合肥(がっぴ)三将の最後とその子孫
■ 合肥(がっぴ)三将の最後とその子孫
合肥(がっぴ)三将の最後とその子孫
張遼の最後については、前回ご紹介したとおりです。彼の後は張虎(ちょうこ)という息子が後をついで、父の功績により爵位(しゃくい)を与えられました。
さすがは張遼の息子というべき、勇ましい名をつけられていますね。しかし彼は、父親ほどの武功をあげることはできず、史書にはこれといった事跡が書かれていません。それでも武将としては、偏将軍(へんしょうぐん)というそれなりの位を与えられています。
合肥戦線には、まだまだ歴史に名を残す武将がいます。
小柄な体格ながら、常に曹操軍の先頭で戦った勇将・楽進(がくしん)。
215年の合肥(がっぴ)の戦いでは、城の守備を担当して功績をあげます。その後、長年の功績を賞され右将軍(うしょうぐん)の位にまで昇りますが、218年に死去します。生前の勇敢な戦いぶりから「威侯」(いこう)の諡号(しごう/注)を贈られました。
(注)諡号(しごう)……貴人の死後、生前の業績をたたえて贈る称号。諡(おくりな)ともいう。
楽進の死後、子の楽綝(がくちん)があとを継ぎました。楽綝もまた勇猛果敢であり、父親の武人としての風格をよく受け継いでいたといいます。楽綝は毌丘倹(かんきゅうけん)と文欽(ぶんきん)の反乱鎮圧で功績をあげました。しかしその後、諸葛誕(しょかつたん)の反乱に巻き込まれ、戦死してしまうのです。反乱の鎮圧で出世したものの、最後は反乱に討たれたことになります。
そしてもうひとり、合肥には忘れてはならない名将がいます。
冷静沈着な知将として知られ、合肥では張遼とともに奇襲作戦を敢行した李典(りてん)。
彼の生没年ははっきりしていませんが、36歳の若さで亡くなっています。死後、「愍侯」(びんこう)の称号を与えられました。なお、李典のあとは息子があとを継ぎましたが、これといった事跡は残っていません。
諡号(しごう)・諡(おくりな)―――死後に与えられる称号
■ 諡号(しごう)・諡(おくりな)―――死後に与えられる称号
諡号(しごう)・諡(おくりな)―――死後に与えられる称号
さて、ここで「諡号」について少し触れておきましょう。
昔の王朝では、皇帝や王はもちろん、功績顕著な政治家・武将の死後にも、生前の業績に応じて諡号が与えられました(張遼に「剛候」(ごうこう)の称号が与えられたのも、その一例です)。
たとえば曹操は死去時に魏王であったため「武王」と諡(おくりな)され、後に息子の曹丕が皇帝となってからは「武帝」の称号で呼ばれるようになります。
人臣では、たとえば蜀の諸葛亮が「忠武侯」(ちゅうぶこう)の諡号を与えられています。劉備親子に忠義を尽くし、魏軍を相手に奮戦した諸葛亮の勇姿を、よく表したネーミングですね。
このように諡号というものは、生前の業績に応じてつけられます。張遼が「剛」で、楽進が「威」、李典が「愍」(びん)。魏王朝は彼らの功績をたたえ、この文字を称号として贈ったわけです。
「愍」(びん)というのは「あわれむ」という意味で、ちょっと武将の諡号にはふさわしくない気もしますが……「李典が早く死んでしまって、かわいそう」という意味だったのでしょうか。
ともあれ、人臣の身で諡号を与えられることは、功績が飛びぬけていたことの証であり、政治家・武将にとって非常に名誉なことだったのです。
「遼来遼来!」 泣く子も黙った張遼伝説
■ 「遼来遼来!」 泣く子も黙った張遼伝説
「遼来遼来!」 泣く子も黙った張遼伝説
張遼は合肥の戦いで鬼神のごとく戦い、孫権軍を撃退しました。その強さは、呉の人々に大変なトラウマを与えるものでした。彼らにとって張遼は「恐怖」の象徴となったのです。
張遼「恐怖の伝説」は以後も語り継がれたようで、そのことを示す逸話があります。
江東の人々は、子供が泣き止まなくて手を焼いたとき、こう言い聞かせたといいます。
「遼来遼来!」(張遼が来るぞ!)
「泣いてばかりいると、あの張遼がやってくるぞ!」と、子供に言い聞かせたのです。
すると子供は恐怖のあまり泣くことも忘れ、大人しくなったといいます。
こんな逸話が残るほど、張遼は敵方にとって恐るべき存在だったのです。それも納得ですよね。なにしろ800人の兵を率いて、10万人の孫権軍を圧倒した人ですから……。
対呉戦線のその後
■ 対呉戦線のその後
対呉戦線のその後
さて、張遼死後の対呉戦線ですが、魏の皇族である曹休(そうきゅう)が、主役の一人に躍り出ます。
曹休の戦いは順調に進み、長江一帯で孫権軍をたびたび破りました。その出自の尊さもあって、魏軍でとても重んじられる武将となったのです。
226年には呉の武将・審悳(しんとく)を討ち、韓綜(かんそう)を降伏させました。この功績により、武官の最高位格である大司馬(だいしば)の位を与えられました。
さすがは曹操の一族というべきか、ここまで順調です。曹操が見込んだとおり、曹休には武将としての才覚があったのでしょう。しかし……順調なことが続かないのが、乱世の厳しさでもあります。
228年、魏は二方面から呉を攻略する計画を立て、曹休と司馬懿(しばい/注)がそれぞれ大軍を率いて攻め込むことになりました。張遼の時代は主に呉を迎え撃つ側でしたが、今度は魏が攻勢に立ったのです。
(注)司馬懿(しばい)……魏の武将・政治家。諸葛亮の北伐を守勢に徹しつつ迎撃し、国土の防衛に成功する。その後、遼東の公孫淵(こうそんえん)を討伐する大功を挙げた。後にクーデターを起こし魏の国政を掌握。孫・司馬炎(しばえん)による晋王朝創建の土台を築いた。
このとき曹休のもとに、呉の武将から降伏の申し出が届いていました。敵軍がそっくり降参してくれれば、味方の損害を減らせるのはもちろん、自軍の兵力を増やすこともできます。曹休にとって、とてもおいしい話でした。
曹休の挫折
■ 曹休の挫折
曹休の挫折
しかし……「おいしい話には、ウラがあるのではないか?」
魏軍のなかに、そう考えた武将がいました。
その名は賈逵(かき)。彼は曹休にこう進言しました。
「これは偽りの降伏で、敵軍のワナかもしれません。信じるのは危険です」
それでも功をあせったか、曹休は賈逵の忠告を無視しました(彼らはもともと仲が悪かったという記録もあります)。そうして降伏した武将に案内されるまま、先へ先へと軍を進めてしまいました。
しかし、賈逵の心配したとおり、これは呉軍のワナだったのです。
敵の領内に深入りした曹休は、待ち構えていた呉の名将・陸遜(りくそん)に、散々に打ちのめされました。別行動を取っていた賈逵が救援にかけつけ、どうにか曹休は助かったものの、多くの兵と物資を失う、大敗を喫したのです。
この敗戦の衝撃で、曹休は背中に腫瘍をわずらい、死んでしまいました。それまで勝ち続けていた武将が、たった一度の敗戦でこうなってしまうのですから、乱世とは厳しいものです。
以上、張遼死後の成り行きと、対呉戦線についてお話ししました。次回は張遼の項の最後として、合肥城のその後についてお話ししたく思います。