もとは賊徒だったのか
■ もとは賊徒だったのか
もとは賊徒だったのか
呉の勇将の一人に周泰がいます。字は幼平。揚州の九江郡(淮南郡)の出身です。孫家には孫策が当主だった頃から仕えています。孫堅が戦死し、孫策が袁術の配下だった時代にあたります。194年に孫策は袁術から兵を借りて盧江郡を占領しますが、周泰が孫策の陣営に加わったのはその後のようです。195年には孫策は曲阿を拠点とする劉繇を撃退していますが、その前にはすでに周泰は孫策の配下となっていました。三国志演義では、蒋欽と共に江賊の頭領を務めており、孫策の江東侵攻を聞きつけて仲間入りをしています。当時の孫策は周辺のならず者と力比べをし、語り合い、同志を増やしていたと伝わっていますので、その中の一人だったのでしょう。196年には孫策は会稽郡も攻略しますが、その際に周泰は別部司馬となっています。
孫権の側近となる
■ 孫権の側近となる
孫権の側近となる
孫策の弟である孫権はこの周泰を気に入り、自分の直轄の配下に組み入れることを願い出ます。周泰はこのときから孫権直属の家臣となっています。197年、孫権と共に丹陽郡の宣城を守っていた頃に、皇帝を自称した袁術が策を用いて宣城を陥落させようとしました。袁術はかつて孫策をギリギリまで追い詰めた実績をもっている祖郎と連携し、さらに異民族である山越も扇動して宣城を攻めさせました。備えが不十分だった孫策軍は不利な状況に陥りますが、周泰は全身に十二箇所の傷を負いながらも味方を励まし、最後まで孫権を守ったのです。祖郎はその後、孫策・程普の軍に敗れ捕らえられています。三国志演義ではこのときの周泰の重傷を治療したのが華佗という設定になっています。まさに命がけの警護でした。周泰はこの武功が認められ、県長に昇進しています。
赤壁の戦い
■ 赤壁の戦い
赤壁の戦い
208年にはすでに孫家の当主は孫策から孫権に代わっています。この年に孫権は宿敵である江夏郡の黄祖を破りました。周泰はこの戦いでも武功をあげています。しかし直後に荊州刺史の劉表が病没、後継者の劉琮が曹操に降伏しました。荊州に進軍していた曹操軍はそのまま揚州に攻め寄せます。「赤壁の戦い」です。
三国志演義では周泰は先陣を務め、曹操軍の張南を討っています。三国志正史では周瑜や程普に従い曹操を攻め、火攻めで大勝した後は南郡の曹仁攻めにも加わっています。濡須の守りも任され、曹操軍を撃退しました。この功績から周泰は平虜将軍に昇進しています。また、濡須の正式な総司令官となりました。
周泰の部下・徐盛
■ 周泰の部下・徐盛
周泰の部下・徐盛
濡須の守りに配置された一人に徐盛がいます。字は文嚮。徐州琅邪郡の生まれで、武勇に優れていたことで有名です。県長だった頃には江夏郡の黄祖が侵攻してきましたが、数千の相手に対してわずか二百に兵で迎撃に成功しています。黄祖の息子である黄射は二度と攻め込んでこなかったそうです。濡須での戦いにおいても曹操軍に取り囲まれながら、ひるむことなく突撃し突破口を開きました。曹操軍は多くの犠牲を出し、退却したと伝わっています。まさに勇猛果敢な猛将です。この徐盛が濡須で周泰の指揮下に入ることになったのです。徐盛は周泰を侮り、まったく命令に従おうとしませんでした。
周泰の部下・朱然
■ 周泰の部下・朱然
周泰の部下・朱然
徐盛と共に濡須の守備に配置された将がいます。朱然です。字は義封。揚州丹陽郡の生まれで、孫堅の代から仕えている朱治の甥にあたります。朱治に子がいなかったことから家督を継ぎました。孫権とは幼馴染の関係で、共に机を並べて勉学に励んでいたこともありました。そのため当主が孫権になってからは重用され、すぐに県長、県令、そして太守にと昇進しています。かなり孫権からの信頼も厚かったのでしょう。周泰の指揮下に入る時点では朱然の官位は偏将軍です。山越族の反乱を一ヶ月で鎮圧したという実績も持っていました。朱然は徐盛同様に周泰を侮り命令に従いません。
合肥の戦い
■ 合肥の戦い
合肥の戦い
赤壁の戦いに勝利した孫権は、揚州の寿春目指して進軍します。この辺り、すべて河で繋がっており、許都から船で南下すれば長江まで出ることが可能になっています。孫権は長江から濡須水、施水、肥水を通り寿春に到着しようとしますが、その途中にある合肥で曹操軍と孫権軍が何度も激突することになります。
212年には曹操は反撃に転じ、濡須口まで出兵しました。四十万の大軍を率いていたといわれています。孫権は七万の軍勢でこれを防ぎました。このように濡須は孫権にとってとても重要な拠点だったわけです。ですから周泰と徐盛・朱然が不仲になっている場合ではありません。孫権軍は兵力で劣るわけですから、なおさら一枚岩になる必要がありました。そこで孫権は諸将を集めて宴を開くことを決めます。
孫権の宴
■ 孫権の宴
孫権の宴
孫権は宴の場で周泰に服を脱ぐように命じます。諸将は驚いたでしょう。司令官がいきなり服を脱ぎ始めるのです。皆が唖然として見守る中で、孫権は周泰にあることを命じました。それはその体に受けている傷の由来を、一つ一つ皆に説明するというものでした。命がけで孫権を守った宣城の傷も十二箇所あります。そして孫権は、今自分が健在なのは周泰のおかげであることを涙ながらに語り、感謝するのです。そして改めて周泰に褒美を与え、宴の後では軍楽隊の演奏で見送ったそうです。孫権ならではの演出ですが、これを見て徐盛も朱然も文句を言うことなく周泰に従うようになりました。誰かの行動を責めるようなことはせずに、孫権は褒め称えることで味方をまとめあげたのです。さすがは明主・孫権ですね。
まとめ・周泰のその後
■ まとめ・周泰のその後
まとめ・周泰のその後
孫権はその後、合肥の戦線を一度凍結し、荊州の関羽を攻めて先に荊州を手中に収めます。怒った劉備(玄徳)は夷陵に大軍をもって攻め込んできますが、陸遜の火攻めによって敗れています。三国志演義では周泰は劉備(玄徳)を追撃し、甘寧を討った蛮族の沙摩柯を一騎打ちで討ち取る手柄をあげています。
周泰が病没した後は、朱桓が濡須の司令官となっています。周泰の家督は子の周劭が継ぎました。周劭は濡須の地で、攻め込んでくる魏の曹仁軍相手に武功をあげています。また石亭の戦いでも曹休相手に活躍し、裨将軍に昇進しています。周泰、周劭は親子二代で濡須を守り抜いたのです。