蜀の皇帝となった劉備(玄徳)を世に送り出した劉備の母
■ 蜀の皇帝となった劉備(玄徳)を世に送り出した劉備の母
蜀の皇帝となった劉備(玄徳)を世に送り出した劉備の母
三国志で最初に取り上げられる女性です。落ちぶれた劉一門を立て直すために、貧乏な生活に耐えながら劉備(玄徳)に十分な教育を受けさせ、礼儀・作法・武術を身に付けさせます。三国志では様々な演出がなされていますが、「桃園の義」のために酒や肉の手配まで事前にしていたとの話も…。そこまでして我が子に期待し、我が子に投資し、我が子を育て上げた女性です。
劉備(玄徳)が行商中に黄巾賊に襲われ、張飛(翼徳)に助けられますが、そのお礼として自らが持っていた剣を渡してしまいます。この行動に劉備の母は激怒します。命の恩人であったとしても、お礼の意を表す手段として「剣を渡す」という行動を取ってしまった劉備(玄徳)に「武人としての自覚を持ってほしい」と考えたのです。劉備(玄徳)が安喜県の尉の職を捨て、一時故郷の楼桑村に戻った時、母は「あなたが私のことを心配すると言うのであれば、私はここで死にます」とまで言ってのけます。
劉備(玄徳)を一端の武将のみならず「万人の幸福を目指す指導者」に育て上げようとする母親像は、まさに「徹底」されていました。劉備の母なくして劉備(玄徳)は、存在し得なかったでしょう。
董卓(仲穎)と呂布(奉先)を翻弄し民衆を恐怖政治から救った貂蝉
■ 董卓(仲穎)と呂布(奉先)を翻弄し民衆を恐怖政治から救った貂蝉
董卓(仲穎)と呂布(奉先)を翻弄し民衆を恐怖政治から救った貂蝉
架空の人物という説が有力ですが、三国志演義において董卓(仲穎)と呂布(奉先)を翻弄し、ふたりを仲違いさせ、呂布(奉先)が董卓(仲穎)を討つように仕向けて行きます。策略は成功し、董卓(仲穎)は討たれ、民衆を恐怖のどん底に陥れていた董卓(仲穎)の悪政時代が幕を閉じます。
絶世の美女と謳われた貂蝉は董卓(仲穎)に政務を任されていた王允(子師)の養女として育てられました。当時、董卓(仲穎)の悪政に疑問を抱いていた王允(子師)は、董卓(仲穎)の最強の部将であり、ボディーガード役だった呂布(奉先)を董卓(仲穎)と仲違いさせようとしますが、その「仲違いの手段」に良策がなく悩んでいました。そんな「養父」の身を案じ、貂蝉は「身寄りのなかった自分を育ててくれた恩返しがしたい」と進言します。そして、貂蝉が提案した「一計」は、自分(貂蝉)が董卓(仲穎)と呂布(奉先)の両方から気に入られ、ふたりを仲違いさせる…というものでした。
「女」を武器に男たちを翻弄する一計…。一般的には「下策」ですが、貂蝉は「悪女」として描かれていません。むしろ親孝行者…という扱いです。権力を握り、欲望に歯止めが効かなくなっている董卓(仲穎)と呂布(奉先)にこの計略は見事に功を奏します。結果的に時の権力者を討ち取り、大将軍を失脚させた一計です。そして、事の顛末を見届けた貂蝉は、自らの命を絶ちます。
政略結婚ではあったが夫婦仲は良かったと言われる孫夫人
■ 政略結婚ではあったが夫婦仲は良かったと言われる孫夫人
政略結婚ではあったが夫婦仲は良かったと言われる孫夫人
三国志では「政略結婚」の話がいくつか出て来ます。まぁこれは「活躍」というよりも「権力闘争の道具」となってしまった印象もありますが、「自国の組織固め」「敵国との関係強化」に強い影響力を持つ訳ですから「活躍」と表現して良いでしょう。
