小覇王孫策の生涯 短命に終わってしまった理由は何か

小覇王孫策の生涯 短命に終わってしまった理由は何か

三国志において呉の国は「三代に渡って…」という表現がよく用いられます。初代は孫堅(文台)、二代目は孫策(伯符)、そして後に「呉の大黒柱」と言われ、呉皇帝を名乗る孫権(仲謀)は「三代目」となります。三人の中でも特に浮沈の激しかった二代目、孫策(伯符)の生涯を見て行きます。


決して安泰ではなかった呉国三代の統治

「三代」と言われますが、そのすべてが「安泰」であった訳ではありません。むしろ、その逆で「孫一族」の国主としての歴史は一時期途絶えています。それは、孫堅(文台)の死によるものです。孫堅(文台)は董卓(仲穎)討伐軍に加わっていた際に戦死してしまいますが、その時、長男である孫策(伯符)は17歳、次男の孫権(仲謀)は10歳でした。当時、長沙の太守だった孫堅(文台)ですが、さすがに17歳で「おとうさんの代わりに…」は荷が重かったようです。孫策(伯符)はやむなく当時の大勢力であった袁術(公路)に保護される形で組み込まれて行きます。

ちなみに「三代」というと、すべて「親から子へ」受け継がれているように聞こえますが、三国志における呉国の「三代」は「親:孫堅(文台)」⇒「子(孫堅の長男):孫策(伯符)」⇒「子(孫堅の次男):孫権(仲謀)」となります。孫策(伯符)は若くして(26歳)亡くなるため、孫権(仲謀)と兄弟間で世襲が行われます。また、「孫堅」と「孫権」は両方とも「そんけん」と呼びます。

孫策(伯符)は19歳の時に袁術(公路)から独立

西暦194年、孫策(伯符)は袁術(公路)に揚州を争っている劉繇(正礼)討伐を申し出ます。表向きは「討伐」ですが、真の目的は揚州を取って袁術(公路)から離れる(独立する)ことでした。度量が小さく、悪政を繰返す袁術(公路)に見切りをつけていたことや、孫一族の再興を図りたい…という長男しての責任感が孫策(伯符)を動かしたのです。

この時、孫策(伯符)は1000人の兵で劉繇(正礼)討伐に向かいましたが、この1000人は、元々、孫一族の兵(孫堅の死によって袁術が吸収)だったものを袁術(公路)から返却してもらったとか、当時、孫策(伯符)が所有していた玉璽(董卓討伐の際に偶然孫堅の手に入った王家の印。本物か否かは不明)と引き換えにしたとか、様々な説があります。

孫策(伯符)は揚州の劉繇(正礼)、呉郡の許貢、会稽郡の王朗(景興)などを次々と撃退して行き、軍勢も5000人規模に膨れ上がります。周瑜(公瑾)や太史慈(子義)もこの頃に孫策(伯符)軍に加わります。198年頃には江南、江東をほぼ制圧し、「小覇王孫策」と呼ばれるようになります。

長く続かなかった絶頂期 高すぎた能力が裏目に

武勇に長け、学識もあり、会話を好むがために人望も厚く、カリスマ性も持ち合わせていた孫策(伯符)、一時は帝を擁する曹操(孟徳)をも脅かす存在になりましたが、絶頂期はそう長く続きませんでした。

劉繇(正礼)討伐から僅か4~5年で江南、江東を平定…このあまりにも急激な勢力拡大が裏目となり、各地に撃退された軍勢の残党を残し、抵抗勢力の温床となってしまったのです。結局、孫策(伯符)は抵抗勢力が放った刺客に襲撃され、その傷が元で命を落としてしまいます。26歳という若さでした。

孫策(伯符)の気性を象徴する于吉仙人の逸話

三国志演義で語り継がれている孫策(伯符)の死の原因には于吉という人物が深く関わります。于吉は「人々の病を治すありがたい仙人」として知られ、呉国内の人民のみならず武将や孫策(伯符)の母までもが崇拝していました。

孫策(伯符)が刺客から受けた怪我の療養中のある日、袁紹の元から使者として訪れた陳震(孝起)を持て成すために、城門の楼上で宴会を開いていると、そこに于吉が通りかかります。すると、宴会に参加していた武将や賓客のほとんどが、楼を降りて于吉を出迎え礼拝してしまいました。「あ!于吉仙人だ!!」…ってな感じのちょっとした騒ぎです。

