麻沸散誕生秘話
■ 麻沸散誕生秘話
麻沸散誕生秘話
華佗が麻沸散をつくることになったきっかけがなんとも哀れです。
華佗が妻子を連れて薬草採集に出かけていったとき、華佗と妻は薬草とりに夢中になってしまい息子の沸くんとはぐれてしまいました。華佗と妻は沸くんを探して山中を歩き回り、やっとの想いで発見することができました。しかし、沸くんはすでにこの世の者ではなく、抱き起した沸くんの口の中からは毒の実が出てきました。
華佗は息子の命を奪ったこの毒を解析する過程で、他の薬草と組み合わせることにより、感覚を麻痺させることができることを知りました。
そして、できあがった麻酔薬の名前に自分の息子の名を入れて「麻沸散」としたのです。
華佗式腹部切開手術の手順
■ 華佗式腹部切開手術の手順
華佗式腹部切開手術の手順
華佗は患ってから年数の浅い病気や患部の浅い病気については、基本的に鍼灸術で治療をしていました。しかし、長年苦しんだ病魔だったり鍼灸術では治療することが難しいと判断したものについては、外科手術によって病根となる腫瘍や毒を取り除いていました。
これから記載させていただくのは、華佗が行ったとされる腹部切開手術の手順です。後漢書の方術伝という宗教や呪術・道術・占いに関する章に書かれているものです。このエピソードには多少グロテスクな表現が含まれております。苦手な方は読み飛ばすことをおススメします。
(1)麻酔薬「麻沸散」を飲ませる
■ (1)麻酔薬「麻沸散」を飲ませる
(1)麻酔薬「麻沸散」を飲ませる
外科手術を行う前には、華佗自身が開発した麻酔薬である「麻沸散」を服用させました。麻沸散の服用は、麻沸散を葡萄酒(ワイン)といっしょに飲むことで、服用した者は意識が朦朧となり徐々にいろいろな感覚が薄れていき、本人が気付かないうちに長い眠りにつくことができたそうです。麻沸酸の効力が続く限り、服用した者は音はおろか光さえも感じず、目が覚める頃には手術が終わっていたということで、現代の外科手術に用いる麻酔薬となんら変わりのない効果があったそうです。
(2)小刀で腹を切開する
■ (2)小刀で腹を切開する
(2)小刀で腹を切開する
この時代外科手術に用いるために使用されるメスなどの医療器具はありませんでした。しかし、毒蛇に咬まれたり毒虫に刺されたりしたときには、刃物で患部を切って悪い血(毒の混じった血液)を抜いたとする治療法があったそうなので、これに使われる小刀のような刃物を用いたと思われます。紙も高価だったこの時代、小刀は竹簡の間違った箇所を削ったり眉毛や髪などを剃るときにも使われていたので、安価で手に入りやすい道具でした。
(3)脂肪や肉をどける
■ (3)脂肪や肉をどける
(3)脂肪や肉をどける
患者の身体に余計な傷をつけないように切り開いた腫瘍を切除するときに邪魔になってしまう脂肪や肉をどけてから臓器の状態を確認したとされています。
(4)臓器を取り出す
■ (4)臓器を取り出す
(4)臓器を取り出す
大腸や小腸にできた腫瘍を取り除く際は、他の臓器とは違い複雑に配置されているので、一度体外へ取り出してから腫瘍を切除したようです。
(5)薬湯で臓器や腹腔を洗浄する
■ (5)薬湯で臓器や腹腔を洗浄する
(5)薬湯で臓器や腹腔を洗浄する
薬草を煮出したお茶みたいな薬湯で腫瘍を切除した臓器や腹腔内をきれいに洗浄して、破傷風などの菌の発生や増殖を抑え、体内で傷が進行しないようにしていたようです。
(6)臓器を詰め戻す
■ (6)臓器を詰め戻す
(6)臓器を詰め戻す
洗浄した臓器は再び患者の体内へ戻します。華佗は正確に臓器の場所を把握していて、臓器を詰め戻す作業もスムーズだったそうです。もしかしたら、いろいろな動物を解剖して独学で臓器のサイズや長さ、配置を覚えていたのではないかと思います。
(7)切開箇所を縫合する
■ (7)切開箇所を縫合する
(7)切開箇所を縫合する
手術をする際に切開した箇所は針と糸を使って、傷がきれいに治るように縫合していたそうです。
(8)塗り薬の塗布
■ (8)塗り薬の塗布
(8)塗り薬の塗布
華佗は縫合した部分には、塗り薬を塗っていたそうです。この塗り薬は華佗が独自に開発し、自然治癒力を高めて、傷の縫合を促す効果があったとされています。
関羽の右肘の骨を削って毒を抜く
■ 関羽の右肘の骨を削って毒を抜く
関羽の右肘の骨を削って毒を抜く
