武将たちのゲーム!三国志遊戯大全~その1~

武将たちのゲーム!三国志遊戯大全~その1~

三国志の時代もボードゲーム、ダイスゲーム、カードゲーム、球技などのお遊戯が盛んに行われていたようです。実際三国志演義では、関羽や曹操が碁を打っているシーンが出てきます。


①挽満

①挽満

①挽満

挽満は、引強(強い弓を引く事)と同じ意味があるようです。どんな遊びでどのようなルールだったのかの記録が残されていないので、あくまで推測になってしまうのですが、強い弓で誰がいちばん遠くまで矢を射ることができるのかを競う遊びだと思います。
もしかしたら、弓の名手である呂布や黄忠はこのゲームで遊んでいたのかもしれませんね。

②弾棋

②弾棋

②弾棋

弾棋は、前漢~唐の時代まで遊ばれました。文字通り、盤上の碁石や駒を指で弾き、弾く技能を争うようなボードゲームであったそうです。日本には平安時代に入ってきたそうで、宮中の貴族たちが遊んでいる記録が残されています。昭和期に女子からの人気を博した「おはじき」のルーツとのことです。

ルール

ルール

ルール

弾棋の詳しいルールの記録はなく、ある程度記されているものには、魏の邯鄲淳が記した「芸経」と
唐の柳宗元が書いた「序棋」あります。時代を経る過程によるものなのか、地域によってなのかは不明ですが、両者が記すルールは異なっています。

「芸経」によると、弾棋は2人で遊ぶ対戦形式のゲームで、石でできた盤と木製(もしくは象牙)の駒を使用。盤は中央が盛りあがっており、四辺が低くなっていました。ひとりが持てる駒は6個で、交互に駒を弾いたようです。

「序棋」によると、使用する盤は木製。中央は丸く高くなっており、24個の駒を下に置くとあるので、ひとりの手持ちは12個と推測します。駒は上下2種類が「赤」と「黒」で色分けされていて、
「下の駒が2個で駒1個を取れる」とあるので、最後に持っている駒の数の多さを競い合ったものだと思います。

遊んでいた記録が残っている人物

遊んでいた記録が残っている人物

遊んでいた記録が残っている人物

【前漢の成帝】
成帝は蹴鞠が大好きだったのに、親戚であり臣下の劉向が「蹴鞠は疲れるので、皇帝がやるべきではありません」と指摘しました。成帝が蹴鞠のルールを盤上で再現できるように弾棋を考えて自ら遊んだと「弾棋賦序」にあります。

【蔡文姫の父 蔡邕】
「弾棋賦」という詩を作るくらいだから遊んでいるはずです。

【魏の文帝 曹丕】
弾棋の名手として知られ、「弾棋賦」という詩や自身の著書「典論」の自叙にそのことが記されています。同じく「与朝歌令呉質書」には「弾碁間設、終以六博」の句がある。

【丁儀の弟 丁廙】
「弾棋賦」を書いています。

【晋時代の道士 抱朴子】
自書の「抱朴子」では、樗蒲・弾棋に夢中になることを堕落した生活として批判しています。

【夏侯淵の孫 夏侯湛】
「弾棋賦」を作っています。

【晋の官僚 徐広】
「弾棋譜」という書物を書いています。ルールブックなのかハウツー本なのかは不明です。

③樗蒲

③樗蒲

③樗蒲

樗蒲はサイコロの代わりに5枚の板を使用するダイスゲーム/ギャンブルで、後漢~唐の時代まで遊ばれたそうです。使用する板は、どちらか一方の面を白、もう一方の面を黒く塗ってあり、そのうちの2枚は白側に「雉」、黒側に犢(牛)の文字が書いてありました。
その5枚の板を投げて表裏の組み合わせで数が決まり、すごろくのように出た目の数の分だけ駒を進めていくゲームだったようです。

ルール

ルール

ルール

樗蒲では、「五木」と呼ばれる5枚の板を投げて、サイコロを振るように駒の進める数を決めていました。目の出方には以下のように10通りありました。

「盧・雉・犢・白」を王采(貴采)、それ以外を雑采とそれぞれ呼びます。王采が出た場合は、もう一度五木を投げることができます。また、相手の駒を取った場合にも、再度投げることができます。
「五木経」によれば、駒は全部で20個あり、最大で5人まで遊べました。

盤には120の升目が切ってあり、40マスずつの3段構成になっていました。段の境界には2つの「関」と「坑」という特別な領域があって、王采を出せば関からの脱出、坑の超越ができました。

遊んでいた記録が残っている人物

遊んでいた記録が残っている人物

遊んでいた記録が残っている人物

【諸子百家のひとり 老子】
老子が西域に遊びに行った際に、暇つぶしに発明して遊んでいたそうです。

【晋の武帝 司馬炎(司馬懿の孫・司馬昭の息子)】
胡貴嬪と司馬炎が樗蒲を遊んで熱中し、司馬炎が指を痛めてしまったという記述が残されています。

④格五

④格五

④格五

格五は春秋戦国時代~漢の時代まで遊ばれていました。2人用の対戦型ボードゲームのようですが、その詳しいルールの記録が残されていません。「格五」という言葉を引き継いで宋の時代に別のゲームに流用され、日本では五目並べに流用されました。

漢代のルール

漢代のルール

漢代のルール

各々6個ずつ手持ちの駒があり、敵味方の駒を赤と白の色で区別できるようになっていました。駒を4種類の駒の動かし方に従って、駒を動かしたり相手の駒を取ったりしたそうです。
「塞・白・乗・五」という種類の動かし方があって、「五」が出たら駒を動かすことができないルール。まわり将棋に似たような遊びのようです。

宋代のルール

宋代のルール

宋代のルール

各々5個ずつ碁石を手持ちとし、自分の陣地と相手の陣地が一本の線で結ばれていおり、その線上で石を動かして、相手の石を超越することができます。そして、先に相手の陣地に石を到着させた方が勝ちというルールで、陣取りゲームだったようです。

遊んでいた記録が残されている人物

遊んでいた記録が残されている人物

遊んでいた記録が残されている人物

【跋扈将軍 梁冀】
「後漢書-梁冀伝」に格五に長じていたとあります。

【蔡文姫の父 蔡邕】
同書の蔡邕伝に名前だけ出てきています。

⑤石投

⑤石投

⑤石投

石を使用した簡単な遊びです。いくつかの石を地面に置き、そのうちのひとつを空中に高く放り投げ、その石が地面に落ちる前に置いてある石を受け、今度は受けた石を空中に放り投げるという動作を繰り返すというお手玉のような遊びです。

⑥意銭

⑥意銭

⑥意銭

意銭は複数人で遊ぶもので、昭和期に男子の間で流行した「ビー玉」のような遊びだったようです。日本に伝来すると、平安時代には子供から大人までが楽しんでいたそうです。

ルール

ルール

ルール

地面に銭を数枚並べ、ある程度の距離をおいて自分の持っている銭を相手の指示する銭に投げてぶつける遊びです。

遊んでいた記述が残っている人物

遊んでいた記述が残っている人物

遊んでいた記述が残っている人物

【跋扈将軍 梁冀】
「後漢書-梁冀」に遊んでいたことが書いてあります。

まとめ

まとめ

まとめ

弾棋や樗蒲、格五は三国志の時代にリアルタイムで広く流行していたことがわかります。曹丕は真面目なので仕事、読書、勉強ばかりで遊んでいる時間がないと思っていましたが、時間を作ってちゃんと遊んでいたことがわかります。忙しい人ほど、遊びに費やす時間を作るのがうまいようです。





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