が先帝の墓参りをする際、曹爽(昭伯)は兄弟とともにお供として従いました。司馬懿(仲達)はこの隙をついて皇太后に曹爽(昭伯)兄弟の解任を上奏し、許可されると皇太后の令により、洛陽城内のすべての城門を閉鎖。皇帝直属の軍である禁軍の指揮権を掌握します。さらに皇帝を迎えるため、洛水のほとりに布陣し、曹爽(昭伯)を弾劾する上奏文を皇帝に奉りました。曹爽(昭伯)の腹心は決戦を主張しましたが、免官のみに留めるという甘い言葉に負けた曹爽(昭伯)は、戦わずして降伏します。司馬懿(仲達)は、わずか1日で無血のクーデターにより、政権を奪取したのです。

名士を取り込んで司馬一族を優位につける

クーデターの後も反司馬一族の排除は続き、司馬一族への権力集中が続きました。そのいきさつを他の名士たちが黙認していた理由は、司馬懿(仲達)が提出していた州大中正制度への支持にあります。かつて荀彧(文若)が権勢を振るっていた派閥の官吏が献策した九品中正制度は、郡に置かれる中正官が就職希望者に郷里の名声に応じて一品から九品の郷品を与え、郷品から原則として四品下がった初任官に就き、一生かけて四品分を出世していく制度でした。
例えば二品の者は、六品の初任官に就き、二品まで出世します。官僚の地位は、最初に授けられる郷品により規定されるため、郷品を定める中正官が強い権限を持ちました。その就職者は、人物評価を掌握してきた名士層が中心でした。
司馬懿(仲達)はこの制度を改正するべきだとして州大中正制度を提案したのです。司馬懿(仲達)が発案した州大中正制度は、それまでの郡中正の上に州大中正という官を設置し、強力な人事権を州大中正に集めるもので、州大中正につくことが可能な元荀彧(文若)派閥の名士が、政権での高位を自分の子孫に残すことを保障するものでした。名士の手に事実上の人事権が与えられ、名士の子孫が代々高位を占め続けることを可能にした制度です。クーデターの際、司馬一族を支持したのは儒教を文化の中心に置く多くの名士でした。彼らの既得権を維持するとともに、自派に有力な儒学者たちを取り込んでいったのです。
もちろん司馬懿(仲達)への抵抗が全くなかったかと言えばそうではありません。董卓暗殺を企てた王允の甥である王凌は司馬懿(仲達)に反旗を翻しました。王凌は曹爽(昭伯)に見込まれて大将軍についており、それへの報復を恐れていたのでしょう。曹氏一族の曹彪を幼稚るして、皇帝の曹芳(蘭卿)もろとも司馬懿(仲達)を亡き者にしようとしました。ところが計画は実行前に露呈し、王凌は虚しくも処刑されてしまいます。こうして曹魏の朝廷は完全に司馬一族に牛耳られました。
西暦251年、とうとう司馬懿(仲達)は戦争にまみれ宦官や文官の思惑が暗躍する乱世を去りました。

まとめ

司馬懿の死後、司馬一族は司馬懿(仲達)の長男司馬師、次男の司馬昭と継承され西暦265年に孫の司馬炎が魏を滅ぼして晋を建国し、こうして三国志は幕を閉じます。
幼少期から才能に溢れ、ついには晋王朝建国の礎を築く司馬懿(仲達)の人生。彼は曹操(孟徳)に仕えてから戦争、行政、司法、立法など多くの国事を任せられ亡くなるまで心の底から休まるときがありませんでした。

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