黄巾党と一緒に反乱
■ 黄巾党と一緒に反乱
黄巾党と一緒に反乱
韓遂の名が正史に出てくるのは三国志の中でも初期、黄巾党の乱の時期です。異民族の多かった涼州の地で184年に反乱を起こします。そして、討伐軍として皇甫嵩、張温、董卓など三国志演義でも見覚えのある名前の将軍たちがやってきます。官軍と反乱軍は勝ったり負けたり、とったりとられたりを繰り返していきます。この時期、韓遂とともに反乱軍として戦った者に馬騰がいます。漫画やゲームですと、韓遂が馬騰の配下(それも軍師)であるかのようにされていることが多いかと思いますが、馬騰と同じ立場、それも反乱軍側のリーダーの位置だったのです。また、演義ですと正義の将軍のように書かれていることの多い馬騰も反乱軍だったというのは意外に感じる方も多いと思います。
史実と演義で同じ!?董卓軍と決戦
■ 史実と演義で同じ!?董卓軍と決戦
史実と演義で同じ!?董卓軍と決戦
董卓が死んだ後、長安では李傕・郭汜が呂布を追い出し、実権を得ます。韓遂は馬騰と共に彼らに恭順の意を示し、挨拶に出向き、官職を得ます。ところが、馬騰が心変わりをし、李傕・郭汜を攻めようとします。この時に、韓遂、そして益州の劉焉と同盟を結ぼうと持ち掛けます。劉焉はその話に乗りますが、韓遂は馬騰と李傕を和睦させようとします。が、うまくいかず、結局韓遂も馬騰と一緒に李傕・郭汜軍と戦うために出陣します。演義と一緒ですね。演義では一騎打ちで李傕・郭汜軍の武将を討ち取った馬騰の息子馬超でしたが、正史には記載されていません。この戦いは、同盟者である劉焉との連携がうまく行かず、韓遂は敗れます。そして、演義同様に樊稠軍に追いつかれますが、旧知であったので見逃してもらいます。演義では正義のために、李傕・郭汜達の横暴を見逃せず、馬騰とともに挙兵したとありますが、史実では、野望のために馬騰が挙兵し、講和させる(おそらく自分にとって都合良いからでしょうが)のに失敗したのでそれに付き合って挙兵した、とだいぶ変わってきます。
涼州に逃げ帰った韓遂と馬騰ですが、初めは意気投合して義兄弟になりますが、その内、殺し合いを始めちゃったりします。韓遂が知将どころか血気盛んであることがよく伝わってきます。
馬騰よりも曹操と仲良し!?
■ 馬騰よりも曹操と仲良し!?
馬騰よりも曹操と仲良し!?
馬騰と殺し合いをしていた韓遂ですが、曹操より和睦の提案が来ます。曹操は袁紹との決戦を行おうとしていて、後方である関中がを安定させたかったのです。曹操が韓遂と馬騰の和睦のために派遣したのが、演義でも長安の守将として登場してくる鍾繇です。鍾繇の言葉に従い、韓遂は馬騰と和睦をし、その後は馬騰と共に曹操軍の配下になることを誓います。演義を読んだ人には韓遂はともかく馬騰が曹操の配下となることに若干違和感があるかもしれません。これが献帝を担いでいる曹操軍の強さです。献帝が曹操のもとにいる限り官軍は曹操軍です。曹操の言うことを聞かないのは賊軍となってしまいます。本人たちの思惑がどうであったかはわかりませんが、韓遂と馬騰はそろって曹操の配下となりました。その後、韓遂は家族を人質に曹操の元に送り、馬騰は西涼の軍勢や地位を息子の馬超に譲り、朝廷に出仕します。言ってみれば馬超の人質に馬騰が自らなったのに等しいわけです。
最大の見せ場--曹操との決戦
■ 最大の見せ場--曹操との決戦
最大の見せ場--曹操との決戦
その後しばらくすると、曹操は関中の張魯を征討するために軍をおこします。すると、韓遂、馬超をはじめとする西方の諸侯たちは自分たちも討たれるのではないかと疑心暗鬼を起こします。そして、血気盛んな馬超はついに兵を起こす決心をします。その時、馬超が韓遂に言ったのが
「私はこれから父を捨て、あなた(韓遂)を父としていきます。あなたも(曹操の人質になっている)家族を捨て、私を息子としていってください。」
です。馬超が好きな人はとても信じられないかもしれません。ですが、これが正史に残っていることです。もっとも、三国志の時代の中国では普通の価値観なのかもしれません。
韓遂と馬超は兵を起こします。同時に他の西方の諸侯たちも挙兵します。演義では、韓遂の配下として書かれていた程銀や楊秋たちも諸侯の一人として兵を率いていきます。正史では、西涼軍は韓遂と馬超が率いていた軍勢ではなく、諸侯の連合軍だったのです。
この戦いは中々決着がつきません。曹操の兵も強いですが、異民族たちが多く厳しい環境で鍛えられてきた西涼兵も強いです。演義では一騎打ちという形で書かれていましたが、馬超や許褚の武勇がいかんなく発揮されます。そして、武勇で決着がつかないならば、知略でということになります。そうなると、名だたる軍師が揃っている曹操軍が有利です。軍師賈詡の有名な離間の計が炸裂します。曹操が韓遂と昔話をしたり、馬超に疑われるような手紙を韓遂に送ったりと色々やっていきます。そして、韓遂と馬超が不仲になり、軍勢の足並みが乱れたところで曹操軍が攻撃を仕掛けると、韓遂たちはとても支えきれず、西涼に逃げ帰ります。
賈詡の策略も見事ですが、勝負を決定づけたのは軍隊としての構成でしょう。曹操の配下として一枚岩であった曹操軍に対して、韓遂や馬超たちは連合軍。それぞれの利害が絡んで思い切った行動が取れないというのは、いつの時代のどこの国でも連合軍の弱点です。
最後は曹操軍に追い詰められて殺害
■ 最後は曹操軍に追い詰められて殺害
最後は曹操軍に追い詰められて殺害
演義では韓遂は曹操軍の軍師賈詡の離間の計にはまった馬超によって左腕を切り落とされます。その後は曹操に降伏して夏侯淵と共に関中におかれます。そして、その後の韓遂については記載がありません。演義においてのことですが、最終的には曹操軍に属したということになります。この辺りが馬超ファンからしてみれば、「韓遂は裏切り者だ、許せない」ということになるのでしょう。
ところが、正史ですと全然変わってきます。曹操軍の軍師賈詡の離間の計を受けるところまでは一緒です。韓遂と馬超の足並みが乱れたところで曹操は攻撃を仕掛けます。この攻撃によって、韓遂も馬超も涼州に逃げ帰ることになります。その後、征西将軍である夏侯淵が涼州に攻めてきます。韓遂も異民族と手を組んだりして、必死に抵抗しますが、夏侯淵の前に敗れます。このようにして韓遂の勢力はどんどん弱まっていきました。最終的に曹操が張魯を遠征した際に、周りの諸侯に首を取られて曹操に献上されてしまいます。
演義のイメージと違って血気盛んな野心家
■ 演義のイメージと違って血気盛んな野心家
演義のイメージと違って血気盛んな野心家
韓遂が知将で裏切り者というのは正史では(演義でもちょっと違うとは思いますが)全く当てはまらない、事実無根ということがわかります。本当は最後まで曹操に牙を向き、野望を強く持っていた群雄だったのです。それも死ぬまでほぼ反乱軍側で戦っていました。戦うために常に大義名分を掲げていた曹操とは対極的かもしれません。だからこそ結局曹操に滅ぼされてしまったのでしょうね。