三国志・公孫瓚自慢の「白馬義従」はなぜ袁紹に敗北したのか?

三国志・公孫瓚自慢の「白馬義従」はなぜ袁紹に敗北したのか?

北の覇者ともいえる英雄「公孫瓚」。彼の陣営には最強を誇る「白馬義従」と呼ばれる白馬の部隊がありました。なぜこの白馬義従は袁紹に敗れたのでしょうか。


イケメン公孫瓚

イケメン公孫瓚

イケメン公孫瓚

劉備(玄徳)とは盧植のもとで共に「経書」を学んだ兄弟弟子の関係の公孫瓚。豪族の出自ながら母親の身分が低く、そのために当初は出世できなかったそうです。しかし公孫瓚は才知と眉目秀麗ぶりで注目を集め、太守の娘を妻に迎えて成り上がっていきます。声もよく通る美声であったと伝わっています。血筋や家柄ではなく自身の魅力を活かして存在感を示した辺りは他の諸侯とは一線を画すところかもしれません。

さらに公孫瓚は武勇をもって北の幽州でその名をとどろかせていきます。当時の幽州は異民族である「鮮卑」「烏丸」などに脅威にさらされていましたが、公孫瓚は勇猛果敢に戦い、これを撃退します。反乱を起こした張純に対しても善戦しました。配下には公孫瓚の没後に劉備(玄徳)に仕えることになる名将・趙雲がいたことでも有名です。

公孫瓚自慢の「白馬義従」

公孫瓚自慢の「白馬義従」

公孫瓚自慢の「白馬義従」

公孫瓚は容姿に優れていましたが、乗る馬にもこだわりがあったようで、常に白馬に乗っていたそうです。まさに「イケメン白馬の騎士」そのものですね。異民族からは「白馬長史」と呼ばれ畏怖されたそうです。公孫瓚は配下の中で騎射に優れた者を選抜し、精鋭部隊を作ります。その配下はもれなく白馬に乗ることを義務付けられました。よほど白馬が好きだったんですね。

日本の戦国時代には武田軍や徳川軍の「赤備え」(武田軍の飯富、真田、徳川軍の井伊)が有名ですが、三国志ではこの白馬軍団が有名なのです。その名も「白馬義従」。機動力もあり、騎射も得意とする白馬義従という騎兵部隊を率いて、公孫瓚は幽州で最大の勢力を誇ることになります。

四州に及ぶ公孫瓚の勢力

四州に及ぶ公孫瓚の勢力

四州に及ぶ公孫瓚の勢力

公孫瓚自身はどこの郡の太守でもなく、どこの州の刺史でもありません。奮武将軍であったと伝わっています。しかしその武勇と功績によって大きな勢力を築いていきます。従弟の公孫範はその威を恐れた袁紹から渤海太守の印綬を受けていますし、幽州の牧である劉虞は公孫瓚に殺害され、公孫瓚が代わりに別な人物を幽州刺史に任じるなどの経緯を見る限り、太守や刺史よりも力を持っていたことがうかがえます。

同盟相手も名門袁氏の袁術や徐州牧の陶謙などでした。公孫瓚は幽州だけでなく冀州、青州、兗州にも配下を刺史として派遣させています。これに危惧したのは冀州牧の座を韓馥から譲り受けていた袁紹です。袁紹は同族の袁術と対立していましたから、その袁術と同盟を結んでいる公孫瓚とは完全に敵対関係となっていました。韓馥も公孫瓚の勢力拡大を恐れて袁紹に州牧を譲ったといわれています。

ちなみに「三国志演義」で公孫瓚は、劉備(玄徳)らと反董卓連合に加わり、第十四鎮として登場しますが、こちらは三国志演義の脚色であり、実際は反董卓連合には加わっていません。むしろ董卓の推挙で奮武将軍に昇進しています。

