呉の名将と言えば周瑜!活躍と意外な人物像に迫ってみた

呉の名将と言えば周瑜!活躍と意外な人物像に迫ってみた

三国志を好きになって日が浅い人でも、呉の名将と言えば周瑜を思い浮かべると思います。三国志を題材にした映画や漫画、ゲームでも、周瑜は重要な人物として捉えられているでしょう。今回は、そんな周瑜の活躍や意外な人物像に迫っていきたいと思います。


1.呉の名将・周瑜はどんな人物?

名家の出で孫策と親交を結ぶ

まずは、周瑜がどんな人物だったのかを紹介していきます。実は、周瑜は名家の出です。父の周異は洛陽県令となっており、従祖父や従父は大尉を務めるほどの名家だったのです。三国志の登場人物の多くは、身分が曖昧だったり低かったりするのですが、周瑜は由緒正しい家柄だったのです。

そんな周瑜は、孫策と親交を結ぶことになります。周瑜と孫策は同い年であり、意気投合するようになっていったのです。2人の家は、家族ぐるみの付き合いだったとされています。孫策が旗揚げしたときに、周瑜も参加しており、江東攻略に尽力したのです。孫策は周瑜に対し、兵士や騎馬を与えるだけにとどまらず、軍楽隊や住居まで与えています。それほど、周瑜のことを特別扱いしており、2人の関係は親密だったのです。

孫策死後は孫権を補佐

しかし、孫策は若くして亡くなってしまいます。25歳という若さで、孫策は急死してしまうのです。孫策亡き後、国を引き継いだのは孫権です。周瑜は、孫策亡き後は孫権を補佐するようになります。孫権が君主になったのは急転直下だったため、孫権を軽んじる者もいたのですが、周瑜は率先して臣下の礼を取ったとされています。これにより、周囲も従ったのです。このことから、いかに周瑜の影響力が大きく、周瑜を信頼していたのかがわかります。

周瑜は36歳の若さで亡くなるのですが、最後まで孫権に助言したり、補佐したりしています。孫権も周瑜の功績を認めており、呉が建国されて皇帝になった際にも、「周瑜がいなかれば皇帝にならなかった」と述べたと言われているのです。それほど、呉にとって周瑜は重要な人物だったのです。

2.周瑜はどんな活躍をしたの?

赤壁の戦い

周瑜の活躍と言えば、赤壁の戦いです。赤壁の戦いは、数多くある三国志の戦いの中でも、一番有名な戦いと言ってもいいでしょう。そんな赤壁の戦いで、周瑜は大活躍しています。周瑜の活躍は、赤壁の戦いが開戦する前から始まっています。実は、孫権軍の中では、抗戦派と降伏派で意見が分裂していたのです。

周瑜は抗戦を唱え、降伏派を説き伏せます。「曹操軍は水軍に慣れていない」「土地に慣れておらず疫病が発生する」の2点を主張し、降伏派を説き伏せたのです。つまり、周瑜がいなければ赤壁の戦い自体がなかったのかもしれません。しかも、周瑜の主張はドンピシャであり、曹操軍は疫病が蔓延してしまい、周瑜らは赤壁の戦いに大勝利することができたのです。

天下二分の計を画策

赤壁の戦いを大勝した後に、周瑜は天下二分の計を画策します。劉備(玄徳)に先手を取られる前に江陵や益州を奪い取り、馬超と手を組むことで、曹操軍に対抗しようとしたのです。この画策通りいけば、劉備(玄徳)は身動きが取れなくなるため、まずは曹操軍と対決して、その後劉備(玄徳)を討伐しようと考えていたのです。

孫権も周瑜の天下二分の計に賛同します。実際に周瑜は江陵を攻略したのです。しかし、戦中に流れ矢によって負傷をしており、その傷が原因で36歳の若さ亡くなってしまっています。もし、周瑜がもう少し長生きして、天下二分の計を成していれば、歴史も大きく変わっていたことでしょう。

3.周瑜の意外な人物像とは?

やはり有能で曹操も欲しがった!

周瑜の人物像でイメージが強いのは、「有能」だと思います。孫策・孫権に仕えた周瑜は、領土拡大や赤壁の戦いに貢献しています。とくに、孫権には数多くの助言をしており、まさに有能な人物です。

周瑜が有能な人物であることを裏付けるのは、曹操からの勧誘です。曹操は、有能な人材に対して、引き抜きを図る傾向があります。実は、周瑜も引き抜きの対象となっています。曹操は、蒋幹を派遣して周瑜を引き抜こうとしたのです。それほど曹操は周瑜を高く評価しており、周瑜が有能な人材だったことがわかります。

実は音楽に精通!

周瑜の意外な人物像は、音楽に精通していることです。音楽にとても精通していた周瑜は、宴会などで演奏を聞いていると、僅かな間違いなども気付くことができたとされています。実は、「絶対音感を持っていたのでは?」という説があるほどです。周瑜は、武将として有能なだけではなく、芸術面でも秀でた才能を持っていたのです。

寛大な性格で親しまれる!

周瑜は、寛大な性格だったと言われています。そのため、様々な人と打ち解けることができ、人心掌握に長けていたとされているのです。実際に、周瑜が周りから一目置かれているからこそ、孫権へ臣下の礼をとった際には周囲も真似したのです。

そんな周瑜ですが、宿将の程普とは折り合いが悪かったとされています。これは、程普が周瑜を若輩として侮っていたからです。しかし、周瑜はあくまで程普を立てるような行動をします。これにより、程普も周瑜への評価を覆し、最終的には周瑜を尊敬しているのです。周瑜の人柄がよくわかるエピソードとなっています。

4.周瑜の名言を紹介!

人材育成についての名言

周瑜は、多くの名言を残しています。人材育成については、「何事もその基は人です。人を得る国はさかんになり、人を失う国は滅びましょう」という言葉を残しています。この名言にあるように、周瑜は人材がいかに大切なのかがわかっていたのです。だからこそ、周瑜は人を大切にして、様々な人と友好関係を築くことができたのでしょう。この名言から、周瑜の人となりがわかります。それだけに、もっと長生きしていればと思ってしまいます。

遺書に残した名言

周瑜は、遺書にも名言を残しています。遺書に残した名言とは「人生まれれば死あり。修短は命なり」です。これは、人は生まれればいつか死ぬのであり、短い生涯も天命であるという意味となります。この名言は、今の時代でも通じるものがあります。いつ死ぬのかはわからないのだから、一所懸命に生きていくべきだと思わせる名言です。

5.まとめ

今回は、呉の名将である周瑜について取り上げてみました。周瑜は、呉にとって重要な人物です。孫策と孫権に仕え、領土拡大や戦略面で大きな功績を残しています。赤壁の戦いも、周瑜がいたからこそ、戦うことができたのです。そんな周瑜は、武将としての才能だけでなく、音楽の才能もありました。実は、絶対音感を持っていたという説もあるのです。

三国志をより楽しむためにも、ぜひ周瑜について詳しくなってみてください。魅力的な武将のため、ますます三国志にのめり込んでしまうことでしょう。そして、周瑜のことが大好きになるはずです。

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