叔父を呂布軍に殺される
■ 叔父を呂布軍に殺される
叔父を呂布軍に殺される
李典は若い頃から武芸よりも学問を好んでいて、智略に秀でていました。李典の叔父にあたる李乾は、多数の食客を擁しており、力を付けてきた曹操(孟徳)の配下になりました。李乾は曹操の元で192年から194年にかけて各地の戦闘に参戦しています。当時は時の権力者であった董卓が呂布(奉先)に殺害され、都はおろか各地の治安は悪くなっていき、曹操や袁紹などの群雄が飛躍するきっかけになっていきました。
呂布が曹操と戦うようになると、李乾は地元の乗氏県に戻り、人心を安定させる役目を担いました。しかし、呂布の配下である薛蘭・李封たちに降服するように迫られ、李乾はこれを拒否しており、結果殺害させられてしまいました。
いくら李典が武芸を好まないとはいっても、叔父を殺害されて大人しくいるはずもなく、呂布軍に対して大きな恨みを持っていたことでしょう。忠義を貫いたことに対して、曹操は李乾の子に跡を継がせています。
この当時には李典は曹操軍に配備されており、195年には叔父の仇となる薛蘭・李封を襲撃して勝利しました。曹操が呂布に奪われた兗州各地を平定していき、曹操の信頼も厚くなっていきます。
曹操軍で飛躍していく
■ 曹操軍で飛躍していく
曹操軍で飛躍していく
李乾の子も亡くなると、李典はその一軍を率いることになります。李典は学問を好んでおり、当時は知将よりも猛者が多い自軍に対して、曹操は李典に大いに期待していたことでしょう。
李典は曹操が袁紹との大一番を迎えた200年の官渡の戦いにも参戦し、兵糧の輸送に奔走しました。兵糧がキーポイントとなったこの戦いでは袁紹軍が敗れると、李典はその功績で裨将軍に任命されています。
袁紹の死後、曹操は袁譚と袁尚を攻め、李典は軍略家の程昱と共に水路で兵糧を輸送する計画を練りました。袁尚は水路を遮断するように命じており、水路を通るのが難しい状況となっていました。しかし、曹操は万が一のために、水路が困難な状況な場合は陸路に変更するように指示を出していました。
命令違反を犯してでも自軍の利を優先
■ 命令違反を犯してでも自軍の利を優先
命令違反を犯してでも自軍の利を優先
李典は水路を守っている将兵の戦力状況を分析し、陸路に向かわず水路攻撃を主張しています。李典は命令違反をしたがらない諸将に対して、「国家の利益となるのならば、独断は許されるはず」と言い放ち、曹操の性格を良く知る程昱も同意します。
李典らは袁尚軍を攻めて水路を確保しました。もともと曹操は有能な将は大事にし、偏見にこだわらず、かつての敵であっても自軍の利益となる人材ならば率先して採用していたほどでした。恐らく李典も結果を出せば、曹操は納得するだろうと踏んでいたに違いありません。
博望坡で劉備の計略を見抜き、夏候惇を救出
■ 博望坡で劉備の計略を見抜き、夏候惇を救出
博望坡で劉備の計略を見抜き、夏候惇を救出
曹操が河北を統一する頃、劉備(玄徳)は劉表の元に身を隠しており、劉表軍の一員として北上してきました。曹操は夏候惇を大将として派遣し、李典は副将の立場で付き従っていました。この博望坡の戦いでは、劉備(玄徳)は自陣に火を放って退却し、夏候惇は劉備(玄徳)が臆病風に吹かれたと思って追撃していきます。李典は劉備(玄徳)の潔い退却姿勢に疑問を抱き、伏兵の恐れがあると進言しますが、夏候惇は聞き入れずに李典に留守を任せます。結果的に劉備(玄徳)は伏兵を用意しており、夏候惇ら魏軍は混乱していきますが、李典が機転を利かして急きょかけつけて、夏候惇を救い出します。
その後楽進と共に各地を歴任しており、李典は捕虜将軍に昇進しています。
合肥の戦いで呉軍を撃破
■ 合肥の戦いで呉軍を撃破
合肥の戦いで呉軍を撃破
李典は魏軍の中でも中枢を担い、曹操における信頼はますます大きなものとなっていきました。中でも一番の激戦となったのが215年の合肥の戦いです。当時の背景として魏軍が天下統一を狙って南下する際、孫権と劉備(玄徳)が手を組んで対抗した赤壁の戦いによって一時勢力が停滞していました。一方の劉備(玄徳)と孫権は荊州の勢力争いを起し、仲が悪くなっていましたが、劉備(玄徳)との折り合いが付くと孫権は勢いに任せて北上し、10万の軍を以って合肥城を攻めました。
この時、合肥には孫権を警戒して歴戦の勇である張遼と楽進、李典が配備されていましたが、それぞれ仲が悪く、共闘するのは難しい状況となっていました。今後の展開を踏まえて敢えて曹操が配備したとも考えられます。特に李典は叔父を呂布軍に殺されており、当時は呂布に仕えていた張遼を相当恨んでいました。
張遼と共闘して呉軍に立ち向かう
■ 張遼と共闘して呉軍に立ち向かう
張遼と共闘して呉軍に立ち向かう
曹操は関中を支配下に置くべく張魯を攻めており、すぐには参戦できませんでした。曹操は先に合肥への指示書を送っており、それを預かっていた尚書令の薛悌は、いざ開戦というまで3将軍に見せませんでした。
曹操の指示書には張遼と李典は出撃し、楽進は薛悌と共に城を守れと書いてあり、私情を挟んでは国家の大事を妨げはしないと言い、城を討って出て張遼と共に呉の大軍を相手に奮戦して城を守り抜きました。
この戦いは呉軍10万に対して、魏軍は1万人にも満たないとされており、城を討って出る李典や張遼には断固たる決意があったに違いありません。
死んでからも影響力を残す李典
■ 死んでからも影響力を残す李典
死んでからも影響力を残す李典
李典はさらに出世しますが、儒学の影響もあって誰とも功績を争う素振りも見せませんでした。諸将にも常に謙虚に接しており、このことからも人望は厚かったとも思われます。しかし、36歳という若さで亡くなり、子の李禎が李典の後を継ぎました。
曹操の跡を継いだ曹丕が皇帝に即位すると、李典の合肥での功績を思い起こし、子である李禎にも恩賞が取られました。また、243年には曹芳によって、曹操の廟庭に功臣20人を祭る際、李典もその一人に選出されています。三国志の著者である陳寿も李典を評価しており、早すぎる死が惜しまれています。
三国志演義での李典
■ 三国志演義での李典
三国志演義での李典
小説の三国志演義では、早くから曹操に仕えた知将として描かれています。曹操が南下する際、曹仁の配下として劉備(玄徳)が守る新野城を攻めています。劉備軍には徐庶が軍師として策を授けており、曹仁の先鋒隊を少数の兵で破っていました。警戒した李典は曹操に援軍を要請するべきであると李典に上奏しますが、兵力的に大きく勝っていた曹仁は一気に攻めて徐庶の策略にはまって大敗しています。
また、先の戦いの報復として曹操は夏候惇に新野を攻めさせます。劉備軍には今度は諸葛亮が軍師として参戦し、両軍は博望坡で激突します。正史と同様に劉備(玄徳)は退却し、李典は不審に思って副将として参戦していた于禁とともに夏侯惇へ追撃を自重するように進言しています。しかし、夏侯惇は李典の進言を真に受けずに深追いして諸葛亮の策略にはまり、魏軍は続けて大敗を喫することになりました。敗れはしたものの、曹操は李典の行動を勝算しています。