関羽(雲長)が故郷から涿県に逃亡したワケ

関羽(雲長)が故郷から涿県に逃亡したワケ

劉備(玄徳)、張飛(益徳)ら義兄弟と出会う前の関羽(雲長)に関する情報は、三国志演義や演劇の脚本ではすっかり省略されています。関羽(雲長)は他の義兄弟と故郷が異なります。本記事ではそのワケを解説していきましょう。


省略された関羽(雲長)の過去

三国志演義や演劇の脚本では、劉備(玄徳)、張飛(益徳)ら義兄弟と出会う以前の関羽(雲長)に関する情報はすっかり省略されています。
また陳寿が記した正史三国志の中の一部、蜀志(蜀書とも)でさえも出身地や数行の記述があるだけで、事細かに関羽(雲長)の記録が始まるのは義勇軍に従軍してからとなっています。実は関羽の出自についてはモヤがかかっている部分が多く、遥か昔から孝行を重んじる儒学者、後の王朝の皇帝でさえも真相を知りたがりました。
どうやら関羽(雲長)が劉備(玄徳)、張飛(益徳)がかつて居住していた?県へは、故郷の解県で殺人罪の咎により指名手配され、逃避行した末に流れついた場所であるそうです。
おそらく陳寿や羅貫中は忠義心の厚い関羽(雲長)を尊敬していたので、関羽(雲長)にとって評判の悪くなる情報をなるべく残したくなかったのでしょう。

関羽(雲長)はなぜ人を殺めるに至ったのか?

関羽(雲長)が逃避行するはめになってしまった原因については諸説あり、どれが真実なのか未だに不明です。これから挙げさせていただく説は、どれも関羽(雲長)が逃避行をおこなった原因とされている事件です。また、最近になって考古学者の方が立てた仮説も合わせてご紹介します。

悪徳大商人を成敗

関羽の出身地である解県には大きな塩湖があり塩は名産品でした。
しょうゆや味噌を作るためには塩は必須アイテムですが、この時代にそのような調味料はまだ発明されていなかったそうです。そのため調味料は塩やお酢くらいのものでした。また保存食にも大量の塩を使用するので、当時の生活には欠かせないものでした。

農業や漁業は凶作や不漁などがあり、売るものがない状況に追い込まれることがあしますが、塩は岩塩を削り取ったり、塩湖や海の水を蒸発させることで確保できます。その上、需要があるので塩商人はよい職業でした。関羽(雲長)の実家も先祖代々塩商人を営んでおり、少年のころから岩塩の削り作業や塩水の汲み取り、運搬などを手伝って生計を立てていたそうです。
ところが、塩に目をつけた悪徳大商人が賄賂や圧力をかけて塩田の地上げをしたり、仲介業者である問屋を抱き込み関羽(雲長)の実家や同業の者たちも自由に塩を売買することが困難になってしまいました。

当時塩は漢朝廷が売買を管理し、国税をかけて販売していたので塩を民衆に売ることができるのは、漢朝廷から許可が下りている問屋のみです。
塩商人が直接販売することは違法でした。塩商人も塩を売らなければ飢え死にしてしまうので、闇市に流したり税金をかけずに行商で売り歩いて隠れて販売していたそうなのですが、もし役人にバレてしまえば罪に問われて処刑されてしまうという危険を伴った行為でした。
正義感の強かった若かりし関羽(雲長)は「このままの状況ではいけない」と感じ、悪徳大商人を成敗。被害が家族や周りの人々に及ぶことを恐れてわざと悪徳大商人の私兵に発見されて逃走を図ったのでした。

悪徳大商人から友人の妹を救出するため殺害した

この説の前半部分は先ほどの説とほぼ同じ内容なのですが、悪徳大商人の行った塩の専売化の影響を受けた関羽(雲長)や同業者たちが、塩を自由に売買できなくなった末に、悪徳大商人から借金をしなければ生きて行くことが難しくなってしまったとあります。
悪徳大商人はその借金返済に滞りの出た家に取り立てに行き、もしお金を返済することができなければ無理やり財産や土地を没収したり、若い娘のいる家庭では娘を借金のかたにさらって行ったそうです。関羽(雲長)の友人たちも悪徳大商人から借金をしてしまい、取り立てに来た悪徳大商人に父親を殺害されたり姉や妹を連れ去られたりしていました。
関羽(雲長)は地元では有名な力自慢であったので、親友のひとりが連れ去られた妹の救出を懇願しにやってきました。
関羽(雲長)は親友の妹を実の妹のように思って育ってきたのでなんとか救出してやりたいと立ち上がりました。
関羽(雲長)と親友は綿密に計画を練り、悪徳大商人の邸宅に忍び込んで親友の妹を救出する作戦を立てました。
そして作戦を決行し、親友の妹の救出に成功すると関羽(雲長)はわざと私兵らの注意を引き、自らおとりとなって、親友とその妹を自分とは反対方向へ逃がしました。
親友とはこれが今生の別れとなってしまいましたが、それと同時に彼の逃避行の始まりとなりました。

