とんでもないエピソード満載の張飛(翼徳)について

とんでもないエピソード満載の張飛(翼徳)について

三国志でも超有名人物である張飛(翼徳)。彼は1人で1万人に匹敵する強さを誇り、部下としてさぞ有能のように思えます。その反面酒での失敗や、部下への罰則が厳しすぎるという一面もあります。そんな張飛のとんでもないエピソードについてまとめてみました。


酒癖が悪くて超短気

劉備(玄徳)からみてきっとブレーンは諸葛(孔明)、右腕は関羽(雲長)といった感じだったことでしょう。そして左腕にあたるのが張飛(翼徳)でした。そんな頼もしい存在であるはずの張飛(翼徳)ですが、劉備(玄徳)はたびたび彼に悩まされます。
張飛(翼徳)は酒癖が悪いため、酒を飲むとすぐに厄介ごとを運び込みます。そのせいで尻拭いをさせられるのはいつも劉備(玄徳)や関羽(雲長)でした。酒の席ばかりは、張飛(翼徳)の力の強さはあだとなりました。他人に対してけがをさせてしまったり、部下を鞭で打ったりしていました。
さらには酒を薦めてそれを断る部下がいようものならブチ切れるという有り様。今の時代だったら完璧パワハラで訴えられているレベルです。そんな張飛(翼徳)が改心しなかった理由の一つに劉備(玄徳)の甘さがあったはずです。やはり左腕的存在である張飛(翼徳)に対しては鬼になれず、ついつい許してしまった結果が、彼の短気を助長したのではないかと思います。

酒での失態について

さて、酒癖の悪い張飛(翼徳)ですが、彼はとんでもない失態をやらかしています。それは呂布(奉先)に城を奪われるという大失態です。しかも劉備(玄徳)や関羽(雲長)の留守を預かるため「禁酒の命」を受けていたにもかかわらず、酒を飲んでしまいました。はっきり言って斬首刑されるほどの「そそう」なわけですが、なんと「お咎めなし」という結果に落ち着きました。
「責任とって自害する」という張飛(翼徳)に対し劉備は「兄弟は手足の如く妻子は衣服の如し」(妻子はいつでも変えられるが、兄弟は失ったら二度と戻らない)といって引き留めたのです。
それで「生涯禁酒」「部下につらく当たらない」と改心すればいいのですが、そういった兆しも見せません。
とんでもない張飛(翼徳)ですが、ここまで来るとどことなく愛嬌があると思えるようになりませんか?とはいえこんな上司がいたらすぐに会社を辞めたくなりますが・・・

残虐性に富んでいる張飛(翼徳)

張飛(翼徳)は力が強くて怖い上に、残虐性を兼ねそろえているという一面もありました。特にこと劉備(玄徳)のこととなると特別で、劉備(玄徳)に高圧的な態度をとった督郵(日本でいう検察官のようなもの)にブチ切れ素っ裸にしてしまいました。しかもそれだけでは飽き足らず、柱にくくり付けてむち打ちの刑にしてしまったのです。最終的に督郵は死んでしまったのですが、それで終わりではありません。なんとその死体をバラバラにしてしまったのです。頭を門にかけ、手足を役所の四隅にぶら下げたというエピソードがあります。
とにかくブチ切れさせたら何をしでかすか分からないのが張飛(翼徳)という男なのです。沸点が低く、暴れたら止めることも不可能。こんな性格では周りから煙たがれますが、彼は上の者には結構へつらう性質なので先輩や上司だったら「生きのいい部下が面倒ごとを力で解決してくれる」と本気で思った人もいたことでしょう。

20 VS 5000で相手を退ける

張飛(翼徳)を語る上で忘れてはいけないのが長坂坡の戦いでしょう。とんでもなく扱いづらいイメージがある張飛(翼徳)ですが、一度戦場に出たら彼ほど頼もしい人物はいません。長坂坡の戦いでは劉備(玄徳)が民を引き連れて曹操軍から逃げていました。追っ手の曹操が徐々に迫ってきたところで登場したのが張飛(翼徳)です。張飛(翼徳)は殿で民を逃がす役を任されました。
曹操軍がついに追いついたというところで張飛(翼徳)が命がけの勝負をする者はおらんか!」と一喝した為曹操軍はビビってしまいました。この時張飛(翼徳)の元にいたのはわずか20人。それに対し曹操軍は5000人もいました。戦えば勝てるという状況でしたが、張飛(翼徳)の威圧に押される形となり、曹操軍は劉備軍の追撃をやめてしまったのです。
酒の席での失態を帳消しにするかの如く働きを見せた張飛(翼徳)はやはり只者ではありませんね。

無茶ぶりをしすぎて部下に殺される

張飛(翼徳)は自分の部下である張達と范彊に殺されてしまうというあっけない最期を迎えてしまいます。二人は張飛(翼徳)から「三日以内に白装束を用意しろ」という無茶ぶりをされました。二人は酒に酔っていたところで延期を要求したものだから張飛(翼徳)の怒りは最高潮に達してしまいます。二人は暴行を受けた上に「間に合わせることができなかったら斬る」と脅されてしまったのです
二人は殺されるのはごめんだから逆に張飛(翼徳)の首をはねてしまうのです。まさに身から出た錆といえるでしょう。無茶ぶりをしすぎて部下に強く当たりすぎてしまったために、「どうすることもできない」と悟った部下は逃げるか張飛(翼徳)を殺すかという選択肢しか残っていなかったのでしょう。
ちなみに劉備(玄徳)は張飛(翼徳)が亡くなった際に「ああ、張飛(翼徳)は死んだか」と口にしたと言われています。関羽(雲長)が亡くなった際には怒りのあまり全軍を呉に向ける勢いだったにもかかわらず、張飛(翼徳)が死んだときは結構落ち着いているようにも感じられます。それはもしかしたら「こういうことがいずれあるかもしれない」と心の中で思っていたからではないでしょうか。

意外と手なずけるのは簡単かも

さて、強くて、酒癖が悪くて、残虐性も酷い張飛(翼徳)はかかわらないに越したことはない。そう思われてしまうかもしれません。いくら強くても使い勝手が悪かったり暴走したりするため仲間にはしておきたくないと思う人は少なくないはずです。しかし張飛(翼徳)という男は結構お調子者の面もあり、下の者には強く当たりますが、上の人に対しては結構腰が低かったと言われています。
言ってみれば自分に対しては挨拶をまめにする後輩が、他校とのけんかの際には手が付けられないほどおっかない奴に変わっているといった感じでしょうか。
張飛(翼徳)にやられたくないのであれば彼の上に立つしかありませんね。

まとめ

どうしようもないエピソード満載の張飛(翼徳)はいかがでしょうか。一見パワハラが凄く、関わるとろくなことがないという感じですが、愛嬌はたっぷりで中国でも人気のあるキャラクターです。いい面でも悪い面でもメーターを振り切るほどのトラブルメーカーですが、こういう人物を好きになる人は多いのではないでしょうか。

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