皇帝に直言! 2度の上奏
■ 皇帝に直言! 2度の上奏
皇帝に直言! 2度の上奏
しばらく地方官を務めていた曹操ですが、親族が処刑されたことに連座(れんざ)して、免職となります(つまりクビです。曹操はなにも悪い事をしていないのですが、巻き添えを食ったわけです)。
しかしその後、古典や歴史に詳しいということからふたたび中央で朝廷に召し出されました(インテリの曹操ですから、納得の採用理由ですね)。
このとき曹操は2度、時の皇帝(後漢の12代皇帝・霊帝(れいてい))に対して上奏(じょうそう)しています。
最初の上奏は、このような内容です。
「正直で清廉な政治家たちが政争で敗れたため、邪悪な者たちが朝廷にあふれ、善良な者たちの出世の道が閉ざされております」
つまりは「朝廷で幅を利かせる邪悪な政治家たちを、一掃しろ」と言っているわけです。皇帝や権力者をも恐れぬ勇敢な直言でしたが、霊帝は曹操の主張を採用する事はできなかったといいます。
(採用「できなかった」ということは、実は曹操の主張が正しい事を、霊帝も解っていたのでしょうか)
そして2度目の上奏は、以下のようなものでした。
霊帝は当時、民衆の非難を浴びている政治家・官僚を摘発するよう、三公(さんこう/最高位にある3人の大臣)に命じました。ところが悪徳政治家は決して摘発されることがなく、逆に全うな者がおとしいれられるケースが続いたのです。
これに怒った曹操は、霊帝にこう上奏しました。
「三公は有力者の意向にそった摘発しかしておらず、むしろ政治的に逆効果であります」
この諫言(かんげん)は霊帝の心に届いたようで、帝はおとしいれられていた善良な政治家たちを許し、官職を与えたといいます。
こうして、曹操の主張の一部は皇帝に取り入れられたのですが、その後政治はさらに乱れ、悪徳政治家がますます幅を利かせるようになりました。曹操はもう何を献策してもムダだと感じ、上奏することをやめたといいます。
宗教の弊害(へいがい)を絶つ
■ 宗教の弊害(へいがい)を絶つ
宗教の弊害(へいがい)を絶つ
184年、宗教反乱「黄巾の乱」(こうきんのらん)が起きます。
張角(ちょうかく)という教祖が率いる「太平道」という宗教が起こした反乱です。乱そのものは年内に鎮圧されたのですが、後漢王朝に多大なダメージを与え、王朝がおとろえるきっかけとなりました。
曹操もまた朝廷側の武将として、乱の鎮圧に参戦。後漢王朝の名将・皇甫嵩とともに黄巾軍を破り、その功によって地方の長官(済南国の相)に任ぜられました。
曹操はこの済南(せいなん)国のトップとして、きわめて大胆な政治改革を行います。
同地の役人には、貴族や有力者の後ろ盾をいいことに、ワイロを取って金儲けをする者がいました。それまでの長官は、有力者の権勢を恐れて摘発できませんでしたが、曹操は彼ら汚職官吏を容赦なくクビにしたのです。この断固たる措置によって、乱れていた政治が大いに正されたといいます。
また曹操は、この地の発展をさまたげていた宗教についても、容赦なくメスを入れました。
この地には神をまつる多くの祠(ほこら)があり、その祭祀(さいし)のために多大な費用がかかるため、人々の生活を苦しめていました。地域にとっては大問題ですが、信仰がかかわる話だけに、それまでの長官は禁止する事ができなかったのです。
(注)祭祀(さいし)……神や祖先をまつること。
しかしここでも曹操は、彼ならではの断固たる対応で、問題を解決しました。彼は神をまつる神社をすべて取り壊し、祭祀そのものも禁止しました。こうして済南国では、行きすぎた宗教行為の弊害が取りのぞかれ、人々の生活が楽になったといいます。
官僚たちの綱紀粛正といい、宗教の弊害の打破といい、曹操はこれまでの長官が着手できなかった政治課題にも、断固として取り組み、状況を改善しました。その政治手腕はもちろんのこと、政治の不正を正そうとする強い意思こそが、彼の注目すべき特徴といえます。
知られざるクーデター計画!
■ 知られざるクーデター計画!
知られざるクーデター計画!
その後曹操は病気を口実に、官を辞して故郷に帰ったといいます。曹操は正しいと信じた上奏や改革を断固として行う人でしたが、それゆえに敵を作ることもあったのでしょう。あえていったん身を退くことで、権力者とのムダな衝突を避けたのかもしれません。
そんな曹操のもとに、驚くべきクーデター計画が持ち込まれます。王芬(おうふん)という政治家が、現皇帝(霊帝)を廃立(はいりつ/注)し、別の皇帝を立てようと計画して、曹操にも誘いをかけてきたのです。
(注)廃立(はいりつ)……臣下が君主(王や皇帝など)を廃して、他の人物を新たな君主に立てること。
曹操は王芬の誘いを拒絶したうえで、王芬の計画を歴史上の事例と比較した上で、このように諭したといいます。
「天子(皇帝)を廃立するなどという行為は、最大の不祥事であり、あなたたちはそれがどれだけ困難な事かを理解していない。
あなたたち廃立の首謀者は、民衆とどれだけ強い結びつきがありますか? 仲間同士の結束は十分ですか? あなたが新皇帝にする予定の候補者は、どれだけ高貴な血筋の方ですか?
こうした事を十分に検討せずに、廃立などという大それた行動に出るのは、とても危険ではありませんか?」
曹操の言葉は、クーデター計画の問題点を的確に指摘しており、さすがは歴史に名を残す知恵者だと感心させられます。
事実、王芬のクーデター計画はもろくも失敗し、彼は自殺に追い込まれました。曹操は危険な計画にやすやすと乗るような人物ではありませんでしたし、安易なクーデターが成功するはずもないと、見抜いていたのです。
曹操は「漢の忠臣」?
■ 曹操は「漢の忠臣」?
曹操は「漢の忠臣」?
さて、ここまで曹操の若き日々をご紹介していますが、「なんかイメージと違うな」とお感じになった方もいらっしゃるのではないでしょうか。
曹操という男は、権力者になってからの振る舞いや、「三国志演義」での描かれ方から、「後漢王朝に背く極悪人」というイメージが強い人物です。
ところが新進政治家時代の彼は、その事績を見るかぎり、むしろ「不正を許さぬ正義漢」というべき男なのです。以下に、主な業績を並べてみると……
・有力者を恐れず、その関係者を処刑
・政治の不正を正すよう、皇帝に上奏
・汚職する官僚をたくさんクビにする
・民衆を苦しめる宗教行為をやめさせる
・クーデター計画に反対する
いかがでしょうか? 世間が一般的に抱いていた曹操のイメージとは、ずいぶん違う人間像が浮かんでくると思います。曹操は「後漢王朝の若手政治家」として世の中を正すべく、権力者をも恐れずに奮闘していたといえます。
彼の心の中をのぞくことはできませんが……
実は若いころの彼は、後漢王朝に対してそれなりの忠誠心を持ち、後漢の世の中を良くしようと、努力していたのだと思います。
元々の彼は「漢の忠臣」だったのかもしれません。