「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(14) 「泣く子がだまった」理由

「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(14) 「泣く子がだまった」理由

戦いに明け暮れた人生に、ついに幕を引いた張遼。彼が命をかけた対呉戦線のその後について、ご紹介します。


合肥(がっぴ)三将の最後とその子孫

合肥(がっぴ)三将の最後とその子孫

合肥(がっぴ)三将の最後とその子孫

張遼の最後については、前回ご紹介したとおりです。彼の後は張虎(ちょうこ)という息子が後をついで、父の功績により爵位(しゃくい)を与えられました。
さすがは張遼の息子というべき、勇ましい名をつけられていますね。しかし彼は、父親ほどの武功をあげることはできず、史書にはこれといった事跡が書かれていません。それでも武将としては、偏将軍(へんしょうぐん)というそれなりの位を与えられています。

合肥戦線には、まだまだ歴史に名を残す武将がいます。
小柄な体格ながら、常に曹操軍の先頭で戦った勇将・楽進(がくしん)。
215年の合肥(がっぴ)の戦いでは、城の守備を担当して功績をあげます。その後、長年の功績を賞され右将軍(うしょうぐん)の位にまで昇りますが、218年に死去します。生前の勇敢な戦いぶりから「威侯」(いこう)の諡号(しごう/注)を贈られました。

(注)諡号(しごう)……貴人の死後、生前の業績をたたえて贈る称号。諡(おくりな)ともいう。

楽進の死後、子の楽綝(がくちん)があとを継ぎました。楽綝もまた勇猛果敢であり、父親の武人としての風格をよく受け継いでいたといいます。楽綝は毌丘倹(かんきゅうけん)と文欽(ぶんきん)の反乱鎮圧で功績をあげました。しかしその後、諸葛誕(しょかつたん)の反乱に巻き込まれ、戦死してしまうのです。反乱の鎮圧で出世したものの、最後は反乱に討たれたことになります。

そしてもうひとり、合肥には忘れてはならない名将がいます。
冷静沈着な知将として知られ、合肥では張遼とともに奇襲作戦を敢行した李典(りてん)。
彼の生没年ははっきりしていませんが、36歳の若さで亡くなっています。死後、「愍侯」(びんこう)の称号を与えられました。なお、李典のあとは息子があとを継ぎましたが、これといった事跡は残っていません。

諡号(しごう)・諡(おくりな)―――死後に与えられる称号

諡号(しごう)・諡(おくりな)―――死後に与えられる称号

諡号(しごう)・諡(おくりな)―――死後に与えられる称号

さて、ここで「諡号」について少し触れておきましょう。
昔の王朝では、皇帝や王はもちろん、功績顕著な政治家・武将の死後にも、生前の業績に応じて諡号が与えられました(張遼に「剛候」(ごうこう)の称号が与えられたのも、その一例です)。
たとえば曹操は死去時に魏王であったため「武王」と諡(おくりな)され、後に息子の曹丕が皇帝となってからは「武帝」の称号で呼ばれるようになります。
人臣では、たとえば蜀の諸葛亮が「忠武侯」(ちゅうぶこう)の諡号を与えられています。劉備親子に忠義を尽くし、魏軍を相手に奮戦した諸葛亮の勇姿を、よく表したネーミングですね。

このように諡号というものは、生前の業績に応じてつけられます。張遼が「剛」で、楽進が「威」、李典が「愍」(びん)。魏王朝は彼らの功績をたたえ、この文字を称号として贈ったわけです。
「愍」(びん)というのは「あわれむ」という意味で、ちょっと武将の諡号にはふさわしくない気もしますが……「李典が早く死んでしまって、かわいそう」という意味だったのでしょうか。

ともあれ、人臣の身で諡号を与えられることは、功績が飛びぬけていたことの証であり、政治家・武将にとって非常に名誉なことだったのです。

「遼来遼来!」 泣く子も黙った張遼伝説

「遼来遼来!」 泣く子も黙った張遼伝説

「遼来遼来!」 泣く子も黙った張遼伝説

張遼は合肥の戦いで鬼神のごとく戦い、孫権軍を撃退しました。その強さは、呉の人々に大変なトラウマを与えるものでした。彼らにとって張遼は「恐怖」の象徴となったのです。
張遼「恐怖の伝説」は以後も語り継がれたようで、そのことを示す逸話があります。
江東の人々は、子供が泣き止まなくて手を焼いたとき、こう言い聞かせたといいます。

「遼来遼来!」(張遼が来るぞ!)

