曹操と対決! 【劉備玄徳】の軌跡②「徐州陥落~流浪~三顧の礼」

曹操と対決! 【劉備玄徳】の軌跡②「徐州陥落~流浪~三顧の礼」

曹操とともに呂布を倒した劉備(玄徳)は、その才能を恐れられるようになり、曹操は警戒を強めていきます。ここから曹操との対決が多くなりますが、袁紹や劉表の下へと逃れていきます。しかし、諸葛亮を三顧の礼で従え、劉備(玄徳)陣営は飛躍の時を迎えようとしています。ここでは徐州の陥落からまたしても流浪、三顧の礼までをみていきます。


曹操との対決で敗れて袁紹のもとへと避難

徐州へと逃れ、献帝の討伐計画にも名が挙がっていた劉備(玄徳)に裏切られた形となった曹操は、大軍を以って徐州へと攻め込みます。怒り狂った曹操でしたが、一旦冷静になって配下のものを送り、様子をみます。張飛の大車輪の活躍もあり、曹操軍は追い返されますが、再度曹操自らが指揮を執ると、瞬く間に劉備(玄徳)軍が総崩れとなっていきました。

劉備(玄徳)は抵抗もむなしく張飛を引き連れて冀州の袁紹の元へと逃げ込みます。ここで関羽は劉備(玄徳)の妻子を守っていたことで、逃げ遅れてしまいます。曹操軍に囲まれた関羽は仕方なく降伏しました。関羽の実力を惚れ込んでいた曹操はいたって喜び、関羽や劉備(玄徳)の妻子を手厚くもてなします。

最初は曹操を目の仇にしていた関羽ですが、才能ある人物なら敵味方関係なく接する曹操の器量に惹かれ始めます。曹操は劉備(玄徳)の妻子が何不自由なく過ごせるように配慮し、関羽は恩義に感じていきました。それでも劉備(玄徳)への恩が一番大事であることに変わらず、ついには曹操のもとから逃れることに成功します。

袁紹の元で力を養っていた劉備(玄徳)は、関羽が帰参したことで、ここから曹操軍との対決が激しくなっていきます。一時は曹仁の大軍に敗れますが、袁紹の力添えもあって盛り返し、次第に曹操軍を後退させていきます。

しかし、頼みの袁紹本隊が曹操軍に敗北し、形成が逆転してしまいます。袁紹が敗れたとあっては、曹操の主力が自分たちに向いてくるはずに違いないと考えた劉備(玄徳)は、冀州を離れて荊州の劉表を頼ろうと決断します。

荊州へと逃れて劉表を頼る

荊州へと逃れた劉備(玄徳)たち一向は、劉表に歓迎されます。荊州は袁術亡き後、曹操や益州の劉璋、呉の孫権らに挟まれる形となった激戦区でしたが、豊かな土地を背景に、荊州一帯を制圧していた劉表の軍は簡単には崩れないほど増えていました。

劉備(玄徳)は荊州の北になる新野に城を構えて北方の守備を任されました。すでに40歳を半ば過ぎていた劉備(玄徳)は、自身が大成を成し得ずに、いまだに流浪の身となっていることを憂いていました。劉備(玄徳)は曹操が北方の烏丸を攻めているころ、許昌が手薄になっていることから、今攻めれば曹操を倒せると劉表に進言します。しかし、劉表は腰を上げず、新野城から手が届く範囲の葉県に侵攻するよう指示をだします。劉備(玄徳)は自身が大軍を動かせないことを腹立たしく思い、このままではいつまでたっても大成は無理であると実感していました。

劉備(玄徳)は曹操軍と対決し、恐らく隙あらば許昌まで押し込もうとしていたと考えられますが、そんな思いもむなしく、曹操は猛将・夏候惇に迎撃を命じています。劉備(玄徳)は夏候惇の軍に押し返され、陣地を焼き払って博防波まで引き下がります。しかし、これは策略であり、陣地を焼き払った劉備(玄徳)たちは伏兵を用意しており、隊列が細くなった夏候惇たちを急襲していきます。窮地に陥った夏候惇は退却をしますが、曹操軍を追い払った劉備(玄徳)たちは劉表から驚異と感じられ、逆に疎まれるようになっていきます。

