三国志の時代における周辺民族はどんな種類があったのか

三国志の時代における周辺民族はどんな種類があったのか

三国志の時代には、群雄が乱立していた中原の地よりも地方の豪族たちのほうが頭を悩ませることが多々ありました。それは周辺国による侵略です。現在の中国大陸でも国境は10の国と面しており、部族間の侵略が当たり前だった当時は危険性が高いものでした。一体、どんな周辺国(異民族)がいたのでしょうか。


最大の勢力を誇った北方の雄【鮮卑せんぴ】

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秦や前漢の時代には大陸北方に位置し、中原を脅かしていたのが匈奴でした。しかし、匈奴が南北に分裂し、勢いが衰えると、匈奴に与していた鮮卑が頭角を現しました。檀石槐が若くしてリーダーとなると、その勢力は凄まじい勢いで成長し、現在のモンゴル高原を支配し、北方(モンゴル北部やロシア東部)の領土を支配していた部族の南下を防ぎ、後漢の幽州を侵略していきました。

遊牧民の鮮卑からすれば、決まった土地に物資を保管している漢民族は侵略しやすいといえました。これは古い歴史がある匈奴から続いており、万里の長城が築かれたのも、匈奴などの遊牧民族の侵攻を防ぐ目的があったためといわれています。

霊帝の時代、朝廷も鮮卑には手を焼き、中央政権の混乱も影響しますが、討伐軍も鮮卑には敵わず、撃退されています。鮮卑は中国北部で略奪を繰り返し、地方の豪族たちを混乱させていきます。時を同じくして黄巾の乱が勃発し、中央政権には軍で鮮卑を討伐することもできず、このまま鮮卑が南下してくるかと思われていました。しかし、檀石槐は45歳の若さで亡くなり、跡を継いだ息子や一族は部族をまとめ上げることができず、後に曹操(孟徳)や司馬懿(仲達)によって侵略を防がれており、一大勢力は次第に急降下していくことになります。

檀石槐がリーダーとなった時代、まだ群雄が乱立した当時であり、曹操(孟徳)や袁紹(本初)は勢力も小さいものであり、董卓(仲穎)ですら地方将軍にしかあらず、権力を手中に収めていたわけではなかったのです。このことからも、鮮卑の檀石槐がもっと長生きしていれば、三国時代の勢力図は大きくかわっていたかもしれません。

董卓と戦い、猛将馬超に味方した西方の支配者【羌きょう】

董卓と戦い、猛将馬超に味方した西方の支配者【羌きょう】

董卓と戦い、猛将馬超に味方した西方の支配者【羌きょう】

羌族は前漢の時代、一大勢力を誇っていた北の匈奴に属する形をとっており、匈奴が衰退していくようになると、漢に服従していくことになります。しかし、反乱を起すことも多く、周辺地域を侵略しては物資を略奪する行為を繰り返していました。

霊帝の時代に都が混乱を極めると、涼州の実力者であり地方担当の将軍だった董卓(仲穎)が反乱を起した羌族とたびたび戦うことになります。戦上手な董卓でしたが、さすがに制圧することまではできず、何十回と戦うなど、キリが付かない展開となっています。まだ漢軍として戦っていた董卓でしたが、羌族とのある戦で独自に指揮を執ると、数万の羌軍に包囲されてしまい命の危機に直面したことがあります。後に権勢を奮う董卓ですが、その武力をもってしても羌族は征伐できない力を持っていました。

この背景には地方の豪族であり、黄巾の乱に便乗して朝廷に立ち向かった馬騰・馬超親子の影響力もありました。羌族は軍事力に優れる馬親子と実力者の韓遂らに力を借り、漢軍を退けていました。特に馬騰は母が羌族出身であり、漢と羌の血を受け継いでいることから、羌族に受け入れやすかったといえるでしょう。

さらに馬超(孟起)は漢軍にも匹敵できるものがいないほどの武力に優れ、個人の武勇はおろか、軍を統率する指揮官としても有能で、羌族も恐れていたほどでした。羌は魏に対抗し、馬超の軍勢に味方し続けていますが、曹操(孟徳)によって馬超軍が壊滅になると、今度は魏に恭順する姿勢を見せています。

三国志演義ではその後、司馬懿(仲達)によって蜀へ侵攻することになる魏軍の5つのルートに羌族を利用しようという策があり、曹丕が採用しますが、漢中での戦い以降疎遠となってしまった馬超に恐れをなした羌族は、魏に味方することなく出陣するのを控えてしまい、馬超の武勇を物語っています。

一時壊滅状態に追い込まれた東方の【高句麗こうくり】

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中国大陸の東に位置するのは、現在でも知られている通り朝鮮半島となります。三国志の時代における朝鮮は、中国大陸東北部と朝鮮半島を制圧していた高句麗となります。高句麗は後漢王朝には恭順の姿勢を示しつつも、朝鮮半島を制圧して南方の憂いを無くすと、黄巾の乱が勃発する頃には遼東に進出し、当時の支配者だった公孫氏と幾度となく争っています。

曹操(孟徳)が中原を支配し、曹丕(子桓)が魏を建国すると、高句麗は魏への貢物を送り忠誠を見せています。また、遼東太守であった公孫淵が反乱すると、高句麗は魏の司馬懿(仲達)へ援軍を派遣しています。公孫氏が滅亡した後、直接魏と国境を接することになっていきます。

当時の義は、呉や蜀との戦いの他に、国内では司馬懿(仲達)の台頭もあって、曹氏と司馬氏の権力争いが起こり、中々大軍を用意に動かせる情勢ではありませんでした。高句麗はその隙をついて遼東に侵入し、略奪を行っていきます。焦った魏は司馬懿が動くこともならず、将軍のカン丘倹を派遣します。カン丘倹は巧みな指揮で高句麗軍を翻弄していきます。高句麗は連戦連敗し、遂に首都を明け渡して南下してしまいます。一時は朝鮮半島の全土を支配する勢いのあったカン丘倹ですが、高句麗王は寸前で逃げだし、滅亡を免れました。魏軍が去った後、高句麗軍は勢いを取り戻し、領土を取り戻しています。

南方の名太守【士燮ししょう】

南方の名太守【士燮ししょう】

南方の名太守【士燮ししょう】

三国志の時代、劉表や孫権(仲謀)よりも南方を支配していたのは豪族の士燮でした。中国南部とベトナム北部の交州を支配しており、中央から遠く離れていたこともあって、独立した行政といえました。

士燮は交州の交趾郡太守になると、ベトナムや漢の特産品で交易を行い、中央から戦地を逃れてきた人々にも寛容に対応していたので、善政を敷いていたと考えられます。ベトナムや漢の両方から人望があった士燮ですが、視野も広く、荊州を支配した劉表が南下を意識すると、すぐさま中原の覇者である曹操(孟徳)に貢物を送り、劉表をけん制しています。

また、領土を拡大してきた孫権(仲謀)にも敵として当たらず、象牙やバナナといった中国国内では珍しい品物を貢物として献上し、孫権の庇護下に置かれるようになりました。士燮は90歳まで長生きし、政治手腕は魏や呉でも評価されました。

一般に三国志の南方といえば、孟獲を意識する人もいるでしょうが、孟獲は雲南省の豪族であり、演義に登場する南蛮の王ではありません。





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