権力を手に出来なかった後漢末期・蜀・呉の皇帝たち

権力を手に出来なかった後漢末期・蜀・呉の皇帝たち

歴史上、1国に1人の皇帝が存在していましたが、三国を形成していた当時の中国大陸では複数の皇帝がいました。皇帝は絶対的な権力を持っていたわけではなく、強国の魏に対抗し、権力争いに巻き込まれた蜀と呉の皇帝や後漢末期の皇帝たちを見ていきましょう。


側近たちに翻弄され続けた後漢末期の3人の皇帝

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三国志は後漢末期の時代、184年の黄巾の乱から始まっています。そのときから3人の皇帝が即位しました。それぞれどんな人物だったのでしょうか。

宦官に専横され、戦乱の要因を作った【霊帝】劉宏

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後漢第12代皇帝に即位した霊帝(レイテイ)は、168年に12歳の若さで即位し、189年の5月まで在位しました。当時は身の回りの世話をする宦官が帝の側近として強力な権力を持っており、霊帝に寵愛されていた宦官たちは十常侍と呼ばれていました。

十常侍は私利私欲を貪り、民に負担を強いたため、国力は低下し、至るところで反乱が勃発しました。それでも十常侍は霊帝に問題ないという報告ばかりを挙げており、帝の勅令として自身たちで政治を支配し、反乱軍討伐を指示していました。霊帝は酒と女に溺れ、後継者もきちんと決めてないことから、自身の息子たちの劉弁(リュウベン)と劉協(リュウキョウ)の間で争いが起きることとなっていきます。

一方で黄巾の乱が平定されると、自身の妃の兄である大将軍の何進(カシン)から提案された皇帝直属の部隊「西園八校尉」を創設しています。この8人の指揮官には自身と何進を含め、袁紹(エンショウ 154年―202年)や曹操(ソウソウ 155年―220年)といった後の英雄たちを抜擢していました。

わずか4か月の在位となった悲運の皇帝【小帝】劉弁

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霊帝には民間から宮中入りし、その寵愛を受けるまでになった何皇后がいました。何皇后のおかげで兄の何進は大将軍にまで出世しています。何皇后は男子を生んで劉弁と名付けられ、一族は安泰のはずでした。しかし、霊帝の死後、異母弟の劉協との間で後継者争いが繰り広げられ、聡明な劉協を推す声が起こる中、何進は反対派を抑えつけています。

しかし、何進が十常侍によって暗殺されると、袁紹らによって十常侍は討たれ、小帝は劉協とともに西涼の将軍董卓(トウタク 生年不明―192年)によって保護されます。董卓は両者に話をしたところ、受け答えのしっかりしている劉協を皇帝にすべきだと考え、小帝を廃位し、劉協を第14代皇帝献帝(ケンテイ)として即位させました。劉弁は董卓の部下によって毒を盛られ、母とともに殺されました。

聡明さが光るも曹操に操られた後漢最後の皇帝【献帝】劉協

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献帝は董卓によって即位し、董卓の死後は残党らによって利用されますが、曹操が保護してからはその地位も安泰となりました。しかし、野望高き曹操は献帝を利用して天下の諸侯に号令をかけたり、献帝の側近を排除して曹操に近い人物を付けるなどしていました。

曹操が権力を掌握すると、その支配力を恐れた献帝や側近たちは董承(トウショウ)を中心とした曹操暗殺計画が練られます。その中には曹操の元に身を潜めていた劉備(玄徳)(リュウビ 161年―223年)も含まれていました。しかし、計画は事前に漏れ、董承は捕えられて殺され、劉備(玄徳)も袁紹の元へ逃れる始末になっています。この事件以降、献帝は曹操によってより抑え込まれることになっていきます。

曹操は魏王になり、220年に死去すると、息子の曹丕が魏王に即位します。同年の内に曹丕や側近たちは献帝に皇帝を退位することを迫り、献帝は味方する勢力もなくなって遂に曹丕に皇帝を譲ります。