大逆転の「界橋の戦い」:布陣

大逆転の「界橋の戦い」:布陣

大逆転の「界橋の戦い」:布陣

そんな公孫瓚と袁紹が冀州の地で決戦することになります。192年の「界橋の戦い」です。公孫瓚と袁紹の戦いといえば「易京の戦い」を思い出される方も多いと思いますが、そちらはもう大勢が決まっていた状態の籠城戦です。公孫瓚と袁紹の二強の運命を決める一戦はこの買橋の戦いになります。両軍ほぼ互角の兵力でぶつかり合うことになりますが、なんといっても公孫瓚には無敵の「白馬義従」という切り札がありました。

袁紹は公孫瓚と戦う以前に「麴義」という人物を味方につけています。涼州出身で武勇に優れ、羌族といった騎馬民族との戦いにも慣れていたといわれています。袁紹は白馬義従撃退をこの麴義に託したのです。麴義はわずか800の歩兵で先陣し、4万の公孫瓚に対峙します。袁紹軍の主力は袁紹が率いる5万。公孫瓚は麴義を撃破し、袁紹主力に襲い掛かろうと突撃を命じます。しかし、これが麴義の仕掛けた罠だったのです。

大逆転の「界橋の戦い」:決着

大逆転の「界橋の戦い」:決着

大逆転の「界橋の戦い」:決着

公孫瓚の布陣は、中央に3万の歩兵、両翼に5千ずつの騎兵です。じりじり押し進めば麴義の800など圧力で潰せる兵力差でしたが、その後ろに主力の袁紹5万がいるため、ここは勢いをつけたかったのでしょう。一気に突破し、混乱する袁紹の主力を壊滅させようと考えたのだと思います。

公孫瓚の全軍が突撃したので、騎兵が先に麴義の部隊に襲い掛かりました。すると麴義の歩兵は盾を利用し、身をもってその突撃を止めにいきます。公孫瓚の騎兵の進軍の勢いが止まったところを伏せていた弩兵千が攻撃します。麴義は両翼に弩兵を伏兵として配置していたのです。これが見事にはまり、公孫瓚の騎兵は大混乱となりました。しかし、敗戦の中でも白馬義従は袁紹の主力に迫り、袁紹を追い詰めましたがその首を討つところまでは届きませんでした。

この戦いで白馬義従はほぼ壊滅。公孫瓚は一万以上の兵を失うことになります。自らが冀州刺史に任じていた厳綱も麴義の追撃に遭って討たれています。こうして公孫瓚は冀州制圧を諦めることになり、袁紹が冀州全土を支配することになりました。公孫瓚は失意の中で本拠地・薊に帰還します。公孫瓚が幽州牧の劉虞を討ち、幽州全土を制圧するのは翌年のことです。そして199年に公孫瓚は袁紹に追い詰められて自害することになります。

まとめ・白馬義従を倒した麴義のその後

まとめ・白馬義従を倒した麴義のその後

まとめ・白馬義従を倒した麴義のその後

宿敵・公孫瓚の主力を倒した麴義の功績は大きなものです。その後の袁紹軍の大黒柱として他の武将たちを率いることになってもおかしくはないのですが、曹操との官渡の戦いなどには登場しません。なぜでしょうか。三国志演義では麴義は、界橋の戦いで公孫瓚を追い詰めたときに趙雲に討たれています。「三国志正史」にはそのような場面はなく、公孫瓚を追撃、易京で一年ほど公孫瓚と対峙したと記されています。ただし、界橋の戦いの功績を誇りすぎ、傲慢な振る舞いが目立つようになり、袁紹に粛清されてしまったというのです。

もし麴義が生きていたら袁紹配下の勇将である顔良や文醜よりも活躍し、官渡の戦いで曹操軍を撃退できたかもしれませんね。麴義が関羽や呂布などに匹敵する武勇の持ち主だった可能性もあります。逆に公孫瓚にとっては、袁紹軍に麴義さえいなければ白馬義従を失うこともなく、冀州は平定できたかもしれないのです。





この記事の三国志ライター

関連するキーワード


袁紹 公孫瓚 演義

関連する投稿


”天下に最も近かった男” 袁紹はなぜ敗れたのか?

