魏・呉・蜀 それぞれの主導者の人心掌握術
■ 魏・呉・蜀 それぞれの主導者の人心掌握術
魏・呉・蜀 それぞれの主導者の人心掌握術
魏の曹操(孟徳)、蜀の劉備(玄徳)、呉の孫権(仲謀)の3名の主導者は、各人異なる性格のカリスマ性で己が部下、民の心を掌握しました。3名が長年、王や帝として人々の先頭に立ち続けられた理由は他の人から尊敬や畏怖の念を集めることができ、他の誰よりも人を束ねることのできる力を持っていたからです。
先ほど簡単に「人を束ねる力」という表現をしましたが、それはとても難しいことで部下にどうしたら自分の意図が伝わるのか。どうしたらやる気を引き出すことができるのか。という疑問や悩みは今も昔も部下を抱える立場となった者に必ず訪れる試練です。
今回は、そのような悩みを抱えた方々のために曹操(孟徳)、劉備(玄徳)、孫権(仲謀)が失敗と成功から学び続け、実践してきた人心掌握術をご紹介します。
曹操(孟徳)の場合
■ 曹操(孟徳)の場合
曹操(孟徳)の場合
曹操(孟徳)という主導者は、とても人とは思えないほどのスーパーマンでした。歌を詠まされば素晴らしく、絵も描けて楽器も弾ける。武芸十八般を治め、なおかつ剣術の達人。「孫子」の兵法に自ら注釈を加え、歴史・儀礼・易経・算術・法律の知識を兼ねそろえており、まさに文武両道、あらゆる才能に恵まれた人物でした。
嘘により作戦の成功と味方士気を鼓舞する
■ 嘘により作戦の成功と味方士気を鼓舞する
嘘により作戦の成功と味方士気を鼓舞する
曹操(孟徳)ですが、短所であるはずの嘘をつくことをうまく活用しました。彼は味方も騙されるような嘘をつくことで、作戦を成功に導く。自軍の士気を高めたり後々響くであろう問題を他者に責任転嫁して、自分の清廉潔白を証明するなどマイナス要素である嘘をつくことを自分が成長するための踏み台に変えてみせたのです。
曹操(孟徳)が嘘をついて士気を鼓舞した例は「梅林止渇」の語源となった行軍中における事件や官渡の戦い開戦の折、袁紹(本初)に泣き寝入りして日が昇るまでの時間を稼ぎ日光が魏軍の背にくるところまで昇ると脱兎のごとく帰陣して呆気にとられる袁軍に矢を一斉発射させる奇計などです。
お金の使い道と邪魔者の排除(合理主義)
■ お金の使い道と邪魔者の排除(合理主義)
お金の使い道と邪魔者の排除(合理主義)
さらに驚くべきは、彼のお金の使い方です。王や貴族などは毎日食事にありつけることができるし、一国の丞相ともなれば生涯衣食住に事欠くようなことはありません。ところが、曹操(孟徳)は家族や部下に倹約をすすめ、自らその手本となって質素な生活を実践しました。また、その倹約の徹底ぶりはこまかく、家臣に禁酒令を発布したり自身が愛用した食器は漆器という具合でした。
そして普段はケチケチしていても戦争の恩賞や凱旋時の祝賀は金に糸目をつけることなく盛大に行い、「戦に勝てば生活が豊かになる」という洗脳を兵士にしていったのです。
そして彼が後世の人々によく思われていない原因となっているのが、邪魔者に対する所業です。かつて董卓暗殺を失敗し、逃亡する最中彼は父親の親友である呂伯奢(りょはくしゃ)の家に泊まりました。そしてごちそうを用意するために牛刀を研いでいた音を敵襲と勘違いして呂伯奢の家族を皆殺しにしてしまいます。一宿一飯の恩を仇で返しただけではなく家に帰った呂伯奢が役人に訴えることを恐れて道中で殺害します。また、孔子から20代の末裔にあたる孔融も自分の意見にいちいち反論してくるので、難癖をつけて家族もろとも根絶やしにしました。もっとも恐れるべきはかつて「我子房」と言って重用し、駆け出しのころから股肱の臣として支え続けた荀彧(文若)に対しては、魏帝就任を制止されたことを不満に思い、「御役御免」の暗号を送って自害させました。
劉備(玄徳)の場合
■ 劉備(玄徳)の場合
劉備(玄徳)の場合
劉備(玄徳)という主導者は「中山靖王 劉勝の末裔」や「劉公叔」といった自身のご先祖様を巻き込んで自分の価値を高めました。当時は先祖の名前がその人のことを評価する材料にもなり得たのです。さらに劉備(玄徳)は漢が掲げる「孝」の精神を規範として政治を行い、他人にやさしく自分に厳しく。謙虚かつ仁義を貫き通して生涯功徳を積み続けた人物でもあります。しかしながら、劉備(玄徳)という男は、魏の曹操(孟徳)、呉の孫権(仲謀)に比較すると、可哀想なくらい才能がありませんでした。