関羽は樊城の戦いの際、曹仁が放つ矢に当たってしまいました。曹仁の矢には毒が塗られており、激昂した関羽は矢傷からの毒が血流に乗って全身に広がっていき、敗走中に意識が混濁。そのまま気絶して落馬しました。
関羽が射倒されたと聞きつけた華佗は、自発的に関羽のいる荊州を訪問しました。華佗が関羽のもとへ到着したころ、傷口はふさがってはいましたが、関羽の右肘の状態は悪化していました。右腕全体が青紫色に変色しており、動かそうとするとズキズキと痛んだそうです。
関羽は痛みを紛らわせるために、通称白眉と呼ばれていた馬李常とあぶり肉や酒をあおりながら碁を打ち、歓談していました。右肘の痛みは相当のものであったようで、あの我慢強い関羽でさえも時折、「んんん…」と唸り声が漏れていました。
華佗が自分の身分と訪問した理由を打ち明けると、
関羽 「それはありがたい。先生、ぜひ診察してほしい」
と言って、華佗の診察を受け入れました。
傷口の状態を見た華佗は、正直に診断結果を話はじめました。
華佗 「これはトリカブトの毒です。トリカブトの毒は少量でも人を死に至らしめることができる大変危険な猛毒です。すぐに毒を除外しなければならないのですが、関公を苦しめている毒は骨の深いところまで浸み込んでしまっているため、血抜きだけでは足りません」
関羽 「んっ!?先生…それは治せないということかな?」
華佗 「荒治療となってしまうのですが…関公の腕の肉を切り開き、毒の混じった血を抜きつつ、毒の浸み込んでいる骨を削り取ります」
華佗がこのように発言すると、その場は一気に凍りつきました。解毒薬を服用したり、鍼灸によって身体の血のめぐりを良くして回復させる方法しか知らない当時の人々にとって、華佗が口にした治療法はどだい信じがたいものでした。利発で知られる馬李常も開いた口がふさがりません。
関羽 「ほう。初めて聞く方法だな。それでは先生如何にして術を施すのだ?」
華佗 「はい。まずは関公を別室に連れて行き、柱に鉄の輪を打ちます。その輪の中に腕を通して頂いたあと、関公のお顔を布団で覆ってからこちらの刀で腕の肉を切り裂きます。」
関羽 「ハッハッハー、なんだそんなことか!!布団でツラを覆うなど丈夫の雄(強靭な男性)のすることではない。金輪で腕を固定するのも無用!!先生、お頼み申す」
そう言うと、関羽は袖をたくし上げて傷を負った右腕を華佗へ差出ました。華佗は関羽の豪快な態度に圧倒されてしばらくオロオロしていましたが、すぐに手術の準備に取り掛かりました。
関羽の手術は長時間に及んで行われ、その間も関羽は馬李常を相手に碁を打ち、あぶり肉を良く食べ、酒を飲みながら豪快に笑って世間話に華を咲かせていたそうです。
手術中、ゴリゴリと骨を削る音が室内に響き渡り、腕の下に置いた大盆には赤々とした血潮がタプタプと波打っていました。手伝いをしている侍女たちは、あまりにも生々しい光景に吐き気をもよおしていたそうです。話相手をしている馬李常は、冷や汗をかきながら顔から血の気が引いていました。
施術を受けている関羽は苦痛に顔をゆがめることなく、まるで何事もなかったかのように弱音ひとつこぼさず手術を乗り切りました。手術後、華佗は手術を見守っていた馬李常の側へ近づき、
華佗 「手術は終わりました。とても痛く、辛かったはずです。私はここまで我慢強い方を見たことがありません。さすがは、関公ですな。」
と褒め称えました。手術が終わった途端に、関羽の右腕は拳を握れるくらいまで回復しました。関羽は華佗の医療の腕前に感激し、黄金数十金を報酬として差し出しました。しかし、華佗は「これは私が関公を慕って勝手に行ったことです。それは受け取れません。短くとも一月は絶対安静して養生してください」とひとことだけ言い残し。一銭も報酬を受け取ることなく自宅に帰っていきました。
華佗にあやかって
■ 華佗にあやかって
華佗にあやかって
中国で市販されている軟膏に「華佗膏」という商品名の薬があります。この薬は水虫薬で華佗とは一切無関係ですが、商品名につけられるほど華佗の偉業は今でも有名です。また、華佗が関羽の治療をおこなった場所は「荊州中心医院」という大規模な病院が建てられており、「関公刮骨療毒処」という文字が刻み込まれた碑と手術中の華佗、関羽、馬李常、助手を象った石像が建てられています。近所に住まう子供たちは関羽の石像の腕や顔に登って遊び、病院の警備員に叱られる光景が常なんだそうです。
華佗と関羽は千数百年の時代を越えて、病気や怪我で病院を訪れる人々を優しく見守っているのです。