一人で三国の戦力図を変えた男馬超(孟起)について

一人で三国の戦力図を変えた男馬超(孟起)について

三国志の中でも最も強い将軍と言われていた一人、馬超(孟起)という男をご存知でしょうか。五虎将軍の一人として劉備軍になくてはならない存在でした。彼の武力存在感について紹介したいと思います。劉備(玄徳)にとって彼が仲間に加わったことはとてつもなく大きな出来事だったことでしょう。


馬超(孟起)+韓遂VS曹操軍

馬超(孟起)+韓遂VS曹操軍

馬超(孟起)+韓遂VS曹操軍

馬超(孟起)が強いといわれているにはもちろん理由があります。馬超(孟起)はもともと曹操(孟徳)に服属していましたが、父である馬騰(寿成)の義兄弟である韓遂とともに反乱に起こします。しかもこの際曹操(孟徳)の手元には父親や兄弟が人質同然にとられていました。それでも馬超(孟起)は果敢に曹操(孟徳)に挑みました。馬超(孟起)の勢いはすごく曹操軍は翻弄されました。ついには曹操(孟徳)は、たった一騎で馬超(孟起)から逃げざるを得ないというところまで追い詰められたのです。
曹操(孟徳)は結局逃げ切り体制を整えることに成功。何とか持ち直し今度は逆に馬超(孟起)達を打ち滅ぼしたのでした。
馬超(孟起)の恐ろしいところは一度破れても果敢に挑み再戦を挑んだところです。再度敗れ今度は妻子が殺されました。ぼろぼろになった馬超(孟起)ですが、曹操(孟徳)をあと一歩まで追い詰めたことから馬超(孟起)は曹操(孟徳)の天敵でしかなく、実際に語られている以上に曹操(孟徳)を震え上がらせる存在だったことでしょう。

馬超(孟起)VS許楮(仲康)

馬超(孟起)VS許楮(仲康)

馬超(孟起)VS許楮(仲康)

馬超(孟起)が曹操(孟徳)を攻め落とせなかった理由の一つとして許楮(仲康)の存在が挙げられます。曹操(孟徳)のボディーガード的存在である許楮(仲康)は再三曹操(孟徳)のピンチの際に立ちはだかり馬超(孟起)が曹操(孟徳)に危害を加えるのを阻止しています。
その結果許楮(仲康)がいなければ曹操(孟徳)は命を落としていたとまで言われているくらいです。
さて、この馬超(孟起)が曹操(孟徳)を追い詰めた際に許楮(仲康)が立ちはだかり一騎打ちをしています。錦馬超と言われ「美と戦闘力を兼ね揃えている」馬超(孟起)が勝つのか「単純なパワーだけなら恐らく三国志一であろう忠誠心の塊」許楮(仲康)が勝つのか見ものです。結果は100合ほど打ち合っても決着がつかないという熾烈を極める勝負でした。勝負ではドローだったわけですが、馬超(孟起)を足止めできたという意味においてこの勝負は許楮(仲康)の勝ちといってもいいのではないでしょうか。
しかし、馬超(孟起)も「あの許楮(仲康)相手に互角の戦いをした」ということで武力は高く評価されました。

はめられた馬超(孟起)

はめられた馬超(孟起)

はめられた馬超(孟起)

