有名武将の跡取りは活躍するのが難しい?

有名武将の跡取りは活躍するのが難しい?

三国志の有名武将の活躍している文献は多くありますが、彼らの子供はどのような人生だったのか、有名武将の跡取りが無念にも繁栄しなかった例を取り上げてみます。


劉備(玄徳)の跡を継いだ暗愚の帝【劉禅】

三国志演義では主人公的存在の劉備(玄徳)(リュウビ 161年―223年)。史実でもその仁徳と勇猛ぶりは高く評価されています。劉備(玄徳)は蜀を建国し、漢王朝復興にその尽力を費やしますが、その2代皇帝になったのが、劉禅(リュウゼン 207年―271年)です。

劉禅は諸葛亮(ショカツリョウ 181年―234年)亡き後、優秀な家臣たちも相次いで亡くなると、国力が低下する蜀において、魏に内通していた宦官の黄皓を信頼するあまり、政治に興味が無くなってしまいます。蜀では姜維(キョウイ 202年―264年)が諸葛亮の後継者として軍を掌握し、北伐を繰り返していました。しかし、姜維の援軍要請にも黄皓は劉禅に嘘の報告をしていました。魏に攻められると劉禅は263年に降服を決断してしまいます。

蜀の建国に尽くした諸将たちを軽んじる劉禅

劉備(玄徳)や諸葛亮らが残した蜀を潰したのは紛れもない事実で、降伏後に洛陽で魏の司馬昭(シバショウ 211年―265年)に宴会に招かれた際、蜀の音楽がかけられると追従していた蜀の臣下たちが涙を流しているのに、劉禅は平然と笑っていたといいます。また、蜀を思い出すのではないか? という質問に対しては「ここは楽しいので、蜀を思い出すことはありません」と言い放ち、周囲の武将たちを唖然とさせました。

天下の智将たちの跡目も簡単には継げないもの

天下に名を残す周瑜と諸葛亮には共に父親が偉大過ぎて名を受け継ぐのが難しいものといえるでしょう。

優秀過ぎる美周郎の子供は跡を継げず

呉が魏に対抗できる勢力を維持できたのも、赤壁の戦いなどで魏を退けた周瑜(シュウユ 175年―210年)の功績が大きいものです。しかし、周瑜の子は繁栄せず、長男・次男ともに発展しませんでした。周瑜は若くして死んだ為に多くの子孫を残すことができませんでした。特に次男の周胤は、大した功績もないのに素行も悪く、罪を着せられて流刑に処されます。

言わずと知れた名丞相・諸葛亮の子【諸葛瞻】

諸葛亮は劉備(玄徳)の配下として活躍し、漢王朝の復興を目指して北伐を行っていました。政治面・軍事面で力を発揮し、発明家としても存在しています。そんなパーフェクトな父を持つ諸葛瞻(ショカツセン 227-263年)は、劉禅の信任を完全に受けてはおらず、宦官の黄皓にすら負けていました。また軍事面でも姜維に及ばず、諸葛瞻は姜維になり替わって軍を掌握しようと画策します。また、263年に魏が大軍をもって蜀に成敗にくると、諸葛瞻は一軍を率いるものの、積極的に出撃しませんでした。このことからも分かる通り、実力以上の評価を受けるあまり、父の名を残すこともできず、諸葛瞻は魏軍に打ち破られて戦死してしまいます。

河北を制圧した君主袁紹と参謀の沮授の息子たち

名門出のエリートだった袁紹とそれを支えた名臣沮授。それぞれ息子たちも苦労をし、父親に追いつけとばかりに四苦八苦しています。

袁紹の後継者になり損ねた袁尚

名門の出で河北一帯を制圧し、一時は天下に一番近いとまで言われたのが袁紹(エンショウ 154年―202年)です。袁紹には3人に息子がおり、その内後継者争いを繰り広げたのが兄の袁譚(エンタン)と弟の袁尚(エンショウ)でした。

袁尚は官渡の戦いで袁紹軍が大敗したのにも関わらず、兄弟力を合わせて曹操に対抗しようとせずにおり、後継者争いに発展してしまうことで余計に国力を低下させることになりました。袁尚は一旦優位に立ちますが、兄が曹操に降服したのを受け、有力な家臣も離れていくなど孤立してしまいます。袁尚は遼東(中国北東の半島)の公孫康を頼り、その兵力を狙いますが、逆に公孫康に捕えられて処刑されており、曹操の元へと送られてしまいました。

