袁紹の配下として登場
■ 袁紹の配下として登場
袁紹の配下として登場
朱霊、字は文博。冀州清河国兪県の生まれ。おそらく袁紹が冀州の牧になったタイミングで仕官したのではないかと思われます。当時の袁紹と直接敵対していたのは北方の雄・公孫瓚でした。公孫瓚は袁術と組んで袁紹に対抗します。最も勢いがあったときには幽州・冀州・青州・兗州にまでその支配力は及んでいたといいます。
冀州では朱霊の同郷の季雍が公孫瓚側に寝返り兪県で反乱を起こします。袁紹は兪県の反乱鎮圧をこの朱霊に命じたようです。実は朱霊の家族は皆この兪県の城塞都市に住んでいたのです。季雍はそのことを知っており、すぐに朱霊の家族を人質にとって味方につくように説得します。しかし朱霊は家族よりも主君への忠義を優先し、攻城をやめず、見事に季雍を捕らえ反乱を鎮圧しました。このとき朱霊の家族は全員殺害されていたそうです。朱霊の無念さは計り知れません。
徐州攻めの援軍として曹操のもとへ
■ 徐州攻めの援軍として曹操のもとへ
徐州攻めの援軍として曹操のもとへ
193年、兗州牧の曹操は徐州を攻めます。公孫瓚は袁術だけではなく徐州牧の陶謙とも同盟を結んでいました。陶謙とも敵対していた袁紹は曹操の徐州攻めに援軍を送ります。その中にいた将の一人が朱霊です。曹操はこのとき徐州で大虐殺を行っています。公孫瓚は劉備(玄徳)を陶謙へ援軍として送っています。朱霊はこの戦いで武功をあげたと記されています。
ここで不思議なことが起こります。朱霊が曹操の陣営にそのままとどまるのです。つまり主君である袁紹を見捨てて曹操にくら替えしたわけです。家族が殺されてまで主君への忠義を貫いたにも係わらず、なぜ朱霊は冀州に戻らず曹操に仕えることにしたのでしょうか。「三国志正史」には朱霊が曹操の人柄に惚れて帰順したとあります。徐州の民を虐殺するような冷酷非道な曹操に惹かれるというのも妙です。推測するに、おそらく朱霊は家族を犠牲にしてでも兪県の反乱を鎮めるように袁紹に命令されており、それを恨んで袁紹から離れたのではないでしょうか。
曹操が河北を平定
■ 曹操が河北を平定
曹操が河北を平定
官渡の戦いで曹操は袁紹を苦戦末に大逆転で破りました。朱霊の功績については不明です。205年の時点では、曹操は朱霊の統率力を認めて冀州の降伏兵を束ねることを命じます。曹操はこのとき朱霊に「寛大に扱わないと反乱を起こされるぞ」と忠告したそうです。朱霊は曹操の忠告を無視するような扱いをしたのか、中郎将の程昂が豫州の潁川郡に至ったところで反乱を起こします。朱霊はこれを斬り捨てて反乱を鎮め、曹操に謝罪しました。
謝罪したということは、やはり朱霊は尊大な態度で降伏兵に接していたということなのでしょうか。かつて後漢光武帝の頃、大軍で西を攻め、部下の離反で大敗を喫した鄧禹の敗戦の責任を光武帝が問わなかったことを例にあげて、曹操は朱霊を許しています。
曹操に恨まれて于禁の武将となる!?
■ 曹操に恨まれて于禁の武将となる!?
曹操に恨まれて于禁の武将となる!?
詳しい時期はわかりませんが、朱霊は曹操に恨まれて統率する兵を取り上げられ、于禁の部将に降格されたことがあったと記されています。理由も不明です。これはタイミング的に官渡の戦い以前ではないかと推測されます。
寿春で皇帝を自称する袁術を倒すために、曹操はその頃保護していた劉備(玄徳)に討伐の指揮を命じました。もちろん劉備(玄徳)の両脇には猛将の関羽と張飛がいます。曹操は副将として朱霊と路招をつけました。あいにく袁術は戦う前に病没しており、戦闘は起こりませんでした。ここで劉備(玄徳)は徐州に残ることを二人に告げ、朱霊と路招は劉備(玄徳)を残して許都に引き上げます。すると劉備(玄徳)は徐州の小沛で独立し、曹操に反旗を翻しました。199年12月のことです。200年1月には朝廷で曹操暗殺未遂事件が発生、ここに劉備(玄徳)も加担していたことを知り、曹操は即座に小沛の劉備(玄徳)を撃破しています。このときの責任をとって朱霊は降格されたのではないでしょうか。そして袁紹との戦いでは于禁の部将として臨み、見事に武功をあげて再び一軍の将に復帰したと思われます。
ちなみに曹操が朱霊に于禁の部将となることを命じますが、この命令書は于禁が直接朱霊に渡しています。于禁の威を恐れて朱霊も朱霊の配下も反論できなかったと記されています。于禁はやはり曹操配下の中でも別格の存在だったようです。
征西軍で武功をあげる
■ 征西軍で武功をあげる
征西軍で武功をあげる
211年に馬超が兵を挙げると、曹操に従い朱霊も馬超討伐に向いました。徐晃と組んで馬超を牽制したり、平定後は夏侯淵に従い長安を守って残兵を掃討する活躍をみせています。215年には漢中の張魯を攻め、張郃と組んで進軍を妨害してくる異民族の氐を撃破しました。このように朱霊は、「五大将軍」の張遼、于禁、楽進、徐晃、張郃らに匹敵する武将として重用されています。
曹操が没し、後継者である曹丕が皇帝に即位してからはその功績を改めて高く評価され、望みの地を与えるといわれ高唐を拝領しています。徐晃に次ぐ名声を得て、後将軍まで昇進しました。
まとめ・朱霊は曹操に恨まれていなかったのでは?
■ まとめ・朱霊は曹操に恨まれていなかったのでは?
まとめ・朱霊は曹操に恨まれていなかったのでは?
曹丕が没し、二代目の皇帝となる曹叡が即位した後も朱霊は活躍を続けています。228年に石亭の戦いで曹休が偽りの投降の計略で陸遜に敗れたときには、この窮地を救ったとされています。243年にはすでに没していた朱霊は建国の功臣として太祖の廟に合祀されました。朱霊が曹操に恨まれていたのであれば、このような待遇はありえません。ちなみに関羽に降伏して捕虜となっていた于禁は、それまでに抜群の功績をあげていましたが、降伏したことが評価を下げてしまい合祀されませんでした。
総合的に判断すると曹操は反省と成長のために一時的に朱霊を降格させ、于禁の部将にしたのではないでしょうか。憎くてやった処置というよりも、むしろ朱霊の将来を期待して行った修行的な意味合いが強かったのではないかと推測されます。
なかなか表舞台での活躍にスポットが当たらない朱霊ですが、魏の名将の一人であることは確かでしょう。もっともっと評価され、人気が出てもいい三国志の武将ですね。ちなみに三国志演義ではまったく活躍の機会を与えられていません。これもまた朱霊の人気を下げている原因の一つといえるでしょう。