三国志の戦闘で殺傷数No.1の武器
■ 三国志の戦闘で殺傷数No.1の武器
三国志の戦闘で殺傷数No.1の武器
三国志の戦闘シーンで目にする武器といえば、馬超と趙雲が得意とした槍や曹操、袁紹が用いていた剣など近接戦闘用の武器が主力だと思いがちですが、実際戦闘で最も死傷者を出した武器は弓矢です。
本記事では、三国志時代の弓名人の逸話を集めてみましたので、誰が三国志最強のスナイパーなのか、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。
まさかコイツがっ!?意外な弓名人「呂布」
■ まさかコイツがっ!?意外な弓名人「呂布」
まさかコイツがっ!?意外な弓名人「呂布」
呂布と言えば、「陣中の呂布、馬中の赤兎」と言われ恐れられるほどの猛将です。イメージとしては、駿馬赤兎馬を駆り、方天画戟を縦横無尽に振り回して敵兵を吹き飛ばしながら人並みをかき分けて行く様をイメージしてしまいます。呂布は刀剣を四本背中に差し、赤兎馬の左体側に弓を、右体側に鉞を吊るし、手には方天画戟を握って陣中を掛けた剛の者。武芸十八般に通じており、どんな武器でも人並み以上の腕前を誇っていましたが、いちばん得意としていた武器は弓です。
そんな呂布が弓を使って打ち立てたレジェンドは「三国志演義」や民間伝承の講話にも見られます。
200歩先の敵兵を一矢で3人射殺す
■ 200歩先の敵兵を一矢で3人射殺す
200歩先の敵兵を一矢で3人射殺す
これはまだ呂布が県令(現在の県知事)の仕事をしていた時のことです。
このころもところどころで戦が相次いでいて、たまたま遠征をしていたほかの土地の軍隊が呂布が治めている城の前を通過していました。略奪をされてはいけないと思った呂布は威嚇射撃を命じます。しかし、敵軍との距離は200歩(約276メートル)なので、当然のことながら常人の射程圏外です。「矢が届かず気付かれれば何をされるかわからないので、静観していましょう」という配下の提案を受け付けない呂布は、自ら城壁の上に登ると矢を番えて構えます。
呂布が矢を放つとヒョウッと音を立てて、行軍中の整列した兵隊目がけて矢が飛んでいきます。すると、列が乱れて行軍の足が止まりました。
行軍中の大将が落馬した騎兵のもとへ駆けつけると兵士3名の頭部を矢が貫いており、団子状態になっていました。しかも、3名の頭に突き刺さった矢は親指大の太さがあり、矢には「呂 奉先」の文字が刻まれていました。こんな矢をあんな距離から放てる者がいるのかと驚いた大将は直々に呂布に会いに行き、不可侵の約束を取り付けたそうです。
呂布の弓で劉備(玄徳)と袁術が和睦する
■ 呂布の弓で劉備(玄徳)と袁術が和睦する
呂布の弓で劉備(玄徳)と袁術が和睦する
曹操に戦いを挑んで敗北した呂布は、徐州の劉備(玄徳)を頼り居候をするのですが劉備(玄徳)が遠征をしている間に徐州を横取りしてしまいます。劉備(玄徳)はなすすべがなく小沛に居座るのですが、袁術が大軍を派遣して小沛に侵攻してきました。劉備(玄徳)は慌てて呂布に救援要請をしましたが、そのころ呂布は袁術から協力することを条件に食糧を受け取っていたのにもかかわらず、劉備(玄徳)を滅ぼすのは自分にとってもメリットがないと悟り、劉備(玄徳)の救援に応じます。
呂布は自分の本陣に劉備(玄徳)と袁術軍の大将紀霊を呼び出して和睦の仲裁役を買って出ましたが、両軍の交渉はなかなまとまらなずにいました。口下手の呂布はイライラしてしまい、本陣から150歩離れた位置に方天画戟を立てて「もし俺が一矢で画戟の枝刃に命中することができたら、双方戦いをやめられよ。もし命中できなかったら各々陣営に戻って戦支度をされるがよい」と提案しました。
言い終わったのもつかの間、矢を放つと見事に方天画戟の枝刃に命中しました。まさに神業の領域です。紀霊はこの神業に感服して劉備(玄徳)と和睦を結びました。劉備(玄徳)は呂布のおかげで命拾いをし、呂布は居候したときの恩を返すことができたのです。
