伏龍鳳雛に引けをとらない天性の策士【法正】

伏龍鳳雛に引けをとらない天性の策士【法正】

策略家で劉備(玄徳)の腹心といえばだれを思い浮かべるでしょうか。やはり諸葛亮(孔明)を挙げる人が多いものといえます。その諸葛亮にも大きな信頼を寄せられ、劉備の入蜀へ大きな貢献をしていたのは法正(孝直)です。頭の回転が速く、諸葛亮やホウ統(士元)といった天下の策士に引けを取らない法正をここで紹介していきます。


益州で劉璋に仕えるも劉備の可能性を見出す

益州で劉璋に仕えるも劉備の可能性を見出す

益州で劉璋に仕えるも劉備の可能性を見出す

法正(孝直)は196年、同郷の孟達(子敬)と共に益州を支配していた劉璋(季玉)に仕えています。法正(孝直)は県令などを歴任しますが、重要な役職に就けるわけでもなく、劉璋(季玉)の下では出世も絶望的で、大成をなすことができないと感じていきました。

そんな法正(孝直)と同じことを考えていたのが、親友の張松(子喬)でした。張松(子喬)も益州の未来を案じており、法正(孝直)と協力して仁徳の高いと評判である劉備(玄徳)を招き入れようと計画を練っていきます。

劉備を招き入れて劉璋を降伏させる

劉備を招き入れて劉璋を降伏させる

劉備を招き入れて劉璋を降伏させる

法正(孝直)と張松(子喬)は劉璋(季玉)に曹操(孟徳)と断交させ、劉備(玄徳)と盟約を結ばせました。さらに、劉璋(季玉)と因縁のある漢中の張魯(公祺)が攻めてくると脅威を抱かせて、益州の守りに劉備(玄徳)を就かせるように説きました。

臆病でもあった劉璋(季玉)はこの案を受け入れます。しかし、かねてからの重臣たち、とりわけ武に秀でていた将軍たちは劉備(玄徳)に乗っ取られる恐れを抱き、劉璋(季玉)に思いとどまるよう進言します。

法正(孝直)と張松(子喬)は協力して素早く動き、劉備(玄徳)の下へ使者となり、益州へ入るよう勧めています。諸葛亮(孔明)は荊州に残り、魏や呉を牽制する役目を担っており、当時の劉備(玄徳)軍で軍師を兼ねていたホウ統(士元)はこの案を受けて、劉備(玄徳)に入蜀を急ぐよう進言しました。

その後、劉備(玄徳)が劉璋(季玉)軍を破り成都を包囲すると、法正(孝直)は劉璋(季玉)に降伏するよう手紙を送り、劉璋(季玉)はその通りに劉備(玄徳)へ服従しています。

劉備配下で活躍

劉備配下で活躍

劉備配下で活躍

劉備(玄徳)が益州を支配下に収めると、法正(孝直)はその功績を認められて蜀郡太守になり、諸葛亮(孔明)とともに政治の中心的存在として、劉備(玄徳)の策謀役へと躍進しました。法正(孝直)が管轄することになった蜀郡前太守の許靖は、劉備(玄徳)に対抗しており、劉璋(季玉)の敗北が決まりそうになってから投降したことで、劉備(玄徳)の評価はそれほどでもありませんでした。しかし法正(孝直)は許靖の名声を利用して、益州の治安を安定するよう劉備(玄徳)に進言しています。

定軍山で魏と大一番の戦いを演じる

定軍山で魏と大一番の戦いを演じる

定軍山で魏と大一番の戦いを演じる

張魯(公祺)が支配していた漢中は、曹操(孟徳)によって占領されており、魏軍の夏侯淵(妙才)と張コウ(儁乂)が守備を任されていました。しかし、法正(孝直)はこの両将に漢中を守りきるのは難しいだろうと推測し、劉備(玄徳)に漢中を攻めて益州の地盤を強めるように進言しました。

武都の戦い

武都の戦い

武都の戦い

劉備(玄徳)は218年、漢中を攻めるべく軍を動かします。古参の張飛(益徳)、劉璋(季玉)配下であった呉蘭や雷銅、涼州の雄であった馬超(孟起)といった各将軍に2万という大軍を派遣しました。

曹操(孟徳)は急報を受けると、自らは出陣せずに曹洪(子廉)・曹真(子丹)・曹休(文烈)ら一族を援軍として派遣しました。曹操(孟徳)は若い力を試すべく、総指揮官の曹洪(子廉)に対してあくまでも見守る立場で、次世代の諸将に指揮を執らせるように指示しています。

呉蘭・雷銅らは漢中から北西の武都に進出し、張飛(益徳)や馬超(孟起)は別軍で進んでいます。曹洪(子廉)らの援軍は張飛(益徳)や馬超(孟起)といった諸将を撃破し、呉蘭・雷銅は曹操(孟徳)に味方した地元の部族の襲撃にあって斬り殺されました。夏侯淵(妙才)も援軍に合流するべく漢中から西にある陽平関まで進出していました。

