初心者でも早分かり! 三国志人物伝【曹操と敵対にあった雄】( 魏②)

初心者でも早分かり! 三国志人物伝【曹操と敵対にあった雄】( 魏②)

三国志で広大な領土を築いた魏の曹操ですが、人材の宝庫といわれ、文官・武官ともに有能な武将たちが勢ぞろいしていました。そんな魏の人材でも、当初は曹操に敵対勢力として所属していた武将も多くいます。そんな曹操を苦しめて、後に魏の発展に貢献した人物を見ていきましょう。


【張遼】魏一番の猛将は呂布配下で鬼神の強さを見せる

魏軍で一番有名な将軍といえば、張遼の名が挙がることが多いといえます。夏候惇や夏侯淵、曹仁、許チョといった歴戦の猛者よりも強さが際立った張遼。曹操の信頼が厚く、ゲームの世界では魏の五大将軍筆頭として描かれています。

そんな張遼ですが、当初は曹操に反発する勢力に属していました。張遼は若かりし頃から武勇に優れ、実力者の丁原に見出されてその配下となります。当時の丁原といえば、西涼の董卓でも容易に打ち破れない兵力を有しており、それを率いるのが養子の呂布でした。若い呂布と張遼を配下に持っているなんて、ゲームをしている人ならワクワクすることでしょう。

張遼は董卓が丁原を騙して討ち取ると、その配下になり、呂布が董卓を裏切ると、その配下になるという、あまり名誉があるとはいえない人生となってしまいます。しかし、強さが際立っていた呂布陣営において、張遼は中心人物として成り上がり、曹操軍との対決でも夏候惇を圧倒的に打ちのめす強さを見せつけています。一時は曹操を壊滅状態にまで追い詰めた、呂布軍の功労者となっていました。

曹操に仕えて武勇を誇る

勢力を盛り返した曹操に対し、呂布はついに敗れてしまいますが、張遼は最後まで呂布を裏切ることなく仕えていました。呂布が曹操に降伏すると、張遼も捕えられて死を覚悟します。曹操は自軍を苦しめた張遼の力量を評価しており、助命する旨を告げました。張遼は曹操の器量の深さに感嘆し、以後は曹操陣営の中枢に入り込み、袁紹や劉備(玄徳)、孫権といった君主たちを大いに苦しめるようになっていきます。

特に215年の合肥の戦いでは、曹操が不在ながら、わずか800人程度の兵力で10万人の孫権軍に猛攻をかけて混乱させ、孫権に撤退を決断させています。その際、退却する孫権本陣をめがけて再度突撃し、あと一歩のところまで孫権を追い詰め、張遼は呉の将兵たちにその恐ろしさをまざまざと印象付けることに成功しています。

【徐晃】曹操の信頼が厚く、関羽や馬超を撃破した猛将

徐晃は長安で献帝を捕えていた李カクの筆頭将軍だった楊奉に仕えています。楊奉の軍は、李カク配下の中でも突出して抜けており、曹操軍を大いに困らせていました。楊奉と李カクが対立するようになると、徐晃は献帝を連れて洛陽に逃げるよう進言しています。その道中、李カク軍と対決し、徐晃らは敗走しますが、最後まで献帝を守り抜きました。

洛陽に着くと、楊奉と献帝の側近だった董承が対立するようになります。徐晃はこのままではやがて李カクや他の勢力から献帝を奪われることを危惧し、許昌の曹操を頼るように進言します。楊奉も当初はこの選択は受け入れますが、自身が権力を握りたくなったのか、楊奉は最終的にこれを却下し、曹操と敵対するようになります。

結果として、曹操軍が圧勝し、献帝は許昌に招かれるようになります。徐晃は曹操に味方し、賊軍を倒して賞賛されます。徐晃は呂布や袁紹との戦いにも従軍し、各将を撃破していきます。徐晃は于禁や楽進、張遼らと名を馳せていき、荊州や漢中への出征にも参戦していきます。

