三国志・名声を曹操に認められた王脩とはどのような人物なのか?

三国志・名声を曹操に認められた王脩とはどのような人物なのか?

三国志にはあまり名前が知られていないものの、優れた才能を発揮した人物がたくさん登場しています。今回紹介する王脩もそのひとりです。


王脩(王修)

王脩(王修)

王脩(王修)

王脩、字は叔治。青州北海国営陵県の人です。
村祭りの日に母親を失い、翌年の隣村の村祭りに招かれた際に母親を失った悲しみを思い出して涙を流したところ、村民が悔いて村祭りを取りやめたという言い伝えがあります。
王脩が特に孝に篤かったことと、隣の村までその人柄が慕われていたということを示すエピソードです。
さらに王脩は豪胆な性格で武勇にも優れており、さらに清廉潔白だったことがそれだけの人望を集めた理由だったと考えられます。

北海国は国であり、郡と同程度の広さを持つ皇族の領地です。よって統治は郡の太守ではなく、相が責任者となります。
黄巾の乱が鎮まった後に、北海国の相となったのが38歳の孔融でした。孔子の二十代目の子孫ですから、まさに名士の中の名士です。幼い頃から神童とも呼ばれており、その名は広く知れ渡っていました。
北海国に着任した孔融は早速、領地に巣くう賊徒討伐を計画します。そこに登場するのが王脩なのです。

邴原に推挙された二人

邴原に推挙された二人

邴原に推挙された二人

孔融はまず知勇兼備で知られている邴原を召し出します。賊徒討伐で最も難関と思われたのは、すでに県令も手が出せないほどの勢力を高密県に築いていた孫の一団でした。孔融は邴原にこの一団を討伐するよう相談しますが、邴原は自分には無理だとして、さらに武勇のある二人の男を推挙します。

ひとりは王脩。もうひとりは東萊郡の太史慈です。太史慈は後に猛将として名を馳せることになりますが、すでにこの時に弓の名手として知られていました。しかし、留守のために王脩だけが招かれることになったのです。
つまり王脩の器量は、太史慈に匹敵していたということになります。
王脩は賊徒討伐のため高密県の県令に任命されました。

知と徳によって高密県を治める

知と徳によって高密県を治める

知と徳によって高密県を治める

王脩はすぐに兵を集めて孫一団の拠点を包囲します。しかし、すぐには捕縛しようとはしません。王脩はまず、子分たちにはここを去れば罪を赦すと宣言します。王脩の威勢にも押され、多くの子分がこの場を立ち去っていきました。
そして王脩は、残った子分に対して、親分に殉ずるその心意気を認め、公共施設の修復といった労役に服することを条件に罪を赦すことを伝えます。これには孫一団の親分も含まれており、それを聞いた全員が抵抗することなく帰順しました。

これまで誰も退治することができなかった賊徒の一団を、王脩はまったく戦わずに降してしまったのです。もちろん抵抗すれば殲滅できるだけの兵力を備えての策ではありますが、血を流さずに大きな問題を解決した王脩の手腕は見事です。
孔融は王脩を高く評価して孝廉に推挙しました。

孝廉とは

孝廉とは

孝廉とは

孝廉とは地方にいる優れた人材を中央に送り出し、朝廷や中央の政治を活性化させる制度です。孝廉に推挙されない限り、中央政府の官吏になることはできません。孝廉に推挙する権限を持っているのは各郡の太守以上の官吏になります。太守と同格の相である孔融にはその権限があったのです。
王脩はこれを固辞し、邴原を薦めますが、孔融は強い信念を持っていましたので、方針を曲げることはなく、ようやく王脩は承諾しました。しかし朝廷は宦官がはびこり腐敗した状態だったため、王脩が都に召し出されることはなかったようです。

その後、青州刺史となった孔融を助けていた王脩ですが、袁紹の勢力が拡大してくると、孔融は青州から追い出されてしまいます。孔融は都へ帰還していきましたが、王脩は青州に残りました。
結果として許都で朝廷に出仕するようになったのは、王脩ではなく、孔融だったのです。孔融には戦場で兵を率い、敵陣を打ち破るような能力はなかったわけですから、袁紹との勢力争いに巻き込まれるよりも、朝廷で帝の近くで働いていた方が孔融のためだと王脩も考えたのではないでしょうか。

袁譚に仕え、青州を治める

袁譚に仕え、青州を治める

袁譚に仕え、青州を治める

新たに青州の刺史となった袁譚ですが、統治する能力はかなり低かったと考えらえています。青州は荒廃していきました。王脩は当初は治中従事として刺史に仕えていましたが、他の袁譚の側近に疎まれて、ほとんど活躍できていなかったようです。
これを見かねた袁譚の父親の袁紹が、直々に王脩を起用し、やがて青州刺史の別駕(補佐官)となり、青州の統治は安定していきます。この時には多くの人に王脩が慕われていました。

袁紹亡き後の袁氏の家督争いで袁尚と袁譚が揉め、袁譚が先制攻撃を仕掛けたものの敗れた時には、真っ先に援軍に馳せ参じています。袁譚も王脩を信頼しており、その助言を受け入れて曹操と手を結んだりしていますが、最終的には曹操に反乱分子として見なされ征伐されてしまいました。
この時も王脩は援軍に向いましたが、間に合わなかったようで、処刑されて晒されている袁譚の首の前で号泣したとあります。そして袁譚の遺体を引き取りたいと曹操に願い出るのです。これは逆に処罰されても仕方がない嘆願になります。まさに王脩は命がけで願い出たのです。

まとめ・曹操にその名声を認められる

まとめ・曹操にその名声を認められる

まとめ・曹操にその名声を認められる

曹操は王脩の願いを聞き、ひそかに王脩の家を調べさせ、どれだけの財を蓄えているのかを調査しました。袁紹の家臣で、忠義に篤いと知られていた人物でも、隠れて財を成していることが判明していたからです。王脩の名声が本物なのかどうかを曹操も確かめたかったのでしょう。
王脩の家には財がまったくなく、数百に及ぶ書物だけが見つかりました。これには曹操もいたく感心し、王脩の名声が実を伴ったものであることを認め、王脩の願いを許します。
そして曹操は改めて礼をもって、王脩を臣下に迎えるのです。その後、王脩は魏郡の太守を務めるまで出世しています。厳格な法を定め、善政を敷いたために、やはりここでも王脩は民に慕われていました。

さらに中央政府で、大司農兼郎中令に任命されています。孔融の見立て通り、王脩の器量は中央にあっても充分に通用したというわけです。王脩はかつての主である孔融も、袁譚も曹操に処刑されてしまいますが、最期まで国のため、民のために尽くしました。

三国志ではあまり表舞台に登場する機会がなく、注目されない王脩ですが、人材豊富な魏にあったからであって、蜀の劉備(玄徳)や呉の孫権に仕えていれば、主力として大きな活躍をしたのではないでしょうか。ぜひ青州コンビとして太史慈と共に戦っている姿を見てみたかったですね。





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王脩 孔融 太史慈

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