捜神記とは
■ 捜神記とは
捜神記とは
「捜神記(全二十巻)」は、東晋の干宝(西暦318年~西暦419年)によって著された奇術、怪談を収集した書物です。西暦350年ごろに成立し、著者の干宝は、晋の歴史書である「晋紀」も皇帝からの詔勅を賜り著作した晋の文官のなかでもトップクラスの文学者です。
「捜」は「探す」、「神」とは「超自然的なもの」という意味があり、著者である干宝自身が、実父の家の奴婢が、墓の中で十数年生き続けたことや兄が呼吸困難が原因で病死したのち、息を吹き返してあの世に行く途中に見聞きしたことを伝えられるなどの怪奇現象に遭遇しました。
それらの経験があることから鬼神妖怪の話に大変感激し、鬼神の存在を頑なに信じ続け、それらを証明するために「捜神記」を記したと言われています。
「捜神記」著作の方針は、神仙、方士、卜占、風神、水神、土地神、吉兆、凶兆、幽鬼(おばけ)、妖怪などに関する見聞したものをありのままに記録することにありました。さらにこの書物は仏教の影響を強く受けており因果応報の説と交えて輪廻の理についても書かれています。六朝説話の宝庫と呼ばれており、中国小説で仏教の影響を受けた最古の書でもあります。
諸葛亮の故郷に伝わる怪談(お爺さん、二人の孫を刺し殺す)
■ 諸葛亮の故郷に伝わる怪談(お爺さん、二人の孫を刺し殺す)
諸葛亮の故郷に伝わる怪談(お爺さん、二人の孫を刺し殺す)
巨伯爺さん
■ 巨伯爺さん
巨伯爺さん
瑯琊は、いまの山東省西南部にあたりますが、そこに住んでいた秦巨伯(しん きょはく)が、60といういい年をしておきながら、ある晩酒を飲んで酔っ払い、千鳥足で帰宅しようとしていました。
道教の神様をお祀りしている寺を通りかかりますと、2人の孫がわざわざ迎えに来ていました。巨伯爺さんにとって2人の孫は目に入れても痛くないほど可愛いものです。
2人の孫は巨伯爺さんに肩を貸して支え、巨伯爺さんの歩行を介助していました。しかし、百歩あまり歩いたころでしょうか。2人の孫はいきなり巨伯爺さんの首筋をグッとつかんで、巨伯爺さんの額を地面に擦りつけました。
そして「おいっ!クソジジイ、いついつの何時に俺らを鞭打ったな。今度は俺らが殺してやる!」と、罵声を浴びせました。
巨伯爺さんは驚きました。なぜなら間違いなくその日その時間に孫を折檻していたからです。とっさに巨伯爺さんは死んだふりをしました。すると孫はそのまま立ち去りました。
怒り狂う巨伯爺さん
■ 怒り狂う巨伯爺さん
怒り狂う巨伯爺さん
巨伯爺さんはショックを受けると同時に、大変ご立腹でした。帰宅するやいなや2人の孫を呼びつけて処罰しようとしました。2人の孫は処罰のわけを聞くと、驚き呆れて、額を床に何回も打ち付け必死に弁明しました。
「ぼくたちがお祖父さんにそんな乱暴をすることができるはずないでしょう。多分お祖父さんは魑魅魍魎に騙されたんですよ。絶対ぼくたちはそんなことをしていないからもう一度お寺に行って確めてください」
巨伯爺さんも2人をそんな恩知らずに育てたつもりはなかったので、その通りであると納得したのです。
巨伯爺さんの妖怪退治
■ 巨伯爺さんの妖怪退治
巨伯爺さんの妖怪退治
数日後、巨伯爺さんは酔っぱらったふりをして、例のお寺のあたりを歩いていました。するとまた孫たちが迎えに来たのです。そして前と同じように巨伯爺さんの肩を支えて歩き始めました。そこで今度は、巨伯爺さんが急にグッと身体を抱き上げて渾身の力を込めて締め上げました。妖怪は身動きがとれません。そのまま自宅へ連れ帰り本物の孫でないことを確かめようとしました。
帰宅すると本物の孫は家の中にいました。巨伯爺さんは妖怪を締め上げている腕を緩めず、火を燃やし火中へ妖怪たちを放り込みました。2人の妖怪はとうとう正体を現し、火の中で苦しそうに「ギャーギャー」とうめき声をあげました。
ひどい火傷で腹も背中も黒焦げとなり、皮膚はあちこちただれて裂けていました。そして巨伯爺さんは2人の妖怪を庭の真ん中に放り投げておきました。これで完全に死滅したと思い込んでいたのです。しかし、夜中に2人の妖怪は逃走していました。
「しまった、あのときとどめを刺しておけばよかった…」。巨伯爺さんは後悔しました。
誤解が生んだ悲劇
■ 誤解が生んだ悲劇
誤解が生んだ悲劇
一月後、巨伯爺さんはまた酔ったふりをして、懐中に短剣を忍ばせて外出しました。しかし、このことを家人は誰も知りませんでした。
例のお寺のあたりを徘徊してもなかなか妖怪たちは現れません。巨伯爺さんはなんとかとどめを刺したいと考えていたため、決着をつけるまで家に帰ろうとはしませんでした。
