河北の雄・袁紹
■ 河北の雄・袁紹
河北の雄・袁紹
宿敵である公孫瓚を滅ぼし、河北を制したのが名門袁氏の袁紹です。200年に官渡の戦いで曹操に敗れ、202年に病没しますが、その時期に天下統一に最も近かったのが袁紹なのです。袁紹は四世に渡り三公を輩出した名門中の名門の出であり、冀州という肥沃で広大な領地を拠点にしていました。さらにその名声に惹かれて多くの名士が集まっています。軍事力も強大であり、誰もが曹操の負けを予想していました。曹操はそんな危機的状況を乗り越え奇跡の大逆転を演じるわけですが、今回は勝利するはずだった袁紹の家臣団にスポットを当てて、誰が優秀だったのかを考察していきます。
武勇に優れた将
■ 武勇に優れた将
武勇に優れた将
まずは武勇に優れた武将を探してみましょう。ここはやはり袁紹配下で最強と呼ばれた「顔良」と「文醜」でしょうか。顔良は三国志演義においては曹操配下の魏続と宋憲を討ち取り、徐晃を撃退する活躍を見せました。文醜も猛将のひとりとして張遼を退け、徐晃を破る働きをしています。まさに袁紹配下の二枚看板です。
ここに加えるのならば「張郃」でしょう。曹操に降伏してからは楽進や張遼と並ぶ五大将軍のひとりに数えられています。後年は蜀の諸葛亮とも交戦しており、街亭の戦いではその先陣を務める馬謖を破っています。さらに「高覧」もいます。こちらも張郃と同じタイミングで曹操に降伏しました。三国志演義では猛将として知られる許褚と互角の一騎打ちを披露していますが、曹操に降ってからの活躍はほとんどありません。
知略に優れた参謀
■ 知略に優れた参謀
知略に優れた参謀
筆頭は「田豊」でしょうか。権謀術策に優れていたとされています。ただ、田豊の進言が用いられることが少なく、そのために袁紹は滅亡へ突き進んでいきました。田豊の進言で用いられなかったものの有名なところでいくと、「曹操との持久戦」、「献帝の保護」、この2点があげられます。曹操は袁紹が田豊の知略を活かしていたら自分は負けていただろうと感想を述べています。そしてもう一人、田豊に匹敵するのが「沮授」です。参謀というよりも総司令官といった知将でした。田豊と同じように進言がなかなか用いられていません。さらに総司令官という立場を失い、その権力を三分割されています。沮授もまた曹操とは持久戦をすべきと主張しており、献帝の保護も訴えていました。袁紹が田豊と沮授をもっと重用していれば官渡の敗戦も起こり得なかったことでしょう。
足を引っ張り合う名士たち
■ 足を引っ張り合う名士たち
足を引っ張り合う名士たち
袁紹の組織は名士たちの集合体という一面もありました。そこではプライドのぶつかり合いもあり、激しい派閥争いも生じてきます。相手とは逆の意見を主張し、さらには相手を失脚させようという動きも出てくるのです。田豊と沮授はこうして失脚していったのです。そこには冀州出身の名士と豫州出身の名士の衝突もありました。
例えば「郭図」です。曹操の配下で軍師として名高い郭嘉と同族にあたります。官渡の戦いでは田豊や沮授に対抗すべく短期決戦を主張しました。袁紹亡き後は長子である袁譚を推し、そのために内紛が発生しています。「審配」も同様です。郭図が豫州の名士であるのに対し、審配は冀州の名士です。やはり田豊や沮授に対抗して短期決戦を主張しました。袁紹亡き後は郭図と衝突し、三子の袁尚を推しています。袁尚を推したのは「逢紀」も同様です。袁紹の旗上げ当時から仕えていた古参メンバーのひとりで、冀州乗っ取り作戦などを提案しています。同様に古参メンバーでは「許攸」もいます。袁紹に重用されていましたが、見限り曹操に寝返っています。許攸の寝返りによって最重要機密であった烏巣の兵糧庫を知られることになり、攻撃されることになるのです。名士といえば烏巣守備の総大将である「淳于瓊」もいます。かつては袁紹や曹操とともに西園八校尉に選出されたほどの人物です。三国志演義では酒好きとして描かれており、そのために曹操の襲撃を防げなかったとされています。
その他の袁紹の名臣
■ その他の袁紹の名臣
その他の袁紹の名臣
豫州の名士である「辛評」もいます。審配とは犬猿の仲で失脚させようとして失敗しています。郭図とともに長子・袁譚を推しました。辛評には弟がおり、それが「辛毗」です。辛毗は袁氏が滅びた後も曹操に仕えて活躍しています。曹丕とも昵懇の間柄でした。曹丕が禅譲を受ける準備をしたのも辛毗になります。長命で、曹叡の代にも仕えており、さらには蜀の諸葛亮とも対峙しました。五丈原の戦いでは諸葛亮の挑発によって司馬懿ですら将兵を押さえられなくなっていましたが、辛毗が登場することで規律は守られたといいます。もし辛毗がいなかったら、魏軍は統制が取れずに五丈原の戦いで敗れていたかもしれません。
袁紹の家臣の中で曹操を強烈に怒らせた人物がいます。建安七子にも数えられる「陳琳」です。打倒曹操の檄文の筆者で、曹操のみならずその祖先すらも痛烈に批判しています。それを読んだ曹操は怒り心頭だったそうですが、降伏した陳琳を処刑することもなく、許して仕官させています。能力のある者を評価する曹操の徹底した姿勢には驚きです。
まとめ・袁紹一門
■ まとめ・袁紹一門
まとめ・袁紹一門
袁紹の死後は長子・袁譚と三子・袁尚の間で後継者争いが勃発します。これは事前に沮授が恐れを抱いていた出来事でした。袁譚は袁紹の指示によって伯父の養子に出されていたので後継者に該当していなかったのです。しかし青州の刺史となったことで力を得、袁紹が明確に後継者を指名せずに病没したこともあり内紛が発生しました。だからこそ沮授は袁譚を青州刺史に任じることに異を唱えていたのです。この内紛が曹操のつけ入る隙となり、河北は曹操に制圧されてしまいます。
いかがでしたでしょうか。こうやって袁紹の家臣をあげてみると有能な士が多いことに改めて気づきます。そしてその能力をうまくまとめあげられなかった袁紹は、やはり曹操よりも器が小さかったのかなと感じてしまいますね。曹操が偉大すぎたのでしょうか。
私としては、一番手はやはり沮授でしょうか。知略だけでなく統率に優れていた点も見逃せません。周瑜のような存在だったのではないでしょうか。もう少し活躍を見たかったですね。周瑜や諸葛亮とも互角の戦いを繰り広げてくれたかもしれません。