三国志・正史でも演義でも評価の高い魏の李典はまさに蜀の趙雲

三国志・正史でも演義でも評価の高い魏の李典はまさに蜀の趙雲

魏には多くの名将や智謀の臣がいますが、その中のひとりに「李典」がいます。地味なイメージの強い李典ですが、蜀の趙雲のような活躍をしているのです。


魏の武将

魏の武将といえば誰があげられるでしょうか。張遼、徐晃、于禁、楽進、張郃、夏候惇、夏侯淵、曹仁、曹洪、許褚、典韋といった名将が揃っていますね。そんな中にはもちろん今回の主役の李典が含まれます。三国志ファンであればご存知の方も多い李典ですが、猛将という雰囲気ではありませんね。どちらかというと副将として的確な助言を与えるイメージです。楽進と一緒に組むことが多かったようです。忠実で冷静で、ほとんどミスなく仕事を貫徹する姿は蜀の趙雲と似ているかもしれません。今回はそんないぶし銀の働きを残した李典をご紹介いたしましょう。

李典の出生

李典、字は曼成。兗州山陽郡の生まれで、李家はもともと従父の李乾が有名だったようです。済陰郡で軍勢を率いて力を持っていました。兗州は曹操が刺史となりましたので、そこから李乾は曹操に従うようになったのでしょう。黄巾の賊徒と戦い、さらには徐州の侵攻にも従事しています。李典は李乾と共に戦場に出陣していますが、元来は武芸よりも儒学などを学ぶことを好んだと伝わっています。関羽も学んだとされる孔子の春秋の注釈書「春秋左氏伝」を師について学んでいます。このような李典の知性に曹操は目をつけていました。曹操が李典を重く起用するようになったのは、李乾の死後のことになります。

呂布との戦い

193年に曹操が徐州の陶謙を攻め、大虐殺を行いました。このとき兗州の留守を任されていた陳留郡太守の張邈は呂布を迎い入れて反乱を起こします。194年のことになります。兗州の各郡・各県の太守・県令の大半は張邈に味方しました。曹操は徐州攻めを諦めて兗州に帰還しますが、済陰郡の乗氏県の鎮撫には李乾を向かわせます。そこに説得に訪れたのが呂布の配下の薛蘭と李封でした。李乾はこの招きに応じず、殺害されてしまいます。圧倒的な兵力の差があったのだと思われます。それでも李乾は降伏を認めませんでした。曹操は李乾の跡目を息子である李整に継がせ、呂布と激戦を繰り広げていきます。李典もまた李整と共に呂布と死闘を演じています。後に曹操配下の猛将のひとりとして数えられることになる張遼はこのときは呂布の陣営におり、この関係もあって李典と張遼は不仲なのです。

195年には曹操側の勝利となり、呂布は兗州を追われることになりますが、このときの戦いで李整と李典は薛蘭と李封を破りました。見事に李乾の仇を討ったのです。この活躍が曹操に認められ、李家は大いに栄えるようになりますが、当主である李整が亡くなります。李典がその跡を継ぐことになりました。河北の雄である袁紹との官渡の戦い前に、李典は太守まで出世しています。

河北の戦いでの活躍

河北の覇者である袁氏との戦いでは、同じく兗州出身の程昱と組んで兵糧の輸送にあたっています。水路は危険なために陸路よりの輸送を命じられていましたが、敵の状況を逐一確認・分析した結果、水路を塞いでいる敵を撃退できると李典は判断しました。兵糧が届かなければ戦局に大きな影響を与えます。何よりも優先すべきは兵糧の安全な輸送ですが、陸路よりも水路の方が運べる量が多いのも確かです。できるだけ水路を利用したいのが曹操陣営の希望ではありました。しかし、曹操より敵を撃退してまで水路を確保しろとは命じられておらず、水路防衛への攻撃は李典のあきらかな専断となります。ここで程昱は李典の判断を支持しました。おそらく程昱も敵を撃退できると計算したのでしょう。李典は見事に敵を破り、水路を確保したのです。そんな臨機応変さも李典は持ち合わせていました。

博望坡の戦いでの進言

こちらは曹操軍と劉備(玄徳)軍との軍事衝突です。三国志正史と三国志演義では内容が異なります。有名な三国志演義では、主役は新参の諸葛亮です。曹操は河北を制定し、次は荊州の劉表を倒すべく夏候惇を送り込みます。副将に于禁と李典がいました。李典は敵の動きに不穏なものを感じて制止しますが、夏候惇はそれを聞かずに攻め込んで火計により大敗しています。諸葛亮は鮮烈なデビューを飾ることになるのです。

一方で三国志正史では、この戦いは曹操の河北平定中ということになります。しかも仕掛けたのは劉備(玄徳)の方です。荊州の劉表が袁氏への援護のためもあり、出兵させたのです。劉備(玄徳)はこのとき劉表の客将のような待遇を受けています。つまり博望坡は曹操の領地だったことになります。そしてこれを迎撃したのが夏候惇です。副将はやはり于禁と李典となっています。ポイントになるのは諸葛亮がまだ劉備(玄徳)の陣営にはいないということでしょう。劉備(玄徳)は夏候惇の軍とぶつかってみて、これは突破できないと判断し、自らの拠点に退却を始めました。夏候惇は追撃を命じますが、伏兵を懸念した李典がこれを制止します。しかし、聞き入れられず夏候惇は伏兵により危機的状況に落ち込みます。留守役だった李典はすぐさま救援に赴き、夏候惇を救い出しました。

どちらも夏候惇の判断が誤っており、李典が正確に相手を見抜いていたという内容になっていますね。しかし攻めるのか、守るのか、諸葛亮がいるのか、いないのかでかなり戦いの内容が変わってきます。

まとめ・張遼との共闘

合肥で孫権と対峙した際には張遼、楽進と共に組んで立ち向かいました。張遼と楽進が不仲だったこともありますが、親族を呂布勢に殺されている李典もまた張遼には私怨があったのではないでしょうか。やはり張遼と李典も不仲でした。そこを組ませる曹操の採択は凄いですね。李典は私情に捉われず、冷静に国益のことを判断してくれるという信頼があったとしか思えません。張遼はこの二人と組むことに不安を感じていましたが、李典はやはり個人の恨みを抑えて、国家の大事を優先します。張遼とともに撃って出て、迫っている孫権に反撃を開始するのです。このとき孫権は絶体絶命の状態まで追い詰められることになります。

李典は他人と功を競ったりすることはなく、慎み深い性格だったために陳寿からも高い評価を受けている人物です。残念ながら30歳半ばで亡くなりますが、間違いなく曹操を支えた名将のひとりといえるでしょう。


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