曹操の挙兵時から参戦して評価が分かれやすい【曹洪】

曹操の挙兵時から参戦して評価が分かれやすい【曹洪】

三国志の主役といえば魏の基礎を作った曹操(ソウソウ 155年―220年)です。その曹操の挙兵時から従い、多くの戦いに参戦して貢献してきた一人が曹洪(ソウコウ 生年不明―232年)です。曹洪は出世して長生きし、曹氏3代に仕えていきます。一時は権力を剥奪されて処罰されかかったという曹洪とはどのような人物だったのでしょうか。


董卓戦で馬を譲り、曹操の命を助ける働きを見せる

序盤の曹操の側近といえば、曹洪を初め、夏候惇(カコウトン 生年不明―220年)や夏侯淵(カコウエン 生年不明―219年)、曹仁(ソウジン 168年―223年)、血縁関係のある身内が主に占めていました。曹洪は曹操と従兄弟の関係で、裕福な家庭に育っています。

董卓(トウタク 生年不明―192年)が中央で権力を握ると、その圧政から190年に反董卓連合軍が結成されます。袁紹(エンショウ 154年―202年)や袁術(エンジュツ 生年不明―199年)を中心としたその軍は、董卓軍の強さに怖気つき、なかなか攻めようとしません。私兵を以って駆けつけた曹操は、鮑信(ホウシン)らと独断で董卓軍へ攻め込みますが、董卓配下の猛将・徐栄(ジョエイ)の前に敗れてしまいます。

追い討ちをかけられた曹操は、懸命に戦うも馬を失って矢傷を負ってしまいます。曹洪は騎馬で駆付けて自身の馬を曹操に譲り、自身は徒歩で共に退却していきました。このとき、さすがの曹操も断ろうとしますが、曹洪は天下に必要なのは自分ではなく、曹操自身であると説得しています。徐栄は曹操軍の粘りを受けて追撃を諦めて引き返しました。

しばらくすると、大河にさしかかり、曹洪は川を渡るのに船を探してきます。曹洪は曹操と共に船に乗り、安全な地域まで後退していきました。曹操は揚州(中国東部)で再建を図り、兵を募っています。また、曹洪はこの地の刺史と親しく、精兵を取り入れることに成功しています。

戦いを経て順調に出世していく曹洪

反董卓連合軍が解散となると、中国北部で黒山軍(山賊)が10万もの大軍で反乱を興しました。曹操は援軍として討伐に赴いていますが、これには曹洪が引き連れた精鋭によって戦うことができたといえます。この戦いで曹操は黒山軍の本拠地を叩くことに成功し、その勢力を大きく削っていきます。後に黒山軍だけでなく、黄巾賊の残党を平定し、多くの降伏者から選りすぐりの精鋭を引き連れていき、曹操の勢力は拡大していくことにつながっていきます。

194年には曹操と仲が良かった張バク(チョウバク)が三国志最強といわれていた猛将・呂布(リョフ 生年不明―198年)を引き入れて反乱を起し、一時は曹操の支配下の半分を制圧するにまで至りました。しかし、飢饉の影響もあって兵糧不足に陥り、一時中断となりますが、曹洪は軍を率いて兵糧を奪取し、曹操の本軍へ輸送しています。

翌195年には曹操が呂布を破ると、曹洪は反乱に参加していた県などを攻撃し、10県以上を攻め落とす功績を残しています。この戦いで曹洪は、曹操に大いなる評価を受けています。

献帝を迎え入れる役目を任される

曹操は後漢の皇帝であった献帝(ケンテイ)を迎え入れて、自身の権力拡大に利用しようと画策します。献帝は即位したときにはまだ幼少で、董卓に利用されており、その死後には権力を狙う多くの実力者によって、保護を名目に狙われていました。

それでも時の権力者である皇帝をそばにおくことは、自身に敵対する勢力を朝敵として扱うことができ、天下に力を見せつけることにつながります。その献帝を迎え入れる重大な役目には曹洪が抜擢されました。

しかし、この時は献帝に仕えていた董承(トウジョウ)が袁術軍と共に守勢に入って妨害しており、曹洪は渋々引き返しています。その後、多くの勢力が献帝に近づこうとすると、さすがの董承も曹操を頼りにし、遂に献帝を招き入れることに成功しています。曹洪はさらに出世していくことになっていきます。

官渡の戦いでも大活躍!

