劉備の挙兵時から付き従う
■ 劉備の挙兵時から付き従う
劉備の挙兵時から付き従う
劉備(玄徳)が黄巾の乱に対して義勇兵を募ると、張飛(益徳)は関羽(雲長)と共に参戦し、劉備の身辺警護を務めています。劉備や関羽よりも年下だった張飛は、かれらを兄と慕いながら、大勢の前では主君として盛り立てていきます。
この頃、義勇軍として黄巾の乱を制圧していき、劉備配下としてその武勇を奮いました。敵軍からはかなり恐れられていたといわれています。やがて劉備が平原で官職に就くと、それに従い、一軍の将を担うようになります。
呂布に敗れる
■ 呂布に敗れる
呂布に敗れる
徐州で実力者だった陶謙(恭祖)が曹操(孟徳)と対立すると、劉備(玄徳)は陶謙の援軍として派遣されます。張飛(益徳)も関羽(雲長)ともに参戦しました。曹操が退いた後、劉備は徐州に残り、陶謙の下に就きます。
やがて陶謙が亡くなると、その遺言もあって劉備は徐州を収めるようになっていきます。曹操(孟徳)に攻められた呂布(奉先)が劉備を頼ってきており、張飛は裏切りの代名詞である呂布を迎え入れることに猛反発しますが、劉備は迎え入れています。折しも袁術(公路)が徐州に目をつけて侵攻してくると、劉備(玄徳)は関羽(雲長)を引き連れて食い止めようとします。
張飛(益徳)は本拠地の留守を任されており、宰相の曹豹と仲たがいを起していました。猛者な上、短気で知られる張飛を制御するのは文官クラスでは諸葛亮レベルでないと難しいのでしょう。曹豹は劉備に匿われていた呂布(奉先)と共謀して張飛を攻めたてます。呂布の武勇は天下に響き、大陸一の戦闘力を誇っていましたが、張飛も引けをとらない実力を持っていました。しかし、背後を突かれた張飛は成すすべもなく敗れ、劉備の妻子も呂布によって捕虜にされてしまいました。
呂布を攻めたてる
■ 呂布を攻めたてる
呂布を攻めたてる
劉備(玄徳)は曹操(孟徳)の元へ逃れると、張飛(益徳)は曹操陣営を信頼せず、劉備への暗殺を警戒し、常に警護に当たっていました。一方で張飛は曹操が呂布(奉先)討伐へと腰を上げると、自身も従軍しようと懇願しています。張飛は劉備と共に参戦し、雪辱に燃える張飛は呂布軍を蹴散らす活躍を見せています。
遂に呂布は捕えられてしまい、曹操によって処刑されています。張飛はこの活躍を受けて曹操から恩賞を授かっています。
張飛の名を挙げた長坂橋の戦い
■ 張飛の名を挙げた長坂橋の戦い
張飛の名を挙げた長坂橋の戦い
劉備(玄徳)は曹操(孟徳)と決別し、袁紹や劉表といった群雄たちを頼っていき、張飛(益徳)も従軍しています。一時期戦列を離れた関羽(雲長)と違い、張飛は常に劉備を警護することになっており、劉備からは厚い信頼を得ていました。
劉備は劉表から新野を任されると、後の丞相となる諸葛亮(孔明)を迎え入れます。その頃河北を統一し、中原の覇者となった曹操は、劉表の死を契機に荊州を奪取しようと南下してきます。強大な曹操軍に対し、諸葛亮は孫権(仲謀)と同盟を結んで対抗するべきと告げ、劉備は襄陽からさらに南下して軍需物資が豊富な江陵を目指します。
劉備に付いていく民は10万を超え、そのせいもあって行軍がなかなか進まず、曹操軍の追撃を受ける羽目になってしまいます。劉備と諸葛亮は先に騎馬にのって江陵に行き、張飛は20騎ほどの騎馬兵を引き連れて殿を任されました。
張飛は橋を落として、目を見開き、「我こそは張飛なり! 死にたい奴は勝負しろ!」と怒り狂った表情で怒号を響かせます。張飛の武勇を知っている曹操軍は戸惑いひるんでしまい、誰も攻めることができずにいました。
