三国志・錦馬超は呂布に匹敵する風格だったのか

三国志・錦馬超は呂布に匹敵する風格だったのか

蜀の五虎大将の一人である馬超。煌びやかなその容姿から「錦馬超」とも呼ばれています。武勇、容姿ともに三国志最強の武将である呂布と共通点がありそうです。今回は馬超の謎についても触れていきます。


異民族との子・馬騰

涼州にあって一大勢力を築いたのが、後漢の名将・馬援の子孫を自称する馬騰です。
馬騰の母親は西方の異民族である「羌」の娘でした。羌とはチベット系の遊牧民族で、戦にも強く精悍であることが広く知られています。漢王朝が最も手を焼いたのがこの羌の討伐でした。

186年には先零羌とともに異民族の「胡」が北宮伯玉を先頭に反乱を起こします。朝廷の混乱に乗じて異民族と手を結んだ辺章、韓遂といった漢人もこの反乱に加わっています。朝廷は皇甫嵩に続き、張温、董卓、陶謙、孫堅らを涼州に送り討伐を試みています。

北宮伯玉、辺章らが死んだ後は王国や馬騰らが韓遂に加わり反乱を続けました。馬騰は材木を切って生計を立てていましたが、反乱軍の討伐の募兵に応じて武功をあげ、軍司馬まで出世しました。しかし羌の血を引いている馬騰は漢王朝を見限り、反乱軍側に加担するのです。

馬騰の皇帝奪取計画

194年といえば、董卓を殺した呂布が、兗州の地で曹操と死闘を繰り広げていた頃になります。
漢王朝の皇帝は西方の長安にあり、李傕や郭汜といった董卓の残党に幽閉されているような状態です。朝廷は李傕らの傀儡政権となり果てていました。
ここで皇帝を益州の劉焉のもとに逃がそうという計画が浮上します。協力したのが馬騰と韓遂でした。
反乱を起こしたり協力したりと行動に一貫性がないように思えますが、馬騰や韓遂は弱者の味方であり、義侠心からの決起だったと伝わっています。羌が弱者であれば羌に味方し、皇帝が弱者であれば皇帝に味方するということなのでしょう。
しかし李傕らの知るところとなりこの計画は頓挫しました。当初は李傕も馬騰と韓遂を仲間に引き込もうと画策していたようで、馬騰は征西将軍、韓遂は鎮西将軍の官位に任ぜられています。
計画が失敗した馬騰と韓遂は西に逃げ帰りました。

馬超の初陣

馬超、字は孟起。馬騰の長子になります。羌と漢人のクウォーターです。
三国志演義では、馬騰・韓遂が長安の李傕を攻めた時が馬超の初陣だったとしています。歳はわずかに17歳です。青年といえば青年ですが、まだまだ子供の年齢です。しかし馬超はまったく年齢を感じさせない落ち着きを払っています。さらにその容姿が絶賛されており、「顔色は冠の玉のようで、目つきは流星のよう、虎のような体躯に猿のような臂、腹は彪のようで、腰は狼のようである」と描かれました。
しかも馬超は見た目だけではなく、実力も17歳とは思えぬほどで、敵将の李蒙や王方を討ち取っているのです。初陣でこれだけの活躍をした武将は三国志では類を見ません。
強烈な登場シーンです。父の馬騰が敗れたために撤退していますが、兵力が整っていたらそのまま長安の都を占領するほどの勢いを感じさせます。

錦馬超

馬超が再び登場するのが211年のことになります。馬超もすでに35歳です。
ここで馬超は10万の兵を率いて曹操と激突することになるのです。世にいう「潼関の戦い」です。そこで曹操に敗れ、漢中の張魯を頼り、やがて劉備(玄徳)に降ります。そこでの馬超の容姿の描かれ方もまた特筆すべきものでした。
曹操が見ると「馬超は白粉をはたいたような顔に紅をさしたような唇。腰は細く、肩幅は広い。まさに人を圧倒するような雄姿である」とあります。呂布を思い出させるような美丈夫ぶりです。
また、劉備(玄徳)も馬超に会うと「獅子頭の兜に獣面模様の帯、白銀の鎧に白い袍。威風にあふれ、人品また群を抜く」とあります。劉備(玄徳)は「まさに錦馬超なり」と感嘆しました。
こうして馬超は劉備(玄徳)に仕え、五虎大将の一人に数えられるわけです。

潼関・渭水の戦い

211年に馬超は韓遂とともに反乱を起こしました。関中の軍閥らが連合して馬超を盛り立てています。おそらくは羌や氐、胡といった異民族も手を貸していたと思われます。馬超は異民族の血も受け継いでいるので彼らの支持を受けていたのです。
寄せ集めの軍隊ですので、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた曹操の精鋭には敵うはずもないのですが、馬超のカリスマ性がバラバラの軍閥をまとめあげます。
そして曹操軍の先鋒である曹洪を撃破するのです。さらに黄河を渡河しようとする曹操軍に強烈な突撃を仕掛けて、曹操をあと一歩というところまで追い詰めました。
三国志演義では、曹操軍の中でも最強ランクの猛将・許褚と一騎打ちを繰り広げています。
最終的には曹操軍の軍師・賈詡の「離間の計」にはまり韓遂と仲たがいをして敗北するのですが、馬超の強さが最強レベルであることは実証されました。

馬超の謎

馬超の武勇と容姿が呂布に匹敵するものであることは証明されたわけですが、馬超にはいくつかの不明点があります。
その一つが曹操への反乱です。曹操の侵攻を防ぎ、西方の自治を守るために戦ったのでしょうが、このあたりの経緯は正史と三国志演義では真逆のことが記されています。
三国志演義では馬騰は朝廷に仕えるために鄴に出向き、専横する曹操を除こうと暗殺計画を画策し、失敗して処刑されます。馬超は父の敵討ちのために挙兵するのです。まさに劉備(玄徳)に仕えるに相応しい義の戦士の姿がそこにはあります。
しかし正史では違います。馬騰は衛尉として朝廷に仕えていますが、その実、人質同然です。同じく韓遂も子と孫を人質として曹操に差し出しています。こうして西方を曹操は押さえたわけですが、あくまでも自治を守ろうとする馬超と韓遂は反乱を起こすのです。馬騰や馬超の弟たちはそのために処刑されます。韓遂も子と孫を処刑されました。
馬超は反乱の挙兵をする際に煮え切らない韓遂を説得します。「私は実父を棄てあなたを父とします。あなたも子を棄てて私を子としてください」と。
正史の記述が正しいとすると、馬超には呂布同様の親殺しの汚名があったことになるのです。

まとめ・フェードアウトする馬超

劉備(玄徳)に帰順し、五虎大将となって以降の馬超はまるで存在感がありません。漢中攻略戦が最後の登場シーンといってもいいでしょう。そしていつの間にか病没してしまいます。
あれほど脚光を浴びた馬超の最後にしては随分とあっさりです。
馬超は劉備に対して臣下ならざる尊大な態度をとっていたという話も残っています。
はたして馬超とはいかなる人物だったのか。武勇や容姿だけでなく、その性格もまた呂布に似ていたのでしょうか。もしかするとそのために馬超は歴史から抹殺されたのかもしれませんね。

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