そして曹操(孟徳)の首を取れなかった理由がもう一つあります。それは賈詡(文和)の策略によるものです。曹操(孟徳)が馬超(孟起)にここまで苦戦を強いられる理由を馬超(孟起)と韓遂がしっかり手を結んでいるからだと考えたのです。ここで賈詡(文和)はこの二人の仲たがいをすることを進言します。賈詡(文和)の作戦は戦いの最中であるというのに曹操(孟徳)に韓遂と会合させたのです。ところが韓遂が行っても他愛のない昔話しかしなかったのです。
馬超(孟起)は不振に思い韓遂に問いただしたが「曹操(孟徳)と話をしたが他愛のない話だった」と返されました。この非常時にそんなことをするのか?と馬超(孟起)は不振に思いましたがここでは韓遂を信じることにしました。
その数日後、韓遂のもとに曹操(孟徳)から手紙が届きました。しかしその手紙はすべて炭で黒く塗りつぶしてあるという奇妙なものだったのです。これを見た馬超(孟起)はいよいよ怪しいと思い激怒しました。なだめる韓遂に馬超(孟起)は「ならば曹操(孟徳)を連れてこい。そこで曹操(孟徳)を斬る」といったのです。
もちろん韓遂は曹操(孟徳)を呼びました。ところが現れたのは曹操(孟徳)ではなく曹洪(子廉)でした。そして曹洪(子廉)は韓遂に向かって「例の件頼みましたぞ」と言ったのです。わけのわからない韓遂でしたが、これに怒ったのは馬超(孟起)でした。
馬超(孟起)は曹操(孟徳)と韓遂がつながっていると思い韓遂に斬りかかったのです。
韓遂はこの時左腕を切り落とされますがなんとか逃げ切り、曹操(孟徳)に降伏しました。
すべて賈詡(文和)の思い通りとなり、二人は仲たがいし、馬超(孟起)の勢力は弱体しました。
それにより曹操軍の前に敗北を喫することとなってしまったのです。

どうしようもなくなった馬超(孟起)

どうしようもなくなった馬超(孟起)

どうしようもなくなった馬超(孟起)

どうしようもなくなった馬超(孟起)ですが、やがて曹操(孟徳)のライバルである劉備(玄徳)の軍門に下ります。はっきり言ってこの電撃移籍は他国にとって衝撃としか言いようがなく、独立勢力を保っていた劉璋(李玉)は劉備(玄徳)に投降。それにより劉備(玄徳)には戦わずして蜀が手に入ったのです。ここに、諸葛(孔明)の唱えた天下三分の計が実現したのです。
話は元に戻りますが、いかに馬超(孟起)の存在感がすごかったかということが物語れます。たった一人の動きが中華全土を揺るがし、戦わずして勢力図を変えてしまったのです。

劉備軍に入ってからの馬超(孟起)

劉備軍に入ってからの馬超(孟起)

劉備軍に入ってからの馬超(孟起)

そんな馬超(孟起)は劉備軍に入って五虎将軍の一人として重用されました。格的に言えば関羽(雲長)よりは下ではあるが、義兄弟の一人である張飛(翼徳)と同格とされていました。とはいえ劉備軍に入ってからの馬超(孟起)はこれといった目覚ましい活躍をすることなく、その生涯を遂げています。
野球で言えばFAを取得した選手が鳴り物入りで入ってまったく活躍しなかったという感じでしょうが、入る前の功績を考えたらいくら馬超(孟起)を獲得しその後報酬を与えたとしてもおつりがくるくらいセンセーショナルな出来事だったのではないかと思います。
そして馬超(孟起)がいることにより曹操(孟徳)が肝を冷やし続けなければいけない生活を送っていたというのも想像できます。
余談ではありますが、彼は劉備軍で活躍しなくてもさほど文句を言われることなく優遇されていました。それは彼が律儀で腰の低い人間であり、関羽(雲長)でさえ馬超(孟起)を重んじていたといます。諸葛(孔明)も馬超(孟起)の人柄を褒めているのでかなり模範となる人物だったということが想像されます。

まとめ

まとめ

まとめ

一人で戦局を変えることができた馬超(孟起)の人生について記載しましたがいかがだったでしょうか。果敢に曹操(孟徳)に戦いを挑みぼろぼろになりながらも劉備軍に下り蜀を劉備(玄徳)のもとに舞い込ませた奇跡の武将と言ってもいいのではないでしょうか。もう少し彼に知恵があり、信じられる参謀がいたら歴史が変わったかもしれません。しかし、賈詡(文和)に翻弄されるのも彼の魅力の一つと言ってもいいのではないでしょうか。


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