三国志・韓遂の「手下八部」メンバー紹介

三国志・韓遂の「手下八部」メンバー紹介

曹操に対して反乱を起こした韓遂と馬超。それに従った関中の軍閥八人についてお伝えします。


地方で反乱を続けた大物・韓遂

韓遂、字は文約。涼州金城郡の出身で、若い頃は計吏として洛陽の朝廷に出仕し、大将軍・何進に宦官殲滅の進言をしたこともありました。
地元に戻ってからは、羌族からの信頼を得ていたこともあり、その反乱に手を貸すことになります。しかし董卓らが率いる官軍に倒され退却します。その後は馬騰と共にまたも反乱を起こし、今度は皇甫嵩に敗れました。
董卓の死後、長安に進軍し、董卓の後継者である李傕らと和睦しました。そこで鎮西将軍に任じられています。馬騰とはその後も義兄弟の契りを結ぶなど良好な関係を結んでいましたが、涼州の覇権を巡って対立し、韓遂は馬騰の妻子を殺害してしまいます。このとき朝廷から遣わされた鍾繇によって和睦し、子供を人質として朝廷に差し出しています。

しかし曹操の関中への侵攻に対抗するために再び反旗を翻しました。手を結んだ相手は関中の軍閥、それに馬騰の長子・馬超でした。この反乱により韓遂は人質に出していた子供を失うことになり、馬超は朝廷に出仕していた父・馬騰の他、弟の馬休と馬鉄が処刑されてしまうのです。

211年、関中軍閥VS曹操軍

曹操は漢中の張魯を降すために兵を出しましたが、自分たちの領土を侵されることを危惧した関中の軍閥は連合して曹操軍に立ち向かいました。
曹操は重臣である曹仁を潼関に向かわせて守備させて時間を稼ぎ、その後は曹操自らが軍勢を率いて韓遂らに対峙しています。

韓遂らは10万の兵力でしたが、曹操軍はそれ以上だったようです。なかなか打つ手がない韓遂らでしたが、曹操が黄河を渡り進軍する隙を見逃しませんでした。総大将である馬超自らが先陣をきって曹操の首を狙います。熾烈な突撃で、曹操も危機に瀕しますが、ここは警護役である猛将・許褚の働きで難を逃れました。
曹操は対応策を改め、軍師である賈詡の進言に従い韓遂と馬超に「離間の計」を仕掛けます。これが功を奏し、韓遂らの連合軍は一気に崩れていくのです。

韓遂の手下八部とは

韓遂の「手下八部」とは、「三国志演義」の脚色になります。本来は関中にあって有力な独立した軍閥です。ですから「三国志正史」と「三国志演義」では描かれ方が違っています。

ちなみにこの手下八部のメンバー構成は、梁興、李湛、成宜、馬玩、程銀、侯選、楊秋、張横の八人です。この中で後に曹操に降ったのは、楊秋、侯選、程銀の三人になります。
それぞれ正史と演義でどう描かれているのか確認していきましょう。

馬玩と梁興

馬玩については、正史では関中の軍閥として韓遂らに加担したという記載しかありません。活躍もその後の生死も不明になっています。
演義では、離間の計の後に馬超が韓遂を疑い襲撃してきたところで登場。韓遂を守って馬超と戦いますが、討たれています。

梁興については、正史によると韓遂らが敗退した後も略奪などを続け曹操軍に抵抗します。しかし派遣された夏侯淵によって討たれています。
演義では、馬玩と同じく襲撃してきた馬超と戦い、馬玩の次に討たれています。正史と演義では討たれた相手も時期も異なるのです。

成宜と李湛

成宜については、正史によると離間の計によって混乱した際に曹操軍に攻められ、ここで討たれています。この成果が曹操の魏公昇進の理由のひとつに数えられました。それだけ大きな勢力だったのではないでしょうか。
演義では曹操の本陣を偵察に行き、そこで伏兵の罠にかかり、夏侯淵によって討たれています。正史に比べると軽めの取り扱われ方です。

李湛については、正史によると成宜同様に曹操軍に攻められて敗れ、討たれています。
演義では離間の計で韓遂に襲い掛かった馬超と戦い、韓遂の援軍として駆けつけた于禁の流れ矢に当たって命を落としました。

程銀と張横

程銀については、正史によると韓遂らが大敗した後に漢中の張魯のもとに逃げ込んでいます。しかし張魯は曹操に降伏してしまいます。こうして程銀も曹操に降ることとなるのですが、本領は安堵されました。
演義では韓遂らとともに長安を落としますが、曹操の主力が到着すると、渭南の戦いで曹操軍に敗れ、討たれています。正史とは異なりかなり序盤で戦死した設定になっているのです。

張横については、正史ではほとんど名前が登場せず、曹操軍によって序盤で敗れたという記載だけです。
演義では程銀とペアとして描かれており、渭南の戦いで程銀とともに戦死しています。亡くなるのは、正史も演義もほぼ同じタイミングではないでしょうか。

楊秋と侯選

八人の軍閥の中で最も出世することになるのが楊秋でしょう。正史では韓遂らが大敗すると、楊秋は安定郡に逃走します。しかし曹操の追撃は厳しく、侵攻してきた夏侯淵と張郃の前に降伏することになります。曹操の陣営に降ってからは、討寇将軍まで昇進し、臨涇侯に封じられています。
演義でも韓遂が曹操に降伏する際の使者に選ばれ、曹操に降ってからは列侯に封じられています。曹操に降ってから活躍しているのは正史も演義も同様です。

侯選については、正史では曹操に敗れてから程銀と共に漢中の張魯のもとに逃れ、その後は曹操に降伏しています。本領安堵は程銀と同様の扱いです。
演義でも曹操に降伏し、列侯に封じられています。正史は程銀とペアにしていますが、演義では楊秋とペアにしているのです。

まとめ・それぞれの力量は未知数

精鋭揃いの関中連合軍ですから、八人の軍閥たちもそれぞれ武勇に優れていたと思われますが、その活躍ぶりはほとんど描かれていません。想像するに器量の優れていたのは成宜と楊秋なのかなと思います。

関中連合軍の征討には夏侯淵が活躍していますが、夏侯淵はそのまま涼州や漢中方面の司令官としてこの地に残り、やがて侵攻してくる劉備(玄徳)の勢力とぶつかり合うことになるのです。有名な定軍山の戦いですね。楊秋あたりはおそらく曹操軍の一員としてこの戦いに参加していたのではないでしょうか。

ちなみに韓遂は、正史では離間の計で分裂した後も曹操には降らずに対抗しています。214年には夏侯淵に敗れ、翌年に味方に裏切られその首を曹操に送られています。
演義では韓遂は曹操に降伏しており、西涼侯に封じられています。正史と演義では反乱後の描かれ方がまったく異なりますね。

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