「三国志」前半の主要人物である袁紹(字:本初)。曹操と華北の覇権を争い、西暦200年に官渡の戦いで敗れた。多数の優秀な人材を抱え、圧倒的な優位にたっていたにも関わらず、なぜ袁紹は敗れたのか。その敗因を探る。


そうだったのか!?英雄たちの前職や職歴

蜀の初代皇帝の劉備(玄徳)、関帝聖君として祀られ神様になった関羽、五虎将のひとりに数えられる張飛、漢の丞相となり魏国の基盤を作った曹操も呉を建国した孫権の父孫堅も、もともとは一端の商人や小役人だったのですが、小説やドラマではあまり触れられることがありません。英雄たちはどんな職業について生計を立てていたのでしょうか。


意外?イメージが大きく異なる武将たち

三国志の武将のイメージは三国志演義、そして三国志演義を元にしたもので出来上がってしまっているのですが、実際には案外イメージが異なる武将も多いです。そんな「実際とちょっと違う」武将を何人か挙げてみるとしましょう。


三国志で一番天下に近かった袁紹とは

三国志の登場人物で、一大勢力を誇ったのが河北の英雄【袁紹】です。一時は曹操や劉備(玄徳)、孫権ら三国を形成していく諸将を差し置いて天下統一に一番近い人物といえました。数々の書物では曹操の引き立て役に甘んじている袁紹とはどのような人物だったのでしょうか。


三国志・イケメン荀彧はいったい誰に仕えていたのか!?

曹操が最も信頼した相手とされる「荀彧」。彼は魏の建国を認めず、最期まで朝廷に仕える臣として抵抗しました。今回はそんな荀彧についてご紹介いたします。


最新の投稿


人中に呂布あり ― 奉先、馬中に赤兎あり、呂布入門!

後漢の末、彼の名は風のように戦場を駆け抜けた。呂布、字は奉先。人は「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と讃えたが、同時に「三姓の家奴」と蔑んだ。最強の矛と、最も軽い信。――この二つが、彼の生涯を裂いたのだが、強さ上の人気、呂布について、初めての方に紹介しよう。


馬氏五常、白眉最良」~兄弟の中で最も優れた者~

中国三国時代、馬氏5人兄弟は、みんな優秀な人物でした。その中で蜀の馬良が、最も才能があったそうです。そして、眉に白い毛が混じっていたことから「白眉」とあだ名され、「馬氏の五常、白眉最もよし」と称えられて、故事になりました。どうして、それほど優秀だったのでしょう? エピソードを見てみましょう。


長坂坡の橋で一喝 - 単騎、敵軍を睨み据える

三国志の数ある名場面の中でも、ファンに強烈な印象を残すのが「長坂坡(ちょうはんは)の戦い」での張飛のエピソードです。 「我こそは燕人張飛である!」――たった一人の叫びが、数万の曹操軍を押しとどめたと言われています。


錦の袋の三つの計 ― 周瑜の包囲を破る諸葛亮の知略

周瑜の罠に落ち、孤立無援の劉備軍。だが趙雲の懐には、諸葛亮が託した「錦の袋」があった。三つの計略が、絶体絶命の状況を逆転へと導く。


関羽・麦城に散る~義将の最期と孫権の裏切り

219年、関羽は北伐中に孫権の裏切りに遭い、荊州を失陥。麦城に追い込まれたが、援軍は届かず、脱出を試みるも捕縛される。孫権は処刑を決断し、関羽は義を貫いて散った。その死は劉備の復讐戦(夷陵の戦い)を招き、後世では「忠義の神」として信仰される。孤高の英雄の最期を描く三国志屈指の悲劇。


アクセスランキング


>>総合人気ランキング