袁尚配下で名将・沮授を父に持つ【沮鵠】

袁紹の配下で曹操など周囲の君主たちに恐れられていたのが沮授(ソジュ 生年不明―200年)です。沮授は先見の明を持って袁紹を河北一帯の制圧に貢献し、官渡の戦いにおいては曹操軍の攻め手を予測し、さまざまな意見を出していきます。しかし、決断力に劣った袁紹は、沮授の進言を受け入れることが出来ず、大敗を喫してしまいます。

そんな沮授の血を受け継ぐ沮鵠【ソコク】は、袁尚の配下となって戦いますが、父のような作戦を進言できるわけでもなく、袁尚の敗走に付き従うことになります。特に曹操軍の張遼(チョウリョウ 165年―222年)と戦ったときにはものの数合打ち合っただけで敗れています。

許チョと張遼という魏の名臣の息子は不運な最期

曹操の配下でも長年活躍したのが、許チョと張遼です。二人の名将に継ぐ息子たちはどのような人物だったのでしょうか。

曹操の護衛として活躍した許チョの息子【許儀】

曹操のボディガードを務めた許チョ(キョチョ 生没年不明)は怪力として知られ、曹操の戦いに多数参戦していました。曹操の命を守ることもあり、その信頼は曹操が死ぬまで揺らぐことがなかったといいます。そんな許チョの子どもといえば許儀(キョギ)であり、彼は蜀征伐に貢献した鍾会(ショウカイ 225年―264年)の兵に属し、橋の工事を担当していました。しかし、鍾会が橋を渡ると馬が急に脚をとられてしまい、鍾会は落馬してしまいました。許儀は激怒した鍾会によって殺害されており、勇猛な父の跡を引き継ぐことができませんでした。

曹操軍随一の名将・張遼の息子【張虎】

曹操軍の名将といえば、張遼を筆頭に楽進(ガクシン)、于禁(ウキン)、張コウ、徐晃(ジョコウ)らがいます。張遼はその中でも知勇兼備の将軍として群を抜いて知名度がり、多くの三国志ファンの間では最高の武将として崇められています。そんな張遼の息子は張虎(チョウコ)といい、史実では特に語られることなく主だった記述がありません。

一方で三国志演義では諸葛亮の北伐の際、その引き立て役として扱われています。特に捕虜となり、裸にされて自軍に戻されるなど、父の名声を落とすような普通の将として描かれています。

曹操一族で第3代皇帝となった【曹芳】

魏の国の基礎を作ったのが曹操であり、その後を継いだのが曹丕で後に魏を建国し、初代皇帝になりました。その子である曹叡(ソウエイ)が第2代皇帝となっており、ここまでは配下に指示を出す強い皇帝として存在していました。しかし、曹芳(ソウホウ 232年ー274年)の代になると、司馬懿(シバイ 179年―251年)にクーデターを起こされてしまい、以降実権は司馬一族が握ることになりました。諸葛亮らと幾度となく渡り合ってきた司馬懿には並みの武将たちでは太刀打ちできず、曹一族は勢いを取り戻すことなく司馬一族の傀儡として存在していくことになります。曹芳も皇帝を廃位されてしまい、屈辱の日々の内に政権を奪還することなく274年に死去しました。

まとめ

何代にも渡り歴史に名を残すのは難しいもので、特に自身の子供には大事に育てたいという思いがある以上、なかなか思い切った成長というのが見られにくいものになっています。限られた英雄たちでも、その子孫が活躍することは珍しいといえます。

この時代には謀略の限りが尽くされ、裏切りが日常茶飯事に行われていることから、父親が活躍した武将も安泰ではなかったということがわかります。

関連するキーワード


三国志 曹操

関連する投稿


もしも三国志の武将になったら誰を倒しに行く?~攻撃編6選

もしも三国志の武将になったら誰を倒しに行く?~攻撃編6選

三国志を学び知っている武将が多くなると「この武将に仕えたい」「この君主の力になりたい」と思うことがあるかもしれません。今回は別の角度から「こいつが嫌い!」「だからこいつを討ち滅ぼしたい」と言う解釈をしてみました。非道な君主、無敵の将軍、もしあなたが三国志の世界に放り込まれたら真っ先に攻撃対象とする武将は誰ですか?