これを受けて後漢は滅び、曹丕が魏の初代皇帝として即位し、文帝(ブンテイ)と名乗りました。献帝は退位してからも特別扱いを受けて、平穏に暮らしています。

蜀を建国し、漢王朝の復興を願った劉備と愚帝劉禅

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後漢が滅んだと一方を受けた劉備は蜀の地で漢王朝の再興を試み、221年に蜀の初代皇帝として即位しています。劉備(玄徳)は黄巾の乱から各地で人望を集めており、皇帝の即位に反対するものは少なかったといいます。しかし、三国志の英雄の一人ともいえる劉備(玄徳)は、放浪時期が長く、即位したのが60歳を過ぎており、在位わずか2年で死去しました。

劉備(玄徳)の死は多くの人の涙を誘い、その後を諸葛亮(ショカツリョウ 181年―234年)に託しています。

蜀を2代で滅ぼした暗愚の帝【劉禅】

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蜀の跡を継いだ劉禅(リュウゼン)は、諸葛亮や蜀の建国に尽くした功臣たちが相次いで亡くなると、悪徳宦官を重宝するようになり、政治には興味を無くして蜀の衰退を招く要因を作ってしまいます。蜀は263年に魏によって滅ぼされており、劉禅はその後も魏に移されて、平穏に暮らしています。

4人の皇帝で長く魏に対抗した呉

4人の皇帝で長く魏に対抗した呉

4人の皇帝で長く魏に対抗した呉

三国を形成したもう一つの国家が呉で、222年には形だけの臣下として魏に降り、君主の孫権(ソンケン 182年―252年)呉王として存在していました。229年には蜀に次いで皇帝を称し、ここに三国に皇帝が存在していることとなっていきます。

孫権の在命中は国力も安定し、魏に次ぐ勢力を形成していましたが、孫権の後継者争いが勃発すると、家臣たちも真っ二つに割れ、長年貢献してきた名将の陸遜(リクソン 183年―245年)までも降格させられました。

わずか10歳で即位した孫権の七男【孫亮】

わずか10歳で即位した孫権の七男【孫亮】

わずか10歳で即位した孫権の七男【孫亮】

孫権の跡を継いだのが七男の孫亮(ソンリョウ)ですが、即位はわずか10歳ということもあって、当然ながら政治は側近が取り仕切ることになりました。派閥争いは終止符が打たれることもなく、権力闘争が相次ぎ、呉の国力は大きく低下していきます。孫亮は同族の孫チン(ソンチン)によって実権を握られていきます。

この状況を憂いた孫亮は孫チンを暗殺する計画を練りますが、事前に情報が漏れたために逆に孫チンにクーデターを起こされて退位を迫られました。孫亮は退位し、孫休(ソンキュウ)に皇帝を譲り、自殺したといわれています。

武力よりも学問を好んだ第3代皇帝【孫休】

武力よりも学問を好んだ第3代皇帝【孫休】

武力よりも学問を好んだ第3代皇帝【孫休】

第3代皇帝に即位したのが孫権の六男である孫休です。孫休は権力を手中にしていた孫チンを排除しようと、父の代から活躍している将軍の丁奉(テイホウ)らを呼んで策を練り、孫チン一族を抹殺することに成功しています。孫チンは学問を好み、武力よりも本を読むことを推進させ、農耕に力を入れるよう親政を敷きました。このことからも国力の安定化を図りますが、蜀が滅亡すると状況は一変して悪化し、魏の大軍に対抗するさ中、翌年に死去しました。

残虐な皇帝として名を残した【孫晧】

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残虐な皇帝として名を残した【孫晧】

孫休の跡を継いだのが、孫和(ソンワ:孫権の三男)の息子で孫晧(ソンコウ)です。孫晧は即位後、親政を敷いて人望を集めますが、次第に猜疑心が強くなって暴虐の限りを尽くすようになっていきます。従わないものを処罰し、人心が離れていくことになります。各地で反乱も勃発しますが、16年間呉を守り抜いています。

280年には晋(魏を滅ぼす)によって降服しますが、その際にも滅亡の責任は自身が一身に背負い、家臣たちには晋で貢献することを述べています。このことからも孫晧は評価が難しい皇帝といえるでしょう。

まとめ

まとめ

まとめ

ここで紹介した皇帝たちは、厳しい時代を戦いで切り抜けてきた劉備や、優秀な家臣団に恵まれた孫権を除いて、誰もが周囲に翻弄され続けてきました。皇帝の間は平穏に暮らせることもなく、戦乱や権力争いに巻き込まれていたことがうかがえます。


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劉備(玄徳)

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