曹操の信頼を得て各地で戦功を挙げる

曹操が出陣した戦いに多く参戦したことで、その信頼の厚さを物語っているといえるでしょう。漢中では馬超軍を撃破し、荊州争奪戦では即席の兵隊たちを巧みに率いて、劉備(玄徳)軍の関羽を打ち破っています。関羽はこの後、降伏していますので、徐晃の働きが大きかったといえます。

武勇だけでなく、軍略にも優れ、どれほど戦功を挙げても決して驕らない人格の持ち主でした。そのため、人材が多い魏の中でも曹操や曹丕から信頼を得ていました。禅譲を受けた曹丕が早くに崩御したことを受け、徐晃は曹叡にも少しの間仕えています。曹氏3代に仕えて、どの主君からも高評価を受けたのは徐晃の武勇や人柄が特に影響しているといえるでしょう。

【賈ク】曹操を最も苦しめた知将

魏の知将といえば、張良の再来といわれた荀彧や筆頭軍師の荀攸、智謀に優れた郭嘉、政権を奪取した司馬懿など、どの知将も曹操の覇道を助けた傑物たちです。しかし、彼らは曹操を助けたことがあっても、苦しめたことはありません。曹操軍の幕僚で、最も手強かったといえる知将は賈クをおいて他にいないでしょう。

賈クは若い頃から頭が切れますが、重職に就くことはありませんでした。董卓が都を専横する頃には、賈クすでに40歳を超えていたといいます。賈クは官僚として赴任し、その実力を次第に発揮していきます。

しかし、董卓が呂布と王允に抹殺されると、李カクの軍に移り、長安を攻めさせて呂布軍を破る策を授けています。そのまま李カク陣営の参謀として指揮を執ります。賈クは献帝が長安から洛陽に脱出するのを助け、しばし放浪したあと、南陽で勢力を奮っている張繍に士官します。

曹操軍に奇襲をかけて典韋を討ち取る

張繍は軍略に明るい人物でしたが、賈クは張繍が曹操には遠く及ばないことを知っており、そのけん制として、荊州の劉表と同盟を結びます。劉表は袁紹と同盟を結んでいたので、袁紹との決戦を控えていた曹操は、その憂いを断つために張繍を攻めます。

張繍は賈クの進言から降伏し、領土が守られますが、曹操が張繍の未亡人だった義理の叔母を手籠めにしたのを機に、曹操への恨みを抱くようになります。賈クはその思いを利用し、曹操を騙して反乱を起す策を練ります。賈クの読みは的中し、意表を突かれた曹操軍は混乱に陥り、張繍は曹操の長男の曹昂と配下の猛将典韋を討ち取っています。

曹操は退却しますが、その恨みは絶大なものとなっていきました。しかし、袁紹が公孫サンを下して河北を統一すると、曹操との一大決戦が本格化していきます。賈クは曹操が味方になる勢力は受け入れるはずだと、張繍に進言し、事実その通りに張繍は曹操にお咎めなしで降伏しています。

赤壁の戦い参戦を見送るよう進言

賈クの凄いところは、先を見通し、敵軍であってもその心理を巧みに読み取るところでした。曹操に帰順してからは、その参謀として活躍し、袁紹との官渡の戦いでも智謀を奮います。また、馬超との決戦となった潼関の戦いでは、離間の計を用いて馬超・韓遂の仲を引き裂き、敗走させています。

また、208年の赤壁の戦いでは、その直前に孫権軍と戦うことよりも、荊州での足場をしっかりと固め、人心を掌握してから万全の態勢で孫権に戦いを挑むようにと進言しています。この意見は聞き入れられませんでしたが、後の結果を見ると、賈クの言ったことは正しかったといえます。

賈クは曹丕の代になっても重宝され、魏の重臣として暗躍していきます。

まとめ

魏の曹操は優秀な人材ならば、敵としてでも味方に引き入れる器の大きさを持っており、張遼や徐晃、賈クといった魏の覇道に欠かせない人物が貢献していくことになります。この3名以外にも、多くの功臣が元は敵同士だったというエピソードも、また次に紹介していきます。

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