当時の曹操は飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力を拡大していき、劉備(リュウビ 161年―223年)や呂布、董卓軍の残党を破って中原の覇者としてその名を広めていました。差し当たってライバルとなるのは河北を制圧していた袁紹でした。この両雄は200年に官渡にて激突します。

袁紹は曹操が支配していた汝南(現:河南省)に多くの縁戚がおり、古くはここが汝南袁氏としての縁の地でもありました。袁紹は曹操の補給路を絶とうと、汝南の賊である祝臂(シュクヒ)に反旗を促しますが、曹洪は徐晃(ジョコウ 生年不明―227年)とともに祝臂を討ち破っています。

本陣を任されて張コウを降伏させる

官渡の戦いもこう着状態に入り、両軍ともに兵糧の心配が出始めていました。曹操は自身が先頭に立って夜間に袁紹軍の兵糧庫を攻め落とし、曹洪は本陣の留守を任されました。当然ながら曹操の奇襲は袁紹の知るところとなって、手薄な本陣を狙われますが、曹洪は攻めてきた張コウ(チョウコウ 生年不明―231年)を防ぎ、本陣を守り切ります。

このとき、張コウは袁紹を見限り曹洪に降伏してきます。曹洪は最初怪しんでいたものの、軍師の荀攸(ジュンユウ 157年―214年)の進言もあって、張コウの降伏を受け入れています。この後、張コウは曹操軍に無くてはならない優秀な武将として大活躍していきます。これは立場が上でありながらも、側近の進言を素直に受け入れた曹洪のファインプレーともいえるでしょう。

若手をサポートし、張飛を撃破

曹操は勢力を拡大し、南下を始めていきます。曹洪は荊州の劉表(リュウヒョウ 142年―208年)軍を討ち破っていきます。しかし、曹操が赤壁の戦い(208年)で大敗を喫すると、大軍を動かせなくなり、その隙をついて劉備(玄徳)が蜀の地を手に入れ、孫権(ソンケン 182年―252年)も呉の支配地を盤石のものとしていきます。ここに三国が形成されることになっていきました。

217年には劉備(玄徳)が蜀の地から張飛(チョウヒ 生年不明―221年)や馬超(バチョウ 176年―222年)といった天下の猛将を引き連れて、漢中へ進軍していきます。対して曹操は夏侯淵と張コウが守る漢中に対して曹洪を援軍として派遣しました。

曹操は若い世代に台頭してもらいたいと願い、曹洪の共に曹真(ソウシン 生年不明―231年)や曹休(ソウキュウ 生年不明―228年)を付けます。実質的には曹洪が総大将ですが、二人には指揮官として参戦するように命じていました。曹休は劉備軍の計略を見抜き、曹洪はその策を採用して、見事に張飛や馬超の軍を敗走させています。

曹丕によって処刑の危機に!

曹操が死去すると、曹丕(ソウヒ 187年―226年)が跡を継ぎ、曹洪も功臣として優遇されます。しかし、曹丕が太子のときに曹洪に借財を断られた経緯があり、曹丕は恨みに思っていました。あるとき、曹洪の元にいた食客が法を犯してしまい、曹丕はここぞとばかりに曹洪を連座で処刑しようとします。さすがに功績がある曹洪には曹丕の母親も助命し、死罪を免れることになりました。それでも曹丕は領地と爵位を没収するなど、厳しい処置を取っています。

曹丕が死去すると、後を継いだ曹エイによって復職し、領地も爵位も戻ってきました。結局のところ、曹操が若い世代として期待した曹丕や曹真、曹休らよりも長生きすることとなっています。

まとめ

曹洪は三国志の小説やゲーム、マンガなどでは同じ血族である曹操や夏候惇、夏侯淵、曹仁などに比べて評価が劣り、魏の武将としても一般的にはなかなか名前が挙がりづらい印象があります。また、曹丕への借財の件もあって、資産家でありながらケチな面もあるとされています。しかし、曹操への貢献度という点では諸将に後れを取らず、まぎれもなく魏の名将であったことは間違いありません。

関連するキーワード


曹操 曹洪

関連する投稿


西涼の強兵 蜀漢を支えた馬一族の台頭

西涼の強兵 蜀漢を支えた馬一族の台頭

劉、曹、孫一族など皇帝を輩出した一族を筆頭として、三国志ではいくつかの一族が台頭します。曹操(孟徳)によって滅ぼされた袁一族、三国志の最終的な勝者となった司馬一族、そして、西涼から立ち上がり一時は長安を占領した馬一族もそのひとつです。三国志後半の蜀漢において重要な役割を果たす馬一族の活躍ぶりを見て行きます。