三顧の礼で諸葛亮が配下に加わる

劉備(玄徳)は拠点での戦いには勝てるものの、長い目でみたときにいつも敗北を喫して流浪の身となっていました。そのため、広い視野で戦略を描き、諸国の情勢にも長けた手腕を発揮する人材を欲していました。劉備(玄徳)が人材発掘に明け暮れていたころ、荊州で名の知れた人物鑑定家の司馬徽が訪れ、2人のずば抜けた智略の持ち主である臥龍と鳳雛の話をしていきます。臥龍は諸葛亮のことで、鳳雛はホウ統のことを指していました。

当然、劉備(玄徳)は2人を探すようになります。当時の劉備(玄徳)が拠点としていた新野には多くの有能な人材がいました。劉備(玄徳)の配下では、司馬徽の門下生で諸葛亮の友人でもある徐庶もその一人といえます。

徐庶は頭の回転が早く、知己に富み、劉備(玄徳)からの信頼も厚くなっていきます。その徐庶も諸葛亮を推薦したことで、劉備(玄徳)はますます諸葛亮に興味を抱くようになっていきました。後の活躍を見れば当たり前のことに感じますが、当時の状況では40代で数々の武功を挙げている劉備(玄徳)に対し、何の実績もない20代の若者に対して期待するほうがおかしいと言わざるを得ません。しかし、頼みの徐庶は高齢の母が曹操に捕えられたと知り、劉備(玄徳)の元を泣く泣く去ってしまいます。

天下三分の計

早く人材を揃えたい劉備(玄徳)は、去り際の徐庶から諸葛亮の居場所を教えてもらい、自ら赴いていきます。一度だけではなく、二度目も諸葛亮に会えなかったことで、護衛に就いていた張飛が諦めるように促します。しかし、劉備(玄徳)の決意は固く、三度目の訪問を実施し、とうとう2人は会えることができました。

諸葛亮は劉備(玄徳)の三顧の礼に対して恐縮し、代わりに天下三分の計を授けます。これは魏の曹操や呉の孫権といった強大な国と対決するのではなく、荊州を支配下に収めてその兵力で益州を奪い、呉の孫権と同盟を結んで共同で東と西から北上し、魏の曹操に対抗するという算段でした。

天下を三等分にするという発想は当時の劉備(玄徳)にはなく、これなら確かに曹操に対抗できる戦力を確保することができると確信します。諸葛亮の先見に感服した劉備(玄徳)は何としても配下になってほしいと懇願し、その心意気に折れた諸葛亮は幕僚として劉備(玄徳)陣営に帰参します。

劉表が死に、激変する荊州で人を裏切れない誠実さの劉備(玄徳)

諸葛亮が配下に加わったころ、荊州の支配者だった劉表が病気で亡くなります。次男の劉琮が後継者となり、長男の劉琦は諸葛亮に相談して荊州から逃げ延びます。諸葛亮はこのゴタゴタの際に劉琮を討って荊州を奪うと曹操に対抗できると進言しますが、劉備(玄徳)は迎え入れてくれた劉表や荊州の民に申し訳ないと感じて断ります。

この劉備(玄徳)は気持ち的には正しいといえますが、荊州の豊かな土地を確保し、人材を吸収すれば、曹操に対抗できていたのかもしれません。現にこの後は壊滅的ダメージを負うことになりますが、この姿勢が劉備(玄徳)の人気の一つといえるでしょう。誠実さが全面に出ていき、頼れる兄貴分として存在しています。

大軍で南下し始める曹操

劉表が死んだことで、曹操はチャンスと見ると、大軍を以って南下していきます。劉備(玄徳)は物資の豊富な江夏まで逃げようとしますが、劉備(玄徳)を慕って付いてきた十数万の民衆の足並みが揃わず、非常に遅い行軍となりました。

劉備(玄徳)の付き人が民を置いて逃げるように催促しますが、劉備(玄徳)は「自分を慕って付いてきてくれた者たちを見逃せない」と泣けるようなセリフを言い放ちます。しかし、曹操軍の騎馬隊に追いつかれてしまい、劉備(玄徳)の配下たちは強引には民衆から引き離して逃げ出します。

この後は長坂の戦いとなり、張飛や趙雲らが活躍することになっていきます。

関連する投稿


諸葛亮(孔明)を育んだ襄陽は英傑ぞろいの地だった

諸葛亮(孔明)を育んだ襄陽は英傑ぞろいの地だった

三国志きっての天才・蜀の軍師である諸葛亮(孔明)を育んだのは襄陽の隆中でした。そこは英傑がこぞって在野で知を競い合う土地だったのです。どんな人物たちが切磋琢磨していたのでしょうか。