この武勇伝は三国志演義でも張飛の一番の見せ場として描かれ、曹操を怯えさせます。多くの京劇やマンガ、ドラマにゲームに至るまで、張飛といえば長坂橋の戦いといわれるほどの立ち回りを演じています。
結果的に曹操軍の進行を止めたので、劉備は追撃を逃れることができました。江陵を奪取することはなりませんでしたが、その後、劉備と孫権が同盟を結び、赤壁の戦いに進むことができたのは大きく、張飛の活躍がなければ曹操によって劉備が捕えられ、孫権も降伏していたかもしれません。それだけ張飛の活躍は大きかったといえるでしょう。
益州での活躍
■ 益州での活躍
益州での活躍
諸葛亮(孔明)による天下三分の計によって、劉備の入蜀が成功し、諸葛亮やホウ統(士元)、法正(孝直)、趙雲(子龍)らとともに、劉璋軍と戦います。張飛は連戦連勝を重ねていき、劉璋軍の古参である巴郡太守の厳顔を生け捕ることに成功しました。
このときのエピソードとして、張飛は簡単に降伏しなかった厳顔に腹を立てていましたが、詰問することで彼の忠義に感心し、縄を解いて解放し、自身の賓客として扱うようになります。張飛は短期で粗暴というイメージを持たれがちですが、男気溢れる敵将には感嘆する面も持ち合わせていました。
張飛は劉璋軍を散々に打ちのめし、成都で劉備に会うと功績を再評価されました。もともと挙兵時からの付き合いなので、劉備の信頼は揺らぐことはありませんが、大軍を持つようになった劉備の立場上、張飛をしっかりと評価しないと示しがつかないと感じたかもしれません。
劉備軍の中心的な存在になる
■ 劉備軍の中心的な存在になる
劉備軍の中心的な存在になる
関羽(雲長)は荊州に残り、曹操や孫権に対して睨みを利かしていました。劉備が蜀へ進めたのも、関羽が激戦区の荊州を任されていることが大きかったといえます。関羽がいない蜀軍にとって、一番の主力となったのがやはり張飛(益徳)の存在でした。
一方曹操(孟徳)は、漢中を支配すると、その守備に歴戦の強者である夏侯淵(妙才)と張コウ(儁乂)を置きました。張コウが進軍してくると、張飛が応戦して対峙します。張飛は精鋭1万を連れて街道を避けて山道を利用し、張コウ軍の横腹急襲し、軍を前後に分断することに成功します。張飛が策略をしかけてくるなんて想像しなかったのでしょう。張コウは体制を整えることもできず、軍が崩壊し、命からがら漢中に逃げ延びました。後に蜀軍を大いに苦しめることになる張コウですが、軽く撃退できたのも張飛の武勇が優れていたことがうかがえます。
非業の最期を遂げる
■ 非業の最期を遂げる
非業の最期を遂げる
張飛(益徳)は武勇が抜きんでていましたが、配下にはときに厳しい姿勢で臨むことも多く、機嫌によって懲罰を行っていたりしていました。そのため、配下には恨みを持つ者もいましたが、張飛はいちいち気にせず、重役に就けていたりして、劉備(玄徳)は常に心配していました。
関羽(雲長)が呉の裏切りによって殺されると、劉備は呉への復讐として大軍を繰り出すよう命じます。張飛も関羽の仇討とあって意気揚々と準備をしていましたが、普段から張飛に恨みを抱いていた張達と范彊に寝込みを襲われて暗殺されてしまいます。
劉備は大いに嘆き、夷陵の戦いでも大敗北を喫し、失意のもと病になって死去します。関羽の死から1年で張飛が死に、劉備はその2年後に病で亡くなっているなど、3人が時をほぼ同じくして亡くなっています。
三国志においてその武勇を誉れ、今日に至っても人気を博している張飛は、紛れもなく一騎当千の武人であったといえるでしょう。