戦場の仁義を貫く老将「黄忠」
■ 戦場の仁義を貫く老将「黄忠」
戦場の仁義を貫く老将「黄忠」
黄忠は、蜀の五虎将のひとりで、蜀で唯一弓の名手に挙げられる老将です。黄忠はもともと長沙太守韓玄に仕えた武将で劉備(玄徳)が荊州南部に侵攻した際に、関羽と三日にわたって一騎打ちを繰り広げました。
三日間の一騎打ち
■ 三日間の一騎打ち
三日間の一騎打ち
1日目の一騎打ちは、関羽が先方の武将を討ち取った直後にありました。このときは、両者負けず劣らずの攻防戦を繰り広げ60合打合った後、日没の時刻を迎えてしまい「また明日やろう」と両者引き分けに終わりました。
2日目は戦闘中黄忠の馬が躓いて落馬してしまい、「最早これまで…」と首を差し出した黄忠に対して、「馬を取り換えて来い」と言って黄忠の首を取りませんでした。
3日目、黄忠は前日助命をしてくれた関羽に対していきなり矢を射ることを申し訳なく思い、わざと矢を番えないまま弦をはじきました。関羽は矢が飛んでこなかったため、てっきり「この武将は弓が下手くそなんだな」と思って安心して追撃をしていました。
城門のつり橋まで差しかかったとき、黄忠はくるりと馬首を返し矢を発射しました。放たれた矢は関羽の兜の緒に命中していました。
関羽は「敵ながら天晴」と黄忠の神業に感服し、兜に矢を突き立てたまま本陣に戻ったのでした。
敵の弱みにつけむ真似はしないという2人の猛将の美談です。
呉の名スナイパー「太史慈」
■ 呉の名スナイパー「太史慈」
呉の名スナイパー「太史慈」
孫権の兄、孫策と戦い心服した猛将の中に太史慈がいます。太史慈も弓の名手に数えられる武将です。これは孫策が呉郡の厳白虎を攻めた際の話です。
太史慈の早撃ち
■ 太史慈の早撃ち
太史慈の早撃ち
呉郡の太守厳白虎は籠城戦の構えを取っていました。城攻めは多くの時間と労力を要するため、むざむざ犠牲を出さないためにも慎重に行う必要があったので、上層部が戦略会議を行っているうち配下の武将は待機するほかありません。
そんな呉軍に向かって城壁の上から副将が「やーい、臆病者~」と罵声を浴びせました。これに激怒した太史慈は、「見ていろ、お前の左手を射抜いてやる」と言い終わらないうちに矢を射ると、その副将の左手は城壁の梁に串刺しにされていました。
精度の高い射術を誇る「夏侯淵」
■ 精度の高い射術を誇る「夏侯淵」
精度の高い射術を誇る「夏侯淵」
曹操の従兄弟で古参の臣下である夏侯淵も天下に弓の名手として名を轟かせた武将です。曹操は、銅雀台という大規模な宮殿を建築した際、夏侯淵に余興をするように命じました。その余興で行われたのが騎射(乗馬して弓を射ること)の演武です。
演武を披露するため、夏侯淵は的に4本の矢をあらかじめ突き立てます。夏侯淵は馬を走らせると、馬上で矢を弓に番えて発射しました。その矢は立てられていた4本の矢のド真ん中に刺さっていたそうです。
余興で披露するくらいなので、夏侯淵はよっぽど自信があったことでしょう。残念ながら、当時使用されていた矢の柄は消失してしまっているため、実際どのくらいの太さであったのかはわからないのですが、おそらく直径2~3cmの大きさの範囲を狙い、その中心に的中させたものと考えられます。
みなさんが選ぶ三国志最強のスナイパーは?
■ みなさんが選ぶ三国志最強のスナイパーは?
みなさんが選ぶ三国志最強のスナイパーは?
これはあくまで私の意見となってしまうのですが、中(精度)、貫(威力)、久(飛距離)の3つを基準をもとに査定すると”呂布”が最も優れた弓名人だと思います。弓術家はそれぞれ中・貫・久のいずれかを自分の解釈のもとで特化させるのに対し、呂布はすべてを兼ね揃えたうえで、さらにそれらがすべて抜群です。
さてさて、みなさんが選ぶ三国志最強の名スナイパーは誰でしょうか?