師匠をバカにしたチンピラを殺害

関羽(雲長)が師事した人物は名前こそ伝わっていないが漢の朝廷で宦官の汚濁政治に苦言を呈し、罷免されて都を追放された元官僚でした。この出来事は「党錮の禁」といわれ、漢朝廷が多くの忠臣を罷免したり処刑したりして清純派の名士たちを手放すキッカケとなった事件です。
関羽(雲長)は師匠の人柄や思想に感銘を受け、師匠を尊敬し学問を習ってきました。しかし、周りの人々の中には罪人という
レッテルが貼られているだけで、関羽(雲長)の師匠のことをよく知りもせずに尾ひれ尻びれをつけて悪い噂を流す者もいました。
関羽(雲長)は常々師匠のことを中傷する輩たちの言うことが気に食わず、何度も何度も腹を立てていました。師匠にこのことを報告しても「言わせておけばよいだろう。そんなつまらないことでいちいち腹を立てるな」とたしなめられていました。

ある日、関羽(雲長)が市場で塩を販売していると、すぐ近くで師匠のことを侮辱するような話を耳にしました。関羽(雲長)はこれに非常に腹を立て、「俺の師匠をバカにするなっ!!」と怒鳴りました。すると、噂話をしていたチンピラたちがカンカンに怒っている関羽のことをあざけ笑い、皮肉を言ってさらに彼をイライラさせました。さすがの関羽(雲長)も堪忍袋の緒が切れてしまい、ついカッとなって近くにあった刃物でチンピラの一人を刺してしまいました。
すると先ほどまで関羽(雲長)の師匠を中傷していたチンピラたちが「人殺しがいるぞ~」と叫びながら一目散に逃げ出しました。
また、関羽(雲長)の犯行を目撃していたのは多くあり、市場は逃げ惑う顧客や商人と関羽(雲長)を「人殺し」と罵倒するものたちであふれ返りました。ふと我に返った関羽(雲長)は血まみれになった己の手と握っていた刃物を見てこうしちゃおれぬとその場から逃げ出してしまいました。
殺人は当然重い罪になるので、役人たちも逮捕しようと彼を追いかけます。関羽(雲長)はここから関所をいくつもかいくぐり、劉備(玄徳)や張飛(益徳)のいる場所へ落ち延びていきました。

新たに立てられた仮説

関羽(雲長)は「関聖帝君」と崇められ中国各地や日本、他のアジア圏の国々に関帝廟が立てられるほどの人気者です。
みんなが神様と尊敬するだけあって関羽の出自に関する真相を研究する文学者や儒学者がいました。そして新たに立てられた仮説は、三国志ファンの我々の耳を疑うものでした。しかしながら、その仮説が立てられた根拠を知れば完全に否定することができかねます。
その説とは「関羽(雲長)が闇市の黒幕だった」というものです。この仮説を立てる際に根拠となった点は以下の通りです。

仮説を立てるもとになったポイント

(1)後漢末期塩は国家の専売で税金がかけられており、消費者の手に渡るころには
  「税金+塩の値段+問屋の儲け」の金額になっていた
(2)親友の妹救出説や師匠の仇討ち説は関羽の"仁義の厚さ"を"誇張"するために「後付けされた
  のではないか?」という考えも否定できないこと
(3)関羽(雲長)自身に商才があった
(4)問屋を介さず直接販売するのは違法だが民は安く買えて、塩商人は儲けが多い
(5)塩の運搬は賊の襲撃を受けることも頻繁にあったので、関羽(雲長)のような力自慢が集ま
  って積荷を警護する職業が当時すでに存在していた

まとめ

以上の観点を踏まえると「なるほどね!!」と頷ける説であることがわかります。しかしながら、三国志ファンの一人としては、忠義の臣関羽(雲長)は「人々のため、悪者を成敗し、やむを得ず追われる身となった」といういずれかの説が真実であってほしいと願います。
従来から考えられてきた「人々または師匠のために悪者を殺害した説」とにわかに立てられた「闇市の黒幕説」。あなたはどちらを信じますか?

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