孫策に仕えて呉の基礎を作る
■ 孫策に仕えて呉の基礎を作る
孫策に仕えて呉の基礎を作る
張昭(チョウショウ 156年―236年)は若い時から学問を好み、周囲から官職に就くよう誘われますが、張昭はこれをすべて固辞しています。実力者の陶謙(トウケン)にも推挙されますが、張昭は丁寧に断り、一時は陶謙によって投獄されました。しかし、周囲の働きによって助け出され、張昭はこれを根に持たず、陶謙が亡くなると弔辞を書いたといわれています。
孫策に招かれ政治の中心になっていく
■ 孫策に招かれ政治の中心になっていく
孫策に招かれ政治の中心になっていく
都では董卓(トウタク 生年不明―192年)が台頭し、実権を掌握していたころ、孫策(ソンサク 175年―200年)が挙兵していました。孫策は長沙の太守だった孫堅(ソンケン 155年―192年)の長男で、孫堅の死後はまだ若かったこともあり、孫策は袁術(エンジュツ)の元に身を潜めていました。孫策は名声の高かった張昭を味方につけたいと思い、礼を尽くして招きました。張昭は孫策の参謀として期待され、政治だけでなく軍事面でも判断を仰いでいました。
孫策は張昭の他に張紘(チョウコウ)らを採用し、出陣するときには張昭か張紘のどちらかを参戦させ、片方には留守を任せていました。張昭はまだ無名の呂蒙(リョモウ 178年―219年)を見出すなど人事面でも才能を発揮していきます。
孫策は袁紹の元から独立し、張昭も政治の中心となって孫策を盛り立て、江東を中心として破竹の勢いを見せていました。
200年に孫策が死ぬと後事を託される
■ 200年に孫策が死ぬと後事を託される
200年に孫策が死ぬと後事を託される
孫策は200年に矢傷が悪化して重傷となり、後のことを張昭に託します。孫策は弟の孫権(ソンケン 182年―252年)を呼び、「内政のことは張昭に相談し、軍事は周瑜に相談せよ」と言い残しました。孫策の張昭に対する信頼の厚さを物語るものとして、「弟(孫権)の能力が足りないと判断したら、取って代わって政権を担ってほしい」と言い残しています。世襲が当然の時代、自身と血の繋がりがない配下に政権を譲るというのは異例ともいえるものでした。
若き孫権を補佐していく張昭
■ 若き孫権を補佐していく張昭
若き孫権を補佐していく張昭
父の孫堅に次いで兄の孫策も急死し、残された孫権にかかる負担は過度のものとなりました。特に孫策は勢力を広めていく矢先であり、配下の武将たちの動揺はかなり大きなものといえます。孫権はあまりに突然のことで、悲しみに暮れ、執務を取ろうとせず、見かねた張昭は孫権を叱咤して兵士の前へ出るように促しました。ちょうどもう一人の実力者である周瑜(シュウユ 175年―210年)が親友でもあった孫策の遺言通り、孫権を後継者として推しており、率先して臣下の礼を持って接したので、周囲は孫権が後継者であることを認識できるようになっていきます。
孫権が跡を継いで間もない202年、孫策と孫権の生母だった呉夫人が死去しました。張昭は呉夫人にも後事を託されています。
たとえ孫権が孫堅や孫策の後継者となっても、その実力は未知数であり、孫策ほどの覇気があるわけでもなく、情勢は不安定なものとなっていました。張昭は自ら兵を率いて反乱勢力を制圧し、孫権が出陣するときには留守を担い、政務に集中して国力の安定化を図りました。
孫権に一歩も引かない張昭
■ 孫権に一歩も引かない張昭
孫権に一歩も引かない張昭
張昭が孫権に一歩も引かないエピソードとして、虎狩りがあります。当主の孫権は虎狩りが好きで、自身が騎馬に乗って弓で虎を狩っていました。しかし、虎に反撃されるときもあり、自らが草原で雄を競うのではなく、臣下を使いこなすもの」と言い放ち、孫権は張昭の言葉に恥入ったといいます。
呉が成立するまでと建国以降もぶれない張昭
