関羽死す! 魏・呉・蜀が死闘を繰り広げた「樊城の戦い」

関羽死す! 魏・呉・蜀が死闘を繰り広げた「樊城の戦い」

 西暦219年、樊城の戦いで関羽が戦死した。関羽は、魏軍の守る荊州の樊城を攻め、于禁らを破った。しかし、呉軍の呂蒙らが魏に呼応して関羽の背後を突き、関羽は捕らえられて斬られた。なぜ、関羽は孫権の裏切りにあって殺されなければならなかったのか。複雑な戦いの経過を紹介する。


蜀・呉の係争地、荊州

蜀・呉の係争地、荊州

蜀・呉の係争地、荊州

208年、劉備(玄徳)と孫権の連合軍は赤壁の戦いで曹操を破り、三国鼎立は確実な情勢になった。しかし、この時問題になったのは、三国の国境のちょうど接するところにある荊州の領有権だった。
もともと荊州を治めていたのは、群雄の一人劉表だった。しかし、実力者の劉表は赤壁の戦いの直前に没し、荊州は係争地となった。
孫権は、「曹操への対抗上、荊州は劉備(玄徳)に貸し与えているに過ぎない」と主張して、劉備(玄徳)に荊州返還を迫った。しかし、劉備(玄徳)は荊州に右腕の関羽を駐屯させ、容易には応じなかった。
214年、呉の魯粛が荊州奪還の兵を出し、劉備(玄徳)・孫権は一触即発になった。結局、対立は曹操を利するだけと判断し、荊州を分割する境界線が引かれ、呉と蜀は和睦した。
217年、魯粛は46歳の若さで死去した。その後を継いで荊州方面の最高司令官になった呂蒙は、表向きは丁重な態度で友好的に接していた。しかし、内心では関羽を打倒し、長江一体を勢力下に治めようと機をうかがっていたのだ。

機を読んで同盟を破棄した孫権

機を読んで同盟を破棄した孫権

機を読んで同盟を破棄した孫権

219年、劉備(玄徳)は漢中から曹操を追い出すことに成功し、自ら「漢中王」を名乗った。関羽は、これに呼応して北上し、曹仁の守る樊城を攻めた。この時、関羽はすでに8年にわたって主君のもとを離れ、荊州を守っていた。
曹操は、于禁・龐徳を樊城の救援に向かわせた。しかし、折からの大雨によって漢水が氾濫を起こし、魏軍は水没してしまう。于禁はやむなく投降し、頑強に抵抗を続けた龐徳は関羽に斬られた。捕虜になった魏軍は、于禁を始め3万人にのぼった。
苦しい立場となった曹操に、司馬懿が進言する。
「孫権は、強大化した関羽を苦々しく思っています。長江以南を与えると約束し、孫権に関羽の背後を突かせるべきです」
曹操にとって孫権は、赤壁の戦い以来の仇敵だったが、ついに手を結ぶことを決断したのである。曹操は樊城救援のために徐晃を差し向け、同時に孫権に使者を送った。曹操の申し出に、孫権もすぐさま同意した。蜀が荊州の支配を既成事実化することを警戒していた上、関羽は孫権にたびたび無礼な言動を取って恨みを買っていた。例えば、孫権が関羽に「あなたの娘を私の息子の嫁に欲しい」と申し出たところ、使者を罵って拒絶するなどしていたのだ。
関羽の背後の江陵・公安には、それぞれ部下の麋芳と傅士仁を置いて補給に当たらせていた。しかし、関羽に重用されていなかったため彼らの士気は低く、孫権の誘いによってあっさりと寝返ってしまった。

関羽を倒した男・呂蒙とは?

関羽を倒した男・呂蒙とは?

関羽を倒した男・呂蒙とは?

呉の武将・呂蒙(字は子明)は、もともと低い身分の出身である。孫策の部将・鄧当が姉の夫だったことから孫策の配下に入り、孫策の死後は孫権のもとで功績を積んだ。主な戦いを上げると、黄祖の討伐・赤壁の戦い・荊州をめぐる曹操との一連の戦いでの活躍が挙げられる。
一方、その出身ゆえに教養に欠けていたのが弱みだった。若い頃、鄧当に仕えていた役人に馬鹿にされ、怒って斬り殺したこともある。(まもなく自首したが、この事件が孫策の耳に入る。興味を持った孫策が呂蒙を召しだし、気に入って彼を取り立てるきっかけとなった。)
主君の孫権は呂蒙に対し、勉学に励んで教養を身に付けるよう助言した。呂蒙は「忙しいのでできません」と言ったが、孫権は「私も忙しい中で勉強してきた。学者になるほどの勉学ではなく、ただ過去のことを多く知ってほしいのだ」と諭し、以後呂蒙は勉学に打ち込むようになった。(『江表伝』)
呂蒙の得た知識量は、孫権の配下で軍師として活躍していた魯粛すら驚かせるものだった。感心した魯粛は「呉下の阿蒙にあらず」(呉にいた頃の“呂蒙ちゃん”ではない)と言ったと伝えられている。努力によって人間は大きく変われるものだ、という逸話で、「士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし」という言葉としても有名である。
勇猛な武将が、成人してからの猛勉強で知略も身につけた。まさに「鬼に金棒」であり、呂蒙の計略は樊城の戦いでも大いに生かされることになった。

呉の将軍・呂蒙の繰り出した策略

呉の将軍・呂蒙の繰り出した策略

呉の将軍・呂蒙の繰り出した策略

司令官の呂蒙は、関羽の油断を誘うためさらに一計を案じた。自ら司令官の座を退き、後任に若く無名の陸遜を据えたのである。陸遜の下手に出た態度に、気位の高い関羽は油断し、呉への警戒を緩めた。
そうした中、孫権は呂蒙に命じて密かに江陵を攻めさせた。呂蒙は商人の船を装って長江を上り、江陵を守る麋芳を戦わずして降伏させる。この時、呂蒙は部下に対して略奪を禁じ、関羽やその配下の家族を丁重に保護した。
異変に気づいた関羽は、曹仁や徐晃の軍の反撃もあって、江陵への後退を始める。しかし、家族が厚遇されていると知った関羽軍の兵たちは戦意を喪失し、樊城と江陵の間にある麦城に立てこもる。
江陵に入った孫権は、関羽に使者を送って降伏を促した。関羽は受け入れるふりをして、密かにわずかな伴を連れて城から脱出を図る。しかし、孫権が先回りさせた軍勢に捉えられてしまった。孫権は関羽を生かそうとしたが、部下の反対にあい、関羽は息子の関平とともに処刑される。その後、孫権は関羽の首を、洛陽にいた曹操のもとに送り届けた。曹操は関羽の武勇を惜しみ、丁重に葬ったという。

歴史を大きく動かした戦いだった

歴史を大きく動かした戦いだった

歴史を大きく動かした戦いだった

こうして、呉は荊州から蜀の勢力を一掃した。劉備(玄徳)は荊州の地と関羽を失い、「天下三分の計」は大きな挫折を迎える。劉備(玄徳)は孫権への憎しみに駆られ、呉の討伐を決断。しかし、222年の夷陵の戦いでは蜀軍は呉軍の計略にかかって大敗し、劉備(玄徳)は失意のうちに死去した。

三国志で最も人気の高い武将の一人、関羽の最期の戦いである樊城の戦い。物語の中でも大きな山場といえるが、歴史の流れから見ても、魏・呉・蜀三国の力関係を大きく変えた戦いだったのである。





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