「泣いてばかりいると、あの張遼がやってくるぞ!」と、子供に言い聞かせたのです。
すると子供は恐怖のあまり泣くことも忘れ、大人しくなったといいます。
こんな逸話が残るほど、張遼は敵方にとって恐るべき存在だったのです。それも納得ですよね。なにしろ800人の兵を率いて、10万人の孫権軍を圧倒した人ですから……。

対呉戦線のその後

対呉戦線のその後

対呉戦線のその後

さて、張遼死後の対呉戦線ですが、魏の皇族である曹休(そうきゅう)が、主役の一人に躍り出ます。
曹休の戦いは順調に進み、長江一帯で孫権軍をたびたび破りました。その出自の尊さもあって、魏軍でとても重んじられる武将となったのです。
226年には呉の武将・審悳(しんとく)を討ち、韓綜(かんそう)を降伏させました。この功績により、武官の最高位格である大司馬(だいしば)の位を与えられました。

さすがは曹操の一族というべきか、ここまで順調です。曹操が見込んだとおり、曹休には武将としての才覚があったのでしょう。しかし……順調なことが続かないのが、乱世の厳しさでもあります。
228年、魏は二方面から呉を攻略する計画を立て、曹休と司馬懿(しばい/注)がそれぞれ大軍を率いて攻め込むことになりました。張遼の時代は主に呉を迎え撃つ側でしたが、今度は魏が攻勢に立ったのです。

(注)司馬懿(しばい)……魏の武将・政治家。諸葛亮の北伐を守勢に徹しつつ迎撃し、国土の防衛に成功する。その後、遼東の公孫淵(こうそんえん)を討伐する大功を挙げた。後にクーデターを起こし魏の国政を掌握。孫・司馬炎(しばえん)による晋王朝創建の土台を築いた。

このとき曹休のもとに、呉の武将から降伏の申し出が届いていました。敵軍がそっくり降参してくれれば、味方の損害を減らせるのはもちろん、自軍の兵力を増やすこともできます。曹休にとって、とてもおいしい話でした。

曹休の挫折

曹休の挫折

曹休の挫折

しかし……「おいしい話には、ウラがあるのではないか?」
魏軍のなかに、そう考えた武将がいました。
その名は賈逵(かき)。彼は曹休にこう進言しました。

「これは偽りの降伏で、敵軍のワナかもしれません。信じるのは危険です」

それでも功をあせったか、曹休は賈逵の忠告を無視しました(彼らはもともと仲が悪かったという記録もあります)。そうして降伏した武将に案内されるまま、先へ先へと軍を進めてしまいました。
しかし、賈逵の心配したとおり、これは呉軍のワナだったのです。
敵の領内に深入りした曹休は、待ち構えていた呉の名将・陸遜(りくそん)に、散々に打ちのめされました。別行動を取っていた賈逵が救援にかけつけ、どうにか曹休は助かったものの、多くの兵と物資を失う、大敗を喫したのです。
この敗戦の衝撃で、曹休は背中に腫瘍をわずらい、死んでしまいました。それまで勝ち続けていた武将が、たった一度の敗戦でこうなってしまうのですから、乱世とは厳しいものです。


