三顧の礼 世にも有名な劉備(玄徳)の手厚い招聘
■ 三顧の礼 世にも有名な劉備(玄徳)の手厚い招聘
三顧の礼 世にも有名な劉備(玄徳)の手厚い招聘
三国志を詳しく知らない人でも聞いたことはあるであろう「三顧の礼」。当時、劉表(景升)の客将として荊州に駐屯し、皇叔を名乗っていた劉備(玄徳)が、何の実績もない一書生の諸葛亮(孔明)を軍に招こうとします。
その方法は「劉備(玄徳)自ら出向く」という方法。
通常であれば「諸葛亮(孔明)から劉備(玄徳)を訪問」すべきところ、劉備(玄徳)の行動は真逆。これは、会ってもいない諸葛亮(孔明)に対する劉備(玄徳)の期待の表れでした。司馬徽(徳操)の諸葛亮(孔明)に対する評価や、農民たちの親しみの様子などから、当時、劉備(玄徳)が心から欲していた「軍の頭脳となる存在」に間違いないという確信が持てたがゆえの行動でした。
劉備(玄徳)の2度の訪問はカラ振り(孔明不在)、3度目の訪問でようやく「在宅」となるのですが…
なんと諸葛亮(孔明)は昼寝中!
弟の諸葛均が「起こして来ます」と言うところを劉備(玄徳)は「こちらが勝手に出向いて来ているのだから起きるまで待たせていただきます」と言います。しばらくして諸葛亮(孔明)が目覚め、遂に劉備(玄徳)との出会いが実現。ここまで腰を低くして劉備(玄徳)は諸葛亮(孔明)を自軍に招こうとします。
そんな劉備(玄徳)の想いが通じたのか、諸葛亮(孔明)は劉備軍に加入することとなります。
そんな主君(劉備)の行動が理解できない 関羽(雲長)の不信
■ そんな主君(劉備)の行動が理解できない 関羽(雲長)の不信
そんな主君(劉備)の行動が理解できない 関羽(雲長)の不信
劉備(玄徳)の諸葛亮(孔明)への信愛ぶりは並ではありません。ふたりは毎日のように劉備軍の将来、漢の将来について語り合っています。そんな劉備(玄徳)の行動を古参である関羽(雲長)、張飛(翼徳)は理解できません。「どんな知力があるのか知らんが…所詮、何の手柄も立てていない一書生」。
これが現実です。大人の世界では「実績」がないと評価してもらえないんですねぇ~。
元より張飛(翼徳)は「三顧の礼」の時から「劉備(玄徳)がわざわざ出向くこと」「諸葛亮(孔明)が昼寝していたこと」に対していちいち不満を発していました。最終的には「家に火をつけてやる」と騒ぎ立てます。
張飛(翼徳)の気性から考えれば仕方ないことですが、そんな張飛(翼徳)のなだめ役になっていたのは関羽(雲長)でした。
しかし、そんな関羽(雲長)にすら「今まで生死を共にしてきた将兵をないがしろにしてやしないか…」と不信を抱かせてしまいます。関羽(雲長)の不信…これは劉備軍の士気に大きな影響を与えます。
こんな空気は諸葛亮(孔明)も察していました。
そして間もなく、曹操軍の大将夏侯惇(元譲)が10万の大軍を率いて攻め入って来ました。劉備軍の手勢は5,000…これを軍師として打ち破ることが諸葛亮(孔明)の軍師としての初陣となりました。
…ちょっと無茶苦茶な気もしますが、諸葛亮(孔明)は兵の数に関する心配は何もしていません。むしろ不安は内にありました。「関羽(雲長)と張飛(翼徳)は諸葛亮(孔明)の命には服さない」という不安です。
1回勝負をモノにする諸葛亮(孔明) 博望坡で夏侯惇(元譲)を手玉に