この様子を見ていた孫策(伯符)、「こんな妖術使いへの崇拝が人心を惑わし国を亡ぼす」として、于吉を捕えてしまいます。于吉を崇拝している人々の目の前で、于吉は縛られ、連行されて行きます。その姿を見て皆、嘆き悲しみます。于吉を釈放するよう孫策(伯符)への上申が相次ぐことは言うまでもありません。

しかし、孫策(伯符)は考えを曲げません。武将や孫一族にまでも于吉の信者がいる訳ですから、孫策(伯符)は次第に孤立して行きます。

そこで孫策(伯符)は人民の目を覚まさせるために于吉に難題を突き付けます。「干ばつが続いているから雨を降らせよ。それが出来たら釈放してやる。」と言って于吉に雨乞いの祈祷をさせるのです。ところが、孫策(伯符)の目論見とは裏腹に激しい雷雨が江東、江南地方に降り注ぎ、なんと干ばつが解消されてしまいます。人民の目を覚ますどころか、信仰心をますます深める結果となってしまったのです。

しかし孫策(伯符)は「天候は天意によるもので人の関与で動かせるものではない」と言い、釈放の条件を反故にし、その場で于吉を殺してしまいます。

于吉仙人の呪

于吉が死んで以後、孫策は度々于吉の幻影を見るようになります。母の勧めでお払い行くと、香の煙りの中から于吉が現れる。やつれた自分の顔を見ようと鏡を覗くと、死んだ筈の于吉の姿が見える。後ろを振り返っても誰もいない…その度に孫策(伯符)は剣を抜き、于吉に襲い掛かり、体力の限界まで暴れまわり、バッタリと倒れる…そんな生活が続きました。

そしてある夜、同じように于吉の幻影に襲いかかった時に治りかけていた傷口が割けて大量の出血をしてしまいます。死期を悟った孫策(伯符)は後継を弟の孫権(仲謀)に委ねて息を引き取ります。

同じような逸話は曹操(孟徳)にもある 左慈仙人の話

実は同じような逸話が曹操(孟徳)にもあります。于吉の話からはかなり後年、すでに曹操(孟徳)が魏王となっていたころの話です。

「左慈」という老人が曹操(孟徳)の前に表れ、「中身のない蜜柑(見た目はしっかりした蜜柑なのに皮をむくと中身がない)を差し出す」「酒5斗を飲んでも酔わない、羊を1頭を食べても食べ足らない」「歩いている左慈を馬で追いかけても追いつけない」など不可思議な出来事を曹操(孟徳)の前で起こして見せます。

そして、「天下は劉備(玄徳)に任せてご自身は引退なされ」との進言をしたために曹操(孟徳)に劉備(玄徳)からの回し者とみなされ、捕らえられてしまいます。しかし、捕らえられたはずの左慈が突如曹操(孟徳)の前に現れた…かと思うと姿を消し、武将たちに大捜索させるとあちこちから大勢の「左慈」が捕らえられて来ます。

気味が悪くなってきた曹操(孟徳)は捕らえられてきた大勢の「左慈」の全員の首を跳ねます。しかし、その後、何処からともなく大風が吹き荒れ、切り落とされたはずの左慈の頭がコロコロと転がり、元の首につながり、殺された左慈全員が生き返ります。生き返った左慈たちは小躍りしながら何処へと立ち去ってしまいます。

この一部始終を見ていた曹操(孟徳)は混乱して気分を悪くし倒れてしまいます(病床に就くが死にはしなかった)。

まとめ

劉備(玄徳)にこのような逸話はありませんが、彼が荊州で龐統(士元)を得た時、諸葛亮(孔明)と共にいわゆる「伏竜・鳳雛」の二大賢人を自身の参謀に加えられたことに対して「自重しなければ」と自分を戒める場面があります。曹操(孟徳)も左慈の件で倒れてしまったっ事で積極的にではないにせよ「自重させられた」感はあります。

しかし、孫策(伯符)は于吉の件を見る限り、「自重」に至ることがなかったように見受けます。彼を「短命」にしてしまった理由はその辺りにあるのでしょう。

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