意外と知らない?! 暴君といわれる袁術の影響力

意外と知らない?! 暴君といわれる袁術の影響力

三国志の中でも悪役といわれるのが袁術(公路)です。三国志の初期から登場し、名門袁家の出身で多くの兵を持ちながら天下を手にすることができませんでした。それでも曹操(孟徳)や劉備(玄徳)、孫堅(文台)、董卓(仲穎)といった権力者たちに与えた影響力は大きいものでした。そんな袁術はどのような人物かみていきましょう。


中国史からひも解く三国志の服装~文官・武官編~

中国史からひも解く三国志の服装~文官・武官編~

三国志の登場人物の服装と大河ドラマに登場する武将の着物をよく見ると、大きな違いがあることがわかります。国や文化の違いはさることながら、着こなしに注目してもその差は歴然です。 本記事では中国服装史が伝える三国時代当時の服装について、詳しくご紹介します。


中国史からひも解く三国志の服装~皇帝編~

中国史からひも解く三国志の服装~皇帝編~

「誰でもよいから三国志の登場人物をイメージしてみて」と言われたら、あなたはどんな人物像を想像しますか?趙雲のように鎧を身に纏った武将でしょうか。それとも諸葛亮のように白い着物と冠を被った文官でしょうか。今回は、我が国の服装にも影響を与えた中国服装史から、当時の衣服や冠についてご紹介します。


三国志で内閣を組織してみると、魏はどんな大臣が閣僚になっているか

三国志で内閣を組織してみると、魏はどんな大臣が閣僚になっているか

三国志で一番勢力を築いたのが魏です。曹操(孟徳)が自ら丞相として将軍たちを引っ張り、領土を拡大していきました。もしも現在の日本のように内閣制度があれば、どのような人物が大臣に就いて国土を豊かにしていったのでしょうか。現行の国務大臣や架空の省庁を作って、魏がどれだけ富国強兵に長けているか見ていきましょう。


最新の投稿


諸葛亮が命をかけた北伐の戦歴

諸葛亮が命をかけた北伐の戦歴

漢王朝の復興をかけて、蜀を建国した劉備(玄徳)ですが、志半ばで倒れてしまい、後の全権を諸葛亮(孔明)に託すこととなります。諸葛亮(孔明)は全身全霊をかけて、強大な魏に立ち向かい、幾度となく北伐を繰り返します。最終的には魏を倒すことができなかった北伐ですが、その戦歴はどのようなものだったのでしょうか。


もしも三国志の武将になったら誰を倒しに行く?~攻撃編6選

もしも三国志の武将になったら誰を倒しに行く?~攻撃編6選

三国志を学び知っている武将が多くなると「この武将に仕えたい」「この君主の力になりたい」と思うことがあるかもしれません。今回は別の角度から「こいつが嫌い!」「だからこいつを討ち滅ぼしたい」と言う解釈をしてみました。非道な君主、無敵の将軍、もしあなたが三国志の世界に放り込まれたら真っ先に攻撃対象とする武将は誰ですか?


三国志・偽りの投降が成功したのは赤壁の戦いだけではない「石亭の戦い」

三国志・偽りの投降が成功したのは赤壁の戦いだけではない「石亭の戦い」

偽りの投降が功を奏したのは「赤壁の戦い」だけではありません。孫権が皇帝に即位する前年に行われた「石亭の戦い」も同様です。その背景とともにお伝えします。


実は魅力たっぷり?呉をまとめあげた孫権(仲謀)について!

実は魅力たっぷり?呉をまとめあげた孫権(仲謀)について!

三国志と聞いたら劉備(玄徳)、諸葛亮(公明)、もしくは曹操(猛徳)という名前が浮かび上がるのではないでしょうか。正義を掲げる「蜀」に対し悪の「魏」が立ちはだかるという構図を思い浮かべている人もいるでしょう。そんな人たちにとっては孫権(仲謀)?呉?と思うかもしれませんが実は魅力たっぷりなのでご紹介します。


三国志・夏侯淵の息子である夏侯覇はなぜ蜀に亡命しても重用されたのか

三国志・夏侯淵の息子である夏侯覇はなぜ蜀に亡命しても重用されたのか

名門・夏侯氏の出である「夏侯覇」。あの夏侯淵の息子です。右将軍にまで出世した夏侯覇は突如、蜀に亡命します。なぜ夏侯覇は亡命したのか、蜀はなぜ夏侯覇を受け入れたのかについてご紹介します。


https://sangokushirs.com/articles/196