今さら聞けない三国志の疑問「どんな時代の話?なぜこんなにも面白い?」

今さら聞けない三国志の疑問「どんな時代の話?なぜこんなにも面白い?」

三国志の小説やドラマなどをひと通り見てきたけれど、話の内容はだいたい理解できているが時代背景や物語の進み方が蜀目線で進められていることに疑問がある方はどれくらいいるでしょう? 本記事ではそのような今さら聞けない三国志の疑問についてご説明いたします。


蜀の晩年における最大の功労者【王平】の実力とは!

蜀の晩年における最大の功労者【王平】の実力とは!

蜀が建国された当初は、諸葛亮も健在で他国に脅威となっていました。しかし、諸葛亮の没後は、魏に攻められることもあり、蜀は安泰とはいえない存在となっていきます。その中で蜀を守り抜いた最大の功労者ともいえるのが王平です。その実力をみていきましょう。


史上最高の軍略家! 魏と蜀を蹴散らした天下の豪傑【呂蒙】②

史上最高の軍略家! 魏と蜀を蹴散らした天下の豪傑【呂蒙】②

魯粛に認められていく呂蒙は、曹操や関羽とも対決していき、徐々に名を天下に知らしめていきます。孫権からの信頼も厚くなっていくさまは、周瑜にも匹敵する将軍であることを意味していきます。ここでは呉の重鎮となっていく呂蒙をみていきます。


三国志・荀彧はなぜ曹操に仕えたのか?荀一族は意図的に分かれた

三国志・荀彧はなぜ曹操に仕えたのか?荀一族は意図的に分かれた

「吾の子房なり」と曹操に認められた「荀彧」。名門の出自で、同族は董卓や袁紹などに仕えています。荀彧はなぜ、小勢力である曹操に仕えたのでしょうか?


最新の投稿


西涼の強兵 蜀漢を支えた馬一族の台頭

西涼の強兵 蜀漢を支えた馬一族の台頭

劉、曹、孫一族など皇帝を輩出した一族を筆頭として、三国志ではいくつかの一族が台頭します。曹操(孟徳)によって滅ぼされた袁一族、三国志の最終的な勝者となった司馬一族、そして、西涼から立ち上がり一時は長安を占領した馬一族もそのひとつです。三国志後半の蜀漢において重要な役割を果たす馬一族の活躍ぶりを見て行きます。


赤壁の戦いの真実

赤壁の戦いの真実

三国志の中で最大の合戦と言われる「赤壁の戦い」。演義では諸葛亮の圧倒的な才覚の前に周瑜や魯粛もタジタジで曹操がコテンパンにやられます。ですが、東南の風を人為的に起こしたり関羽が曹操を見逃すのを見越したりと流石に現実的にはちょっと・・・というシーンも多々あります。正史の赤壁の戦いは一体どうだったのでしょうか?


三国志・諸葛亮孔明と記すことは間違いなのか?

三国志・諸葛亮孔明と記すことは間違いなのか?

三国志の登場人物たちの名前は「姓」「諱」「字」に分けられますが、「姓+諱+字」で表記することは間違っているのでしょうか?


劉備(玄徳)の死後も続いた諸葛亮(孔明)との微妙な関係

劉備(玄徳)の死後も続いた諸葛亮(孔明)との微妙な関係

劉備(玄徳)と諸葛亮(孔明)は「水魚の交わり」と言われるほど密接な関係だったようです。これには義兄弟の関羽(雲長)と張飛(益徳)もヤキモチを焼いたのだとか。しかし、史実では密接な関係であると同時に微妙な関係にあったことも読み取ることができます。


劉備に仕えた龐統(士元) 惜しまれた大賢人の短い生涯

劉備に仕えた龐統(士元) 惜しまれた大賢人の短い生涯

諸葛亮(孔明)と同等かそれ以上の才能を持つとも言われた龐統(士元)。赤壁の戦いの頃から三国志に登場しますが、その才能を十分に発揮することなくこの世を去ってしまいます。短くも深く色濃い生涯となる「龐統(士元)の三国志」を見て行きます。


https://sangokushirs.com/articles/196