話としては、袁術(公路)の息子と呂布(奉先)の娘との縁談(破談)。劉備(玄徳)と孫尚香(孫夫人)、曹操(孟徳)が曹節、曹憲、曹華の三姉妹を献帝の后としたことなどが主なものです。物語の中で一番多く扱われるのは、劉備(玄徳)と孫夫人の話です。
劉備(玄徳)には4人の妻がいたとされていますが、そのうちの一人です。赤壁の戦いの後に、政略的に結婚した感がありますが、夫婦仲は良く、後に劉備(玄徳)の後継者となる阿斗の面倒も良く見ていました。武芸を好み、侍女たちにも武装させるなど「男まさり」な面もありました。しかし、呉と蜀の関係が悪化すると、またもや政略によって一人、呉へ帰国することとなります。
江東の二喬 呉の国を彩る大喬と小喬
■ 江東の二喬 呉の国を彩る大喬と小喬
江東の二喬 呉の国を彩る大喬と小喬
貂蝉と並んで絶世の美女と称されるふたり。大喬は孫策(伯符)と、小喬は周瑜(公瑾)とそれぞれ結婚します。表立った舞台にはほとんど登場しませんが、三国志のひとつの大きな岐路となった「赤壁の戦い」において絶大な存在感を示します。しかも、その「存在感」は彼女たちが実際に行動した訳ではなく、たったひとつの「口実」に過ぎないのです。
赤壁の戦いでは、攻め込んだ曹操軍が約20万、呉と劉備(玄徳)率いる荊州軍が合わせて5万。兵の数では圧倒的に不利。しかも江南において数年来平和だった呉国の兵士は「実戦慣れしていない」状況にあります。ここに出て来るのは「降伏論」でした。大都督(軍司令官と州の長官を兼ねた地位)の立場にいた周瑜(公瑾)は、当然のことながら「開戦か降伏か」の議論に大きな影響力を持ちます。当初、周瑜(公瑾)は降伏を考えていたとも言われています。
しかし、曹操(孟徳)が二喬を奪おうとしていることを諸葛亮(孔明)から伝えられると、周瑜(公瑾)は、これに激怒して開戦を決意します。
三国志における天下分け目の大戦…その開戦の決め手になったのは女性…だったのですね。
戦場を駆け回り蜀の部将2人を生け捕りにした祝融夫人
■ 戦場を駆け回り蜀の部将2人を生け捕りにした祝融夫人
戦場を駆け回り蜀の部将2人を生け捕りにした祝融夫人
南蛮の「孟獲」の妻。古代の火神「祝融」の末裔を自称して「祝融」と名乗っていました。気が強く、武勇にも長けていたため、南蛮兵たちの先頭に立って戦場に出ていました。蜀が南蛮に攻め込んだ際にも、当時、蜀の将であった馬忠(徳信)や張嶷(伯岐)を生け捕るなど、武力においても相当な実力者でした。しかし、孟獲が7度捕らえられて、7度釈放される等々の繰返しにより諸葛亮(孔明)に心服して蜀に降伏します。
まとめ 労いや養育の面で女性が長けている
■ まとめ 労いや養育の面で女性が長けている
まとめ 労いや養育の面で女性が長けている
祝融夫人を除いては、実際に戦場で戦う…ということはないようですが(ドラマなどでは孫夫人が戦ったりしていることもある)、だからといって世の中で活躍していない訳ではありません。三国志で随所に見られる「宴席の場で兵士たちを労い活力を与える」「幼い子供たちを守り養育する」「夫や子供の炊事や洗濯を行い、身の回りの世話をする」等々は女性が中心に描かれます。上記の女性たちで言えば、「劉備の母」や「孫夫人」は「養育」、「貂蝉」は「労い」に相当するでしょう。これらは、彼女たちが「随一」であったことは間違いなく、また男性に真似できることではありません。十分な「世の中での活躍」と言えます。
三国志は戦や政治的な駆け引きなど、男性が中心に描かれていますが、そのモチベーション、活力の土台となっているのは女性たちの活躍です。そのような角度から、また違った面での物語が楽しめます。