■ 呉が成立するまでと建国以降もぶれない張昭
呉が成立するまでと建国以降もぶれない張昭
08年に曹操が南下してくると、呉では降伏か開戦かで意見が分かれました。開戦派の周瑜や魯粛(ロシュク 172年ー217年)に対し、張昭は降伏して呉の存続を図ろうとします。しかし、劉備(リュウビ 161年―223年)配下の諸葛亮(ショカツリョウ 181年―234年)の説得もあり、圧倒的曹操軍の兵力の前に孫権は開戦を決断します。
この赤壁の戦いは孫権・劉備軍の圧勝に終わり、周瑜はもとより魯粛の評価が上がります。後に孫権は魯粛を重宝するようになりましたが、折り合いが悪かった張昭は魯粛を信用し過ぎないように進言しています。
結果として勝利しましたが、呉の存続を考えて降伏する姿勢を貫いたのは当時の状況としては致し方ないものともいえます。
公孫淵の偽の降伏を見抜く
■ 公孫淵の偽の降伏を見抜く
公孫淵の偽の降伏を見抜く
229年には孫権が呉の皇帝に即位し、232年には遼東の太守である公孫淵(コウソンエン)が呉への服従を願い出てきました。張昭や陸遜(リクソン 183年―245年)といった重臣たちが反対しているのを押し切り、孫権は使者を派遣して公孫淵を燕王に封じることにしました。しかし、張昭は公孫淵が心から服従している訳でないと見抜き、あくまでも反対の姿勢を崩しません。孫権は怒りを覚えますが、張昭は孫策や呉夫人との死に際の約束を果たそうとしているだけだと言い放ちます。孫権は怒りを抑えますが、公孫淵に対して使者を送りました。
皇帝(孫権)の謝罪を受け付けずに自宅に引きこもる
■ 皇帝(孫権)の謝罪を受け付けずに自宅に引きこもる
皇帝(孫権)の謝罪を受け付けずに自宅に引きこもる
張昭はこの顛末に嘆いて家に引きこもり、出仕しないようになりました。結果、公孫淵は呉の使者を殺して魏に寝返り、張昭の進言通りになります。孫権は詫びに出向きますが、張昭は一切会おうとせず、屋敷の門を固く閉じていました。強情な張昭に孫権が怒り、屋敷の門に火を放ちますが、張昭はそれでも屋敷から出ようともしませんでした。孫権は火を消し、張昭は息子らの手によって連れ出されて、ようやく謝罪を受け取りました。
たびたび意見がぶつかるも張昭が必要と実感する孫権
■ たびたび意見がぶつかるも張昭が必要と実感する孫権
たびたび意見がぶつかるも張昭が必要と実感する孫権
孫権にとって張昭は頭の上がらない人物でもあり、率直な意見を述べる張昭を疎ましく思うこともしばしばありました。あまりに機嫌が悪くなった孫権はあるとき、張昭に面会をさせないようにしていました。後に蜀から使者が来訪してきたとき、その使者が蜀の利点をすらすらと述べていました。誰一人として言い返せず、孫権は張昭がいないことを悔やんでいます。孫権は翌日に張昭に謝罪を述べるべく使者を送り、張昭は感謝しながらも、従来通りに率直な進言を止めないことを述べています。
張昭は名声があり、孫権に強く言い放つことができるタイプで、周瑜や黄蓋といった孫策時代からの歴戦の武将たちとは異を放っていました。孫権はたびたび張昭とぶつかりますが、それでも敬意を持って接していたといいます。
まとめ
■ まとめ
まとめ
張昭は236年に死去し、葬儀には孫権も立ち会いました。張昭は幕僚としては強い力を持ちながら、最高位の丞相の地位には就くことがありませんでした。孫権の若い世代を推したいという意向もありますが、あまりに真っ直ぐで強情なタイプであることから、孫権は周囲が非常にやりづらいと判断したのかもしれません。三国志演義を元にした小説やゲーム、マンガなどでは白髪と白髭交じりの老臣として登場し、諸葛亮の弁舌にやられるキャラ設定になっていますが、実際の張昭は各地の武将から慕われ、恐れられた名臣であったといえるでしょう。