「小覇王」と呼ばれた漢・孫策
■ 「小覇王」と呼ばれた漢・孫策
「小覇王」と呼ばれた漢・孫策
孫策、字は伯符。「江東の虎」の異名を持つ孫堅の長子です。
孫堅は無名ながら黄巾の乱や涼州の反乱の鎮圧で武功をあげ、反董卓連合の先鋒として洛陽に一番乗りを果たしました。さらに袁術の命令で荊州の劉表を攻めましたが37歳で戦死したとされています。孫堅の残兵はすべて袁術に吸収されました。
孫策は20歳にして数百の兵を集めて袁術の配下となります。袁術は孫策の才能にほれ込み、部隊司令(懐義校尉)に任命しました。「孫策のような息子がいれば、いつ死んでも心残りはない」というのが袁術の口癖だったようです。呉書によると袁術配下の経験豊富な大将らも(張勲や喬蕤)そんな若武者の孫策に心服していたといわれています。
若くして大将の器であることを孫策は周囲から認められていたのです。
孫策のイケメンぶりと社交性
■ 孫策のイケメンぶりと社交性
孫策のイケメンぶりと社交性
孫策といえば「容姿端麗で闊達な若者」という記録が残されているように、三国志の中でも一二を争うイケメン武将です。三国志関連の漫画やゲームのどれを見ても孫策は惚れ惚れするような武者ぶりで描かれています。孫策の人気のひとつがこの端正な容姿にあります。しかし、それだけではありません。
孫策は積極的に人と関わりました。袁術に仕える前から盧江郡にあって名士たちと親交を結び、評判を高めています。父親が戦死し、バックボーンを失っている状態で、人見知りせずにガンガン有名人に絡んでいけるところも孫策の魅力のひとつでしょう。まったく物おじしない性格なのです。
孫策は若い頃から武芸を磨き、さらに将来に向けて着々と人脈を築いていきます。
「美周郎」と呼ばれた漢・周瑜
■ 「美周郎」と呼ばれた漢・周瑜
「美周郎」と呼ばれた漢・周瑜
周瑜、字は公瑾。盧江郡舒県の名家に生まれています。
「眉目秀麗で立派な風采」をしていたと記録されています。そのイケメンぶりから「美周郎」と周囲から呼ばれていました。知略に優れているだけでなく、音楽にも精通していて、どんなに酒に酔っていてもわずかな演奏の間違いに気が付いたそうです。「曲に誤りあらば、周郎顧みる」といいはやされたと伝わっています。
また人間的な魅力にも富んでおり、寛大な性格だったことが知られています。年上の程普は何かにつけて周瑜を侮辱しましたが、周瑜は常に我慢をしてやり返すことをしませんでした。後に程普はそんな周瑜に心服し、「周瑜と付き合っていると、まるで芳醇な酒を飲んだときのように、いつのまにか酔ってしまう」とその人柄を称賛しています。
「断金の交わり」を結ぶ孫策と周瑜
■ 「断金の交わり」を結ぶ孫策と周瑜
「断金の交わり」を結ぶ孫策と周瑜
そんな孫策と周瑜は同じ年でした。孫策の父・孫堅は反董卓連合に参加する際に家族を盧江郡の舒県に移しています。二人はそこで知り合ったのです。共に16、17歳と夢は大きく、恐れを知らぬ年頃です。二人は互いの才を認め合い、無二の親友となりました。
名家の周瑜は、孫策のために南側の立派な屋敷を提供し、孫策の母親にも礼をつくして生活に不自由がないように気を配ったそうです。
二人の友情は金をも切断するほど強く結ばれたことから「断金の交わり」といわれています。こちらは易経に登場する言葉です。
195年、孫策は袁術より殄寇将軍の称号を受け、曲阿にあって敵対する揚州刺史の劉繇を攻めます。袁術から与えられた兵は1000人ほどでしたが、孫策の名声を聞いて多くの人が集まり、歴陽に到着した頃には6000人まで膨れ上がっていたといいます。歴陽で孫策に合流したひとりが、朋友の周瑜でした。
二人はついに馬を並べて戦場に立ったのです。共に21歳の若武者でした。
江東の平定
■ 江東の平定
江東の平定
孫策と周瑜は快進撃を続け、劉繇は兵を置き去りにして逃亡しました。
このとき孫策は敵の猛将・太史慈と一騎打ちをし、その武勇を披露しています。引き分けた太史慈はその後、孫策の配下となりました。
揚州では住民は孫策が来たと聞くとみな肝をつぶし、役人たちは城邑を捨てて山野に身を潜めたそうです。しかし、実際に進軍してきた孫策軍の軍紀は厳しく、略奪ひとつ働かず、家畜や作物に指一本触れませんでした。民衆はすっかり安心し、ご馳走をつくって兵士たちを慰めたと記されています。
孫策のこの兵の統率ぶりは、話を聞いて劉備や曹操も恐れたといわれています。
孫策は会稽郡、丹陽郡、予章郡、呉郡と平定し、江東に一大勢力を築きました。こうして孫策は独立への基盤を固めることに成功したのです。
孫策の独立と運命の出会い
■ 孫策の独立と運命の出会い
孫策の独立と運命の出会い
197年、袁術が皇帝を僭称するようになり、孫策は袁術と絶縁します。孫策と結託したい曹操は朝廷に上奏して、孫策は討逆将軍に任じられました。
江東にあってついに孫策は独立勢力となったのです。孫策と周瑜は未だ23歳でした。
袁術が病で死ぬと内部分裂が発生し、盧江太守の劉勲が楊弘や張勲をだまし討ちします。その劉勲を孫策は知略によって攻めて盧江郡も手中に収めます。
多くの捕虜を手に入れた孫策ですが、ここで運命的な出会いをすることになるのが「二喬」という絶世の美女姉妹です。孫策は姉を、周瑜は妹をそれぞれ妻としました。美男美女カップルが二組誕生したことになります。こうして孫策と周瑜はまさに兄弟となるわけです。
ちなみにこの二喬。姉を大喬、妹を小喬と一般的には呼んでいます。
まとめ・天下統一の夢と終わり
■ まとめ・天下統一の夢と終わり
まとめ・天下統一の夢と終わり
曹操は孫策の勢力を懐柔する方策を採り、政略結婚を提案します。曹操、孫策ともに血縁関係の娘を相手の陣営に嫁に送るのです。孫策の末弟の孫匡がこの娘を娶り、曹操の子の曹章もまたこのとき娘を娶りました。
表向きは友好関係を結んだ孫策と曹操でしたが、孫策は曹操の本拠地である許都を襲撃し、後漢皇帝を迎えようと画策していました。
孫策の目は天下統一に向いていたのです。曹操はこのとき北の大勢力である袁紹と官渡において対峙しており、絶体絶命のピンチに陥ることになります。
200年、出撃態勢を整えた孫策でしたが、出撃直前に暗殺されます。平定した呉郡のもと太守であった許貢の食客の仕業でした。曹操の策略ではないかともいわれています。曹操の軍師である郭嘉は、孫策がそのうちに暗殺されるだろうと予測していたようです。
孫策26歳。後継者に弟の孫権を指名し、友である周瑜にその補佐を頼んで亡くなりました。
もしも孫策が生きていれば、孫策・周瑜コンビが曹操を破り、天下を統一していたかもしれません。