■ 1回勝負をモノにする諸葛亮(孔明) 博望坡で夏侯惇(元譲)を手玉に
1回勝負をモノにする諸葛亮(孔明) 博望坡で夏侯惇(元譲)を手玉に
諸葛亮(孔明)は内に一計を講じます。劉備(玄徳)の剣と総司令官の印綬を借り受け「これ(劉備の剣と印綬)の前で私(諸葛亮)に逆らうは主君(玄徳)に逆らうことと同じ」と言い放つのです。これには関羽(雲長)と張飛(翼徳)も従わざるを得ません。
「仕方ない。試しに一度だけ彼(諸葛亮)の命に従ってみよう」
こんな空気で始まった博望坡の戦いでした。「1発勝負」「1回だけの信頼関係」。諸葛亮(孔明)にとってはなかなか厳しい状況だったかも知れません。しかし「戦いが始まってしまえばこっちのモンさ」ってな感じでしょうか。「戦局は一方的」「諸葛亮(孔明)の思うツボ」「劉備軍の圧勝」にて終結します。兵力10万対5,000…手にする戦利品や曹操軍が残して行った兵糧も相当なモノだったでしょう。諸葛亮(孔明)は劉備軍にはいまだかつてない大勝をもたらします。
初陣で歴戦の猛者夏侯惇(元譲)を圧倒した諸葛亮(孔明)の采配
■ 初陣で歴戦の猛者夏侯惇(元譲)を圧倒した諸葛亮(孔明)の采配
初陣で歴戦の猛者夏侯惇(元譲)を圧倒した諸葛亮(孔明)の采配
博望坡の戦いにおける諸葛亮(孔明)の作戦の根幹は「心理戦」でした。10万の大軍に対して、劉備軍の数は多くても1万(実際は5,000)。これが曹操軍の「読み」でした(まんざら間違ってない)。兵力20倍…。
当然、夏侯惇(元譲)は相手をナメてかかって来ます。「多少の計略があっても押し切れる」この思い込みにより、最初に対峙した趙雲(子龍)の軍勢は、適当に戦って敗走します(諸葛亮の計略による)が、曹操軍は自重することなく構わず猛追してきます。気付いた時には峡谷の奥深くまで大軍で入り込み、身動きが難しい状況。そこに谷の上から火矢を浴びせられ、後ろから関羽(雲長)、張飛(翼徳)の軍勢に、敗走していた趙雲(子龍)の軍勢も方向転換して前から攻撃。曹操軍は散々な目に…。
歴戦の猛者たる夏侯惇(元譲)ですが「谷深く前狭くなるは火計に注意」という戦の大基本を忘れ、兵力に任せて強引に押しまくった末路の大敗。諸葛亮(孔明)にまんまと心理を読まれたことによる敗北でした。
まとめ 軍師としてようやく認知された諸葛亮 関羽の潔さ
■ まとめ 軍師としてようやく認知された諸葛亮 関羽の潔さ
まとめ 軍師としてようやく認知された諸葛亮 関羽の潔さ
この時、曹操軍は7万の負傷者を出したと言われています。諸葛亮(孔明)の見事な采配に感銘した関羽(雲長)は、彼を軍師と認め、拝礼して戦況報告をします。
「軍師、ご報告いたします。曹操軍はことごとく殲滅。残った兵は敗走しました。」
関羽(雲長)の態度には「軍師に対する儀礼」だけでなく「誤解から諸葛亮(孔明)に冷たくあたってしまったことへの詫び」も込められていたように感じられます。そして「誤解が解けたら尾を引かない」「諸葛亮(孔明)を我が軍師と認めた」という潔さは関羽(雲長)の男気も感じるところです。ちなみに張飛(翼徳)も関羽(雲長)と同様の行動を取ったことは言うまでもありません。
こうして、ようやく諸葛亮(孔明)は軍師として劉備軍の仲間入りすることができました。天才軍師の諸葛亮(孔明)といえども内部の人間関係を構築するのにこれだけ苦労しています。内に外に…本当に大変です。