夜通しお祖父さんが戻らないことに家族たちは気づき、家では大慌てです。2人の孫はまたお祖父さんが妖怪に化かされることを心配し、本物の孫たちが2人そろって迎えに行きました。
やはり巨伯爺さんは、例の寺のあたりをウロウロしていました。孫たちは巨伯爺さんに声をかけ、走り寄りました。
すると「今度こそ化け物の息の根をとめてやる」と巨伯爺さんはなんの疑いもなしに、自身の孫たちの腹に持っていた剣で思い切り刺してしまいました。
無鬼論者と鬼
■ 無鬼論者と鬼
無鬼論者と鬼
※1無鬼論者…この世に幽霊はいないと信じている者のこと
※2鬼…幽霊のこと
阮瞻(げんせん)は、字を千里といいます。つねづねから「無鬼論」を唱えて、誰ひとりとして論破することができませんでした。つねに自分の筋の通った道理として、「幽」とか「明」なんてありえないことであると論じていました。
ある日来客があり、時候の挨拶が終わって、少し論じますと、来客はたいへん雄弁でした。しばらくして、鬼神のことに論が及び、鬼神論が繰り返されましたが、客はついに阮瞻に言い負かされ屈服したかのように見えました。ところが、その途端に顔色をサッと変えて「鬼神の存在は、古今の聖人賢人が伝えているところだ、君一人存在を否定するとは何事ぞ。我こそ鬼神なるぞ」と、凄まじい形相で阮瞻を睨み付けました。たちまち阮瞻は気を失ってしまいました。
阮瞻はそれから呆然として口がきけなくなりました。さらに気持ちがふさぎ込んでしまい、一年余りで病を患い、永遠の眠りについてしまいました。
兎のおばけ
■ 兎のおばけ
兎のおばけ
道の上になにかいます
■ 道の上になにかいます
道の上になにかいます
魏の黄初年間、頓丘(とんきゅう)の町外れで、馬に乗って夜道を旅している人がいました。旅人は道に何かいることに気付きました。それは兎くらいの大きさで、両目は鏡のように輝き、馬の前を飛び跳ねて馬を進めないようにしていました。それを追い払おうとすると、その兎のような動物はムクムクと身体を大きく変身させて馬と同じくらいの大きさになりました。
旅人は驚きのあまり馬から転げ落ちてしまいました。するとその兎のような動物は凶暴な目つきをして旅人に近づき、旅人の身体を抑えつけました。とうとう怖さのあまり旅人は失神してしまいました。しばらく経って、気が付くと旅人は道の真ん中で仰向けになっており、身体のどこにも異常はありません。兎のような化け物もとっくに姿をくらましていました。
別の旅人との出会い
■ 別の旅人との出会い
別の旅人との出会い
旅人はやっと馬を進めました。数里進んだところで1人の別の旅人と出会いました。お互いに行先を尋ねあったり、他愛もない会話を楽しんでいました。そして旅人は別の旅人に「さっきはかくかくしかじかひどいことがありましたが、あなたのような旅の道連れができてうれしいです」と話すと、
別の旅人は「私も一人で旅をしていたので、一緒に旅をできる方と出会えて言葉にできないほど嬉しいですよ。ところで、あなたの馬は速いので前の方へ行ってください。私は後からついて行きますから」と提案をされました。旅人は先導することを快諾しました。
旅人と別の旅人という順序で道中を進むことになりました。すると後ろの方から別の旅人が、さりげなくこう質問しました。
ふたたび…
■ ふたたび…
ふたたび…
別の旅人 「さっき話していた化け物ってどんな格好だったんですか?」
旅人 「兎にそっくりで、両目は鏡のように光り、二目とみれないほど怖いものでした」
別の旅人 「それはこんな感じですか?ちょっと私をみてください」
旅人が振り返るとなんとそこには先ほどの化け物が馬に跨っていました。化け物はパッと馬上に飛び移ってきました。旅人は悲鳴をあげ落馬すると、また失神してしまいました。
何日か経って、旅人の馬だけが家に戻ってきました。家族は、心配して道々を訪ね歩き、道端に転がっているのを発見しました。一昼夜たってようやくが旅人が目覚め、これまでのことがわかったのでした。
まとめ
■ まとめ
まとめ
「捜神記」は以上のようなエピソードを数多く集めている資料です。いままで紹介してきた怪談以外にも背筋が凍るようなお話や戦死したはずの父親に会えたというホッコリする怪談も掲載されています。筆者はホラーが好きなので、もっと紹介したいのですが季節のことを考慮すると今年はこれをラストにするべきだと考えました。
「捜神記」は文学的に顕著な資料なので、全国の図書館にも蔵書されているはずです。厚い本なので読み切るのに相当な時間と労力を必要としますが、気になる方はぜひ読んでみてください。