以上、張遼死後の成り行きと、対呉戦線についてお話ししました。次回は張遼の項の最後として、合肥城のその後についてお話ししたく思います。





この記事の三国志ライター

関連するキーワード


張遼

関連する投稿


魏軍武勇筆頭! 義にも厚かった猛将・張遼

曹操配下の将軍の中でもトップクラスの評価を受けるのが張遼だ。幾度か主君を変えた後に曹操に巡り合い、武名を大いに轟かせる。最後まで前線に立ち続けた武人の生涯をたどる。


「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(1) 呂布にふり回された若き日

「泣く子もだまる」という言葉、読者の皆さんも耳にしたことがあるでしょう。「だだをこねて泣いている子供も、恐怖のあまり泣き止んでしまうほど、恐ろしい存在」という意味だそうです。この言葉は、三国志の武将が語源になっているといいます。その武将は、魏の名将である張遼(ちょうりょう)。どんな男だったのでしょうか。


「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(2) 真の主人との出会い

後に魏の名将となる張遼は、若いころは安住の地を得ることができず、苦労もしました。なにしろ主人の董卓が、同僚の呂布に殺されてしまうのです。結局彼はそのまま呂布の配下となるのですが、そこからさらに運命は急展開していきます。


【三国志】英雄あだ名列伝~魏編その2~

三国志演義だけでなく、正史にもあだ名や異名を残している武将がいます。正史の三国志は、「史記」、「漢書」に続く正式な歴史書です。ほぼリアルタイムに書かれているので信憑性があります。


「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(3) 危機管理も完璧だった男

若き日の張遼は、丁原、董卓、呂布といった猛将たちに仕えました。しかしこれらの主人たちは皆、志半ばにして討たれてしまい、張遼はそのつど新たな主人に仕えなくてはならなかったのです。呂布が滅んだ後、張遼は曹操に仕えます。後に魏王朝の始祖となるこの男こそ、張遼にとって運命の主人だったのです。


最新の投稿


春秋戦国時代 伍子胥の人生について

伍子胥(ごししょ)は、中国の春秋時代に活躍した楚の武人です。彼の本名は員(うん)で、楚の平王によって父と兄が殺されたため、復讐を誓いました。彼は呉に亡命し、楚との戦いで、ついに復讐を果たしました。しかし、後に呉王夫差が越王勾践を破った際、降伏を許そうとする夫差に反対し、意見が受け入れられず、自害させられました。


孫氏の兵法の孫武(そんぶ)とは?

『孫氏の兵法』における「孫氏」とは、古代中国の軍事思想家である孫武です。兵法書『孫子』を著し、戦争や軍事戦略に関する理論を全13篇から構成。特に「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」が有名で、戦争を避けることが最も優れた戦略であると説いています。 参考:ドラマ 孫子兵法 ‧


『キングダム』における羌瘣とは?

羌瘣は、漫画『キングダム』に登場する架空のキャラクターです。彼女は羌族出身の少女で、精鋭の暗殺者集団「蚩尤(しゆう)」に属していました。彼女は、原作、映画においても非常に魅力的なキャラクターです。その環境や周辺を史実を参考に紐解いてみます。


赤兎馬とは? 三国志初心者必見 三国志における名馬の物語

赤兎馬とは、三国志演義などの創作に登場する伝説の名馬で、実際の存在については確証がなく、アハルテケ種がモデルとされています。体が大きく、董卓、関羽、呂布など、三国時代の最強の武将を乗せて戦場を駆け抜けました。


春秋戦国時代 年表 キングダム 秦の始皇帝の時代の始まり

キングダム 大将軍の帰還 始まりますね。楽しみにしていました。 今回は、秦の始皇帝「嬴政」が、中華統一を果たす流れについて記述しようと思います。映画、キングダムのキャストの性格とは若干違うかもしれませんが、参考程度に読んでみてください。


アクセスランキング


>>総合人気ランキング

最近話題のキーワード

三国志の魅力と登場人物で話題のキーワード


故事 三顧の礼 泣いて馬謖を斬る 苦肉の策(苦肉計) 破竹の勢い