陽動作戦を用いて夏侯淵を孤立させる

陽動作戦を用いて夏侯淵を孤立させる

陽動作戦を用いて夏侯淵を孤立させる

一見、魏軍の勝利にも見えましたが、実はこの張飛(益徳)らの武都進軍は陽動作戦であり、劉備(玄徳)や法正(孝直)ら本軍は夏侯淵(妙才)の背後に回って、漢中と陽平関を遮断する形をとりました。さらに劉備(玄徳)は法正(孝直)の助言もあり、陽平関を挟み討ちにするべく、陳式に兵を持たせて夏侯淵(妙才)の前方に出ようとします。ここで曹洪(子廉)らの援軍は武都で張飛(益徳)らの撤退軍と戦っており、すぐさま駆けつけることができませんでした。

法正(孝直)の策略の本質は曹操(孟徳)の援軍を叩くことではなく、漢中を守備する名将の夏侯淵(妙才)・張コウ(儁乂)を排除するのが目的だったのです。しかし、陳式の別同隊は魏軍のもう一人の猛者である徐晃(公明)によって防がれてしまいます。

策略が冴えわたる法正

策略が冴えわたる法正

策略が冴えわたる法正

夏侯淵(妙才)の陣営には、曹洪(子廉)ら曹操(孟徳)からの援軍と徐晃(公明)といった将軍たちがいなかったものの、信頼を置いている張コウ(儁乂)に1万の兵を持たせて劉備(玄徳)本隊に対応します。一方、劉備(玄徳)軍の法正(孝直)は自軍を10部隊に分けて張コウ(儁乂)に夜襲を仕掛けました。さすがに歴戦の強者である張コウ(儁乂)はこの猛攻を耐え抜き、劉備(玄徳)を驚かせます。

そこで法正(孝直)は陣を焼き払うことで張コウ(儁乂)を孤立させ、動揺した張コウ(儁乂)軍は劣勢に陥ります。すかさず夏侯淵(妙才)は自軍の半数を以って張コウ(儁乂)の救援に駆けつけますが、これこそが法正(孝直)の狙い目であり、このチャンスを逃さず今こそ夏侯淵(妙才)を討ち取るべきであると劉備(玄徳)に進言します。

劉備(玄徳)軍には馬超(孟起)や張飛(益徳)といった天下に名の届く猛者が陽動作戦に出たこともあって、だれが夏侯淵(妙才)の本陣を急襲する役目を担うか議論が行われようとしていました。そこへ劉備(玄徳)の入蜀に貢献した黄忠(漢升)が立候補しています。

劉備(玄徳)は黄忠(漢升)と法正(孝直)にコンビを組ませ、夏侯淵(妙才)の撃破を指示します。法正(孝直)はまず、夏侯淵(妙才)の本陣から南へ離れた逆茂木(敵の侵入を防ぐ柵)を焼き払います。夏侯淵(妙才)は400名の兵を引き連れて自ら修復作業に入りました。

その間、黄忠(漢升)は1000名を引き連れて、先頭を切って夏侯淵(妙才)の本陣がある後方の険しい高所を登り、一気に奇襲をしかけました。慌てた夏侯淵(妙才)はすぐさま迂回して、迎え撃とうとしますが、高所に囲まれた本隊は連携をとれずに黄忠(漢升)軍の突撃を受けて散々に敗れてしまいます。

夏侯淵を討ち取る

夏侯淵を討ち取る

夏侯淵を討ち取る

夏侯淵(妙才)は討ち取られてしまい、総大将を失った魏軍は浮足立ってしまいます。法正(孝直)の策略は見事にはまり、一気に魏軍を崩そうとしますが、残った魏軍の諸将が夏侯淵(妙才)の後任に張コウ(儁乂)を持ち上げ、軍を落ち着かせて対処しています。張コウ(儁乂)は冷静に退却を指示して魏軍を守り抜きました。以降は援軍に駆けつけていた曹真(子丹)とともに、長きに渡り蜀軍と均衡を図るようになっていきました。

劉備(玄徳)・諸葛亮・曹操にまで評価された法正

劉備(玄徳)・諸葛亮・曹操にまで評価された法正

劉備(玄徳)・諸葛亮・曹操にまで評価された法正

夏侯淵(妙才)を失った曹操(孟徳)は大いに嘆きますが、法正(孝直)の存在を知ると、「多くの有能な人材を手にしながら、なぜ法正(孝直)だけは手に入れられなかったのか」と悔しがったといわれています。

その後、劉備(玄徳)は固く守りを閉ざし、攻めてきた曹操(孟徳)本隊を退けて無事に漢中を支配下に収めました。しかし、この激闘のあと間もなく、法正(孝直)は病にかかりこの世を去りました。劉備(玄徳)は深く悲しみ、法正(孝直)の子を昇進させるなど忠義に報いています。

後に夷陵の戦いが起こり、劉備(玄徳)が孫権配下の陸遜に大敗を喫して心痛から死んでしまいます。諸葛亮(孔明)は、もしも法正(孝直)が生きていれば劉備(玄徳)の東征を止められていたかもしれず、仮に出征してもここまで大敗することはなかったはずだと嘆いています。





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