武器は「仁義」「涙」「お願いごと」
■ 武器は「仁義」「涙」「お願いごと」
武器は「仁義」「涙」「お願いごと」
劉備(玄徳)の武器といえば仁義、涙、お願いごとでしょう。仁義によって仲間同士のつながりを強め、涙を流しては民衆や家臣に同情を誘いました。
長坂波の戦いでは自分の嫡子を放り投げて、ボロボロ状態で帰還した趙雲(子龍)の功を労い、家臣たちは家族よりも頼られていることを実感したそうです。
そして劉備(玄徳)は他の二人がやりたくてもできないことをやってのけて部下たちをうまく操りました。それは「お願いごと」です。劉備(玄徳)は「できないことはできない」と自分が判断したら、はっきりそう言うし、「わからないことはわかないから教えてくれ」と言える主導者でした。曹操(孟徳)や孫権(仲謀)は「まず主導者たるものがわからないことがあってはならない」と自分にプレッシャーをかけるような部分がありました。ところが劉備(玄徳)は実に謙虚な姿勢で自分ができないことをお願いしたり、わからないことを平気でいろいろな人に聞きました。一説によると劉備(玄徳)はその者が学問に長けていれば流浪人であろうと子供であろうと最敬礼をして教えを乞うたと伝えられています。劉備(玄徳)のこのような行動は家臣たちに「私がやらなければならない」という使命感や責任感を生みました。
孫権(仲謀)の場合
■ 孫権(仲謀)の場合
孫権(仲謀)の場合
孫権(仲謀)は曹操(孟徳)、劉備(玄徳)の子供世代にあたる主導者で、他ふたりが一から基盤を作ってきたことに比べれば父親や兄がある程度整えたところでバトンを渡された立場でした。一見楽そうに見えるポジションだとは思いますが、その立場なりの苦労がありました。
古参家臣と新参家臣、母親の意見
■ 古参家臣と新参家臣、母親の意見
古参家臣と新参家臣、母親の意見
孫権(仲謀)が呉の君主に就任した当初いちばん苦労したのは周りをとりまく人々に対する立ち振る舞いでした。呉発足当初から父親孫堅(文台)に仕える古参家臣と兄孫策(伯符)が人材登用したりヘッドハンティングしてきた新参家臣、聡明で偉大な母親という存在のトライアングルの中に1人封じ込められた形でどのように接したらよいのか頭を抱える毎日でした。古参家臣にはそれこそ養育係として仕えた家臣や切り込み隊長の黄蓋などがいるし、新参家臣には魯粛や周瑜(公瑾)らがいます。古参家臣の意見を重用しすぎると新参家臣が不満を漏らし、新参家臣の意見を重用すれば古参家臣の顔が曇るといったように周りを取り囲む部下に気を使い、どちらかに傾くと一方が離反するような恐れがありました。また、母親の呉国太は聡明な女性として知られる方で母親の意見も拒むのが難しい状況でした。
孫策(伯符)が太鼓判を押す「人選の目」
■ 孫策(伯符)が太鼓判を押す「人選の目」
孫策(伯符)が太鼓判を押す「人選の目」
孫策(伯符)が臨終する際、弟の孫権(仲謀)にこのような遺言を残しました。「お前は戦うことに関しては俺に及ばないが、お前の人を見る目には俺のそれは及ばない。お前はそれをうまく使って守れ」でした。要するに「お前には人を見る目がある」と言いたかったのです。
孫策(伯符)の予言は的中します。まず周瑜(公瑾)が憤死するとその後釜に親蜀派だった魯粛を任命して蜀との関係を良好に保ち、魏をけん制し続けました。そしてもともと字も知らないような呂蒙(子明)に学問を進め文武両道な腹心を得ました。さらに文官出身の諸葛瑾を大将軍に抜擢して外交と経済に明るい将軍を作りました。
以上のように人事のセオリーを全く無視して成功に導いたケースは非常に稀です。人にはそれぞれできることとできないことがあります。孫権(仲謀)は家臣の能力を詳細に把握して人事を行い、可能性があれば、その能力をうまく引き出すことをしていました。
まとめ
■ まとめ
まとめ
魏の曹操(孟徳)・呉の孫権(仲謀)・蜀の劉備(玄徳)それぞれの人心掌握術について記事にしました。部下のやる気を引き出しつつ、育てていくことは大変難しく社会に出た以上は誰しもが通る試練です。おそらくこちらの記事で紹介した3人も悩んでは実践してみて、成功や失敗を重ねて自分のやり方を見つけたのでしょう。
なにをすればよいのかわからないのなら、先人たちが実践した方法を調べてみて参考にするのもひとつの手です。