城塞都市
■ 城塞都市
城塞都市
日本では城攻めというと城下町を突破し、城門に至り二の丸や本丸を陥落させていくイメージですが、古代の中国の都市は町も宮殿も城壁に囲まれている城塞都市でした。広大な面積の都市を守る壁が必要でしたので、城壁はかなりの距離に及んでいます。この城壁を破ることが三国志の城攻めとなるのです。これは県であっても村であっても規模こそ違いますが、同じように城壁に囲まれていたといいます。もちろん城壁の外は深く掘って水を貯め、城濠を築いています。そのために城壁は高く、城壁の上からは攻め寄せてくる敵を弓矢で攻撃できるようにつくられていました。
城壁は版築という方法が用いられ、黄土を何度も突き固めて重ねて強度のある城壁を築いていました。さらに城壁には一定の距離をとって馬面という出城部分を設け、城壁を破壊したり、登ろうとする敵を側面から攻撃しています。城濠もあり城壁を突破して城塞都市を陥落させることは難しかったようです。
城塞都市の弱点
■ 城塞都市の弱点
城塞都市の弱点
攻略のポイントはやはり城壁ではなく、城門になります。城塞都市からの出入り口でもあるので濠もなく、攻め手は容易に城門に接近できます。大型の攻城兵器での攻撃も可能でした。防御する側も最も守りを厚くしたのが城壁です。ここが突破されると城塞都市全体が陥落したことになります。絶対に守りとおさねばならない最重要地点が城壁だったです。そのため城門近くには出城である関城というものがあり、攻城軍を迎え討ちました。城門の破壊攻撃に備えて、鉄板入りの戸板である懸門を装備してさらに城門の防備を厚くする手段もとられています。
攻城側も城門前が最も警戒されていて危険であることは承知していましたが、ここが城塞都市の最大の弱点だけに徹底的に城門を攻撃しています。まさに攻城戦は死闘となる激戦だったのです。
攻城側の工夫
■ 攻城側の工夫
攻城側の工夫
手薄となる城壁からの攻略も可能であるならば効果的です。まずは城壁にどのくらいの守備兵が配置されているのか、どのような防備が進められているのかといった情報が必要です。そのために城内を偵察する兵器が使用されています。要するに城壁よりも高い位置から観察できればいいわけです。兵士を守るための物見小屋から城壁内をのぞく望楼車などが活用されています。もちろん偵察するだけですので、これで守備の厚さを知り、城壁からの侵入を諦めて城門への攻撃に切り替えることも多々あります。城壁の防備に隙を見つけた場合は城濠を埋めなければなりません。この場合は、それを埋めるための土砂を積んだ填壕車を用いました。この兵器には濠を埋める兵士を守るための盾も装備されています。
さらに高い城壁を乗り越えるための雲梯も登場しています。消防車の梯子のようになっており、それが伸びて先端の鉤が城壁にかかる仕組みです。さらには城壁を攻撃する際の援護として井闌も開発されています。井桁状に組み上げていくもので、その中に弓兵を詰め、城壁を守る敵に直接弓矢で攻撃を仕掛けることができました。城壁を破壊する兵器としては投石車が有名です。てこの原理で巨大な石や岩を飛ばす兵器です。霹靂車とも呼ばれています。
厚い城門を破壊するためには衝車が使用されています。巨大な丸太を槌として利用し、城門を直接破壊するのです。頭上からの攻撃に備えて衝立などが装備されています。これらの攻城兵器は大型のため部品ごとに目標地まで運ばれたと考えられています。北伐の際にこのような大型攻城兵器で険しい山岳地帯を踏破することは不可能です。敵の城塞都市に近づいてから再度組み立てて使用したわけです。使用する際にはほどんどの攻城兵器に車輪が備えられており、兵がそれを押すことで城壁や城門に近づいていきました。ちなみに官渡の戦いでは、敵の攻城兵器を粉砕するために曹操は城内から霹靂車を活用しています。このように防御側が使用することもあったようです。
第二次北伐
■ 第二次北伐
第二次北伐
228年、合肥付近の戦い「石亭の戦い」で呉が魏に大勝します。これを好機と見た蜀の諸葛亮は二回目の北伐を開始するのです。前回の北伐は大掛かりなもので、魏軍を陽動しつつ涼州を制圧し、長安を攻めるというものでしたが、今回ははるかに長安に近い散関から陳倉に出るルートを選んでいます。兵站の問題があり、兵糧が不足する事態になることも想定されましたが諸葛亮は北伐を開始しています。
しかしこのルートは魏の対蜀総司令官である曹真に予想されており、すでに陳倉の防備は整えられていました。守る魏の将はほぼ無名に近い郝昭でした。曹操に仕えて各地の戦場で武功をあげた叩き上げの将軍です。押し寄せる蜀軍は数万の兵力だったのに対し、郝昭の兵力は数千だったと伝わっています。これが諸葛亮自ら指揮する初めての攻城戦でもありました。敵将が無名だったのでやや侮っていたともいわれています。
まとめ・攻城兵器への対応策
■ まとめ・攻城兵器への対応策
まとめ・攻城兵器への対応策
この戦いでは蜀は百台の雲梯を組み上げて城壁に攻め寄せたといいます。諸葛亮は城壁を一気に乗り越えさせて陳倉を陥落させようと試みたわけです。しかし郝昭は兵に火矢を放たせ、これをすべて焼き払ってしまいました。次に諸葛亮は城門を破壊し陥落を目指す方法に切り替え、衝車で四方の城門を一斉攻撃しましたが、郝昭は巨大な石をこれにぶつけて破壊しています。地下道を掘り進めて侵入することもしましたが、こちらも郝昭に見抜かれて防がれています。郝昭はとにかく陳倉を守備することだけを命じられていました。
こうして20日間が過ぎ、魏の援軍が長安に到着。ちょうど蜀の兵糧も底を尽き、諸葛亮は撤退を決意します。追撃してくる魏の勇将・王双を討ち取るものの、諸葛亮は陳倉攻略に失敗し、成都に戻りました。逆に郝昭の名はこのことで一躍有名になったといいます。皇帝である曹叡も喜んで郝昭を要職に抜擢しようとしましたが、その前に郝昭は病に倒れて亡くなっています。
兵器が多く登場した陳倉の戦いはこうして終了しています。城塞都市の攻略の難しさを物語るエピソードの一つではないでしょうか。「諸葛亮は攻城戦のみ不得意である」というレッテルが張られたのもこのときの影響でしょう。諸葛亮であっても一筋縄ではいかなかったわけですね。