張遼と魏の名将たち
■ 張遼と魏の名将たち
張遼と魏の名将たち
合肥の戦いの翌年、曹操が自ら合肥を訪れて、張遼の戦いの跡を見て回ります。そこからうかがえる張遼の戦いぶりに、曹操は大いに感心し、改めて張遼の力量を高く評価しました。そうして張遼にさらに多くの兵を与えることにしたのです。
217年、孫権が曹操に対して形式的に降伏し、臣従します。これにより、曹操軍と孫権軍はしばらく停戦状態となります。
218年、劉備軍の関羽が、荊州北部の曹操軍を攻撃しました。関羽は、于禁をはじめとする曹操軍の援軍を破り、曹操軍の拠点を包囲します。もしここが関羽の手におちれば、曹操が後漢皇帝を擁する首都(許都)まで危うくなります。曹操は本気で遷都(都を他の場所へ移すこと)を考えたほどで、関羽の脅威は曹操軍を震撼(しんかん)させるものでした。
関羽襲来! 曹操軍の危機!
■ 関羽襲来! 曹操軍の危機!
関羽襲来! 曹操軍の危機!
合肥の戦いの後、張遼は曹操から征東将軍(せいとうしょうぐん)という位を与えられました。張遼は曹操軍の名将として地位を確立しており、曹操の親族である曹仁(そうじん)や夏侯惇(かこうとん)らをのぞけば、最も重んじられる将軍のひとりとなったのです。
張遼と楽進、そして于禁(うきん/注)・張郃(ちょうこう/注)・徐晃(じょこう/注)を合わせた5人は、曹操軍における名将(注)として特に評価されました。戦争では常に彼らのうちのだれかが先鋒となり、退却する際は殿(しんがり/注)をつとめました。
ちなみに、張遼・楽進・于禁の3人は仲が悪く、常にいがみ合っていたといいます(さすがは楽進、だれが相手でもケンカするのですね……)。
(注)于禁(うきん)……呂布との戦いで立て続けに功績を挙げ、曹操に高く評価される。その後も張繍や袁紹ら群雄たちとの戦いで手柄を立て、名将と呼ばれた。しかし219年、劉備軍の関羽に敗れ、降伏。後に魏へ帰還するも、間もなく死去した。
(注)張郃(ちょうこう)……もとは袁紹に仕えていたが、曹操に降伏し、華北・荊州・涼州・漢中などの戦役で功績をあげた。その後は蜀の諸葛亮の侵攻に対処し、よく防衛の任務を果たしたが、231年に戦死。
(注)徐晃(じょこう)……呂布・劉備(玄徳)・袁紹との戦いおよび華北平定などで活躍する。さらに荊州戦線では、劉備軍の関羽を破る大功を立てた。
(注)曹操軍における名将……張遼らの5人を「五将軍」と呼ぶこともあるが、あくまで小説などの創作と考えられる。
(注)殿(しんがり)……軍が撤退する際に、最後尾を担当する役目。退却しつつ敵の追撃を防ぐ必要があり、とても難しい役目である。
「強敵」(とも)との対決、幻に終わる
■ 「強敵」(とも)との対決、幻に終わる
「強敵」(とも)との対決、幻に終わる
このとき、関羽に対抗できる武将として白羽の矢が立ったのでしょう。対呉戦線でにらみを効かせていた張遼も、救援軍として派遣されました。孫権が(形式的にとはいえ)曹操に臣従しており、呉への備えが必要なくなったため、張遼を動かすことができたのです。
張遼と関羽は古くから親交があると同時に、それぞれが魏と蜀における筆頭格の名将でした。その二人が、後漢末のヤマ場で雌雄を決するとなれば、すさまじい戦いとなったことでしょう。
しかし猛威をふるった関羽の軍勢は、あっけなく壊滅してしまいました。
曹操の参謀たちは秘策として、孫権に背後から関羽を攻めさせることを考えたのです。孫権もまた、関羽を排除して荊州の領土を手に入れたいと思っていたため、曹操・孫権の利害が完全に一致します。こうして、あれだけいがみ合っていた両者がこっそり手を組み、関羽をはさみ撃ちにしたのです。
曹操軍だけが相手なら、関羽も存分に戦えたでしょう。しかし後ろから孫権軍まで攻めてきたことで、戦局が一変しました。結局関羽は、張遼とならぶ魏の名将・徐晃に敗れ、退却します。しかし孫権軍に捕らえられ、ついに首を討たれたのです。
こうして張遼と関羽の対決は幻に終わりましたが、あるいはそれでよかったのかもしれません。ふたりは直接刃を交えることなく、最後まで友人でいられたのですから……。
真の主人、逝く
■ 真の主人、逝く
真の主人、逝く
220年、中国史上まれに見る英傑にして、後漢末の第一人者だった曹操が、ついに死去しました。
張遼にとっての曹操は、武将として生きる道を与えてくれた恩人であり、かけがえのない主人でした。「真の主人」の死に、張遼の胸に去来したものはなんだったのでしょう。曹操の死とともに、「張遼伝説」もいよいよ最終章へと進んでいきます。
曹操のあとを継いだ曹丕(そうひ)は、後漢皇帝(献帝)から禅譲(ぜんじょう/注)を受けて皇帝となり、魏王朝を建国しました(これによって後漢時代が終わり、三国時代の幕が開きます)。曹丕は後世、魏の文帝(ぶんてい)と呼ばれることとなります。
文帝もまた、父と同様に張遼を重んじ、彼とその家族に爵位(しゃくい)を与えました。さらには張遼の母に車(乗り物)を下賜(かし)するなど、破格のあつかいをしています。
その後、形式的に魏に臣従していた孫権が反逆したため、張遼はふたたび合肥(がっぴ)に駐屯しました(孫権はこの後しばらく、魏に降伏したり、背いたりを繰り返します)。
(注)禅譲(ぜんじょう)……天子(皇帝)が位をゆずること。
221年、派遣先から都にもどった張遼は、文帝に謁見(えっけん/注)します。
文帝は張遼と親しく話し、孫権軍との戦いについて下問しました。そうして張遼の武勇をたたえた上で、彼のための邸宅と、おまけに張遼の母親のための御殿(ごてん)まで建造したといいます(もはや破格の待遇は、とどまるところを知りません)。
さらには合肥の戦いにおいて、張遼のもとで「決死隊」に参加した兵士たちを、近衛兵(このえへい/注)に取り立てました。
(注)謁見(えっけん)……身分の高い人と会見すること。
(注)近衛兵(このえへい)……皇帝の護衛を任務とする兵。
以上、合肥の戦い以降の張遼の動向について見てきましたが……張遼にとって、曹操の死ほど大きな出来事もなかったでしょう。董卓や呂布に仕えていた時期、張遼は武勇を発揮する機会を十分に与えられませんでした。そんな張遼を乱世の混沌(こんとん)から拾い上げ、武人として生きる道を与えてくれたのが、曹操でした。その偉大な主人が死去したとき、張遼の武人としての人生も、静かに幕引きへと向かいはじめたのです。
しかし……曹操の息子が建てた王朝のため、張遼は残る余生をも戦場にささげる覚悟でいました。
次回は「張遼伝説」の晩年について、お話しできればと思います。