本当の三国志の世界はろくなリーダーがいなかったという驚愕の事実

本当の三国志の世界はろくなリーダーがいなかったという驚愕の事実

三国志の世界には当然リーダー格となる人物がたくさん登場しますが、英雄と呼ばれている人物でも史実をたどればとんでもないミスをやらかしてしまうなどしています。今回は、そんな三国志の本当の世界を辿り、どんなミスがあったかなどを追及していこうと思います。


三国武将。意外な人物同士の共通点

三国武将。意外な人物同士の共通点

三国志正史には900人以上の人物が登場し、三国志演義にも400人を超える人物が描かれています。それだけ多くの人物が登場すると共通点をもっている人物もたくさん出てきます。意外な共通点をもつ人物に気づくと、三国志をもっと楽しく読めるかも知れません。


曹操(孟徳)が所有した伝説の倚天剣と青紅剣

曹操(孟徳)が所有した伝説の倚天剣と青紅剣

乱世の姦雄と呼ばれその名を中国全土にとどろかせた曹操(孟徳)は伝説に残る一対の剣を所有していました。その剣は「倚天剣(いてんけん)」と「青紅剣(せいこうけん)」。どちらも伝説に残る逸品中の逸品です。今回は「倚天剣(いてんけん)」と「青紅剣(せいこうけん)」について詳しく解説します。


諸葛亮(孔明)に追い込まれ、赤壁の戦いに見る曹操(孟徳)の限界 

諸葛亮(孔明)に追い込まれ、赤壁の戦いに見る曹操(孟徳)の限界 

208年、江東・江南支配を目指した曹操(孟徳)でしたが、劉備(玄徳)、孫権(仲謀)の連合軍に阻まれて大敗北を喫します。河北・荊州を制して日の出となっていた曹操(孟徳)の勢いが止まり、三国志が新たな局面を迎えます。そして、結果的には最期まで曹操(孟徳)は江東・江南を支配するに至らなかった彼の限界が、ここに伺えます。


最新の投稿


三国志・董卓のような暴君か、劉禅のような暗君か、呉のラストエンペラー孫皓の器量

三国志・董卓のような暴君か、劉禅のような暗君か、呉のラストエンペラー孫皓の器量

呉の最後の皇帝である「孫皓」。残虐な皇帝として有名ですが、はたしてどのような器量だったのでしょうか。


諸葛亮(孔明)を育んだ襄陽は英傑ぞろいの地だった

諸葛亮(孔明)を育んだ襄陽は英傑ぞろいの地だった

三国志きっての天才・蜀の軍師である諸葛亮(孔明)を育んだのは襄陽の隆中でした。そこは英傑がこぞって在野で知を競い合う土地だったのです。どんな人物たちが切磋琢磨していたのでしょうか。


諸葛亮(孔明)が発明した幻の連弩

諸葛亮(孔明)が発明した幻の連弩

三国志演義では関羽(雲長)の愛刀の青龍偃月刀や張飛(翼徳)の蛇矛(じゃぼう)など、人々を魅了する武器が登場します。そこまで有名ではないものの、諸葛亮(孔明)が発明した当時は画期的な新兵器だった幻の連弩を紹介します。


知られざる三国時代の民衆の文化を考察してみる

知られざる三国時代の民衆の文化を考察してみる

魏・呉・蜀と多くの国々が戦った三国時代ですが、この時代ではなんと約7割の民衆が命をおとしたというとても悲しい現実があります。今回はあえて三国武将にスポットをあてずに三国時代を生きた民衆の文化について考察していこうと思います。


桃園の誓いから生涯関羽(雲長)の相棒となった青龍偃月刀

桃園の誓いから生涯関羽(雲長)の相棒となった青龍偃月刀

関羽(雲長)は桃園の誓いにて劉備(玄徳)らと義兄弟の契りを交わして以降、青龍偃月刀を愛刀としました。軍神と言われるほどの関羽(雲長)の活躍は関羽(雲長)個人の実力だけでなく、青龍偃月刀という武器が優れていたからと言っても過言ではありません。


https://sangokushirs.com/articles/196