孔融の伝
■ 孔融の伝
孔融の伝
三国志正史には孔融個人の伝はありません。「魏志」の中にある「続漢書」に記されています。また、三国志ではなく後漢書には孔融伝があり、彼個人の伝記となっています。三国志ファンならずとも知っている、有名な話で、儒教を開いた孔子の二十代目の子孫です。三国志で最も家柄のしっかりしている人と言えるでしょう。そのせいか、孔融はあくまで魏ではなく、漢王朝の臣として人生を全うします。そのことが、こういったどの伝記にどのように記載されるかなどといったところにも表れているのですね。
若い頃のエピソード
■ 若い頃のエピソード
若い頃のエピソード
孔融は子供の頃から非常に頭の回転の速い人物でした。それを聞いたある男が
「子供の頃に頭が良くても、大人になってからもそうとは限らない」
と孔融にいいました。それを聞いた孔融は
「それではあなたはきっと子供の頃はすごく頭が良かったのでしょうね」
と返答し、やり込めます。
13の時に父を亡くしました。当時の風習で孔融も喪に服すため精進生活を送ります。孔融は、ハンパでない精進生活を送り、その結果、非常に大きくやせ細ってしまいます。そのため、周りの人間達は孔融のことを孝心溢れる立派な人物だというようになります。当時の中国では「孝」という、親や祖先を大切にする心は何よりも尊いものと考えられていたからです。儒学の祖「孔子」の子孫である孔融にふさわしいエピソードと言えます。
もう一つ、孔融の人柄を示すエピソードがあります。張倹という人物が告発により逮捕されそうになりました。孔融の兄である孔襃と旧知の間柄であったため、孔襃を頼って逃げてきました。孔襃が生憎、留守だったため、帰ろうとする張倹を孔融が引き止め匿いました。その後、役人にバレて、張倹が逮捕されそうになりましたが、彼が脱出したため、孔融と孔襃が逮捕されました。どちらが張倹と共謀者に当たるかわからない役人が問いただすと、孔融も孔襃も
「私がやりました。私を罪にして下さい。」
と言いました。困った役人が彼らの母親に問いただすと、
「家のことは私に責任があります。私を咎めて下さい」
と言ってきます。
結局、役人は自分たちでは決められず、朝廷に伺いを立てて、最終的には孔襃が死刑になります。このことにより孔融の名は有名になります。
朝廷の臣として出世
■ 朝廷の臣として出世
朝廷の臣として出世
孔融は黄巾党の乱の時に、北海の相となり、そこで6年間勤め上げます。その後、劉備(玄徳)に上表され、青洲刺史として山東地域を治めます。そこでの孔融の治世は「後漢書--孔融伝」「魏志--続漢書」に書かれています。王修ら有能なものを推挙し、儒学を広めることに腐心しました。また、大学者である鄭玄を厚く遇すなど、良い政治をしていました。一方で「九州春秋」に書かれているには、「政治は形式的で現実味や実行力に欠ける」「風変わりなものを好み、鄭玄のような学のある人物を表向きは礼遇した」など、良く書かれていません。両極端な評価を受けるあたり、認める者も敵となる者も多かったのでしょう。良くも悪くも目立つ人物であったのだと思います。
曹操の配下ではなく漢王朝の臣
■ 曹操の配下ではなく漢王朝の臣
曹操の配下ではなく漢王朝の臣
北方では袁紹が勢力を拡大してきます。その長男である袁譚に攻められ、都に逃亡し、朝廷に仕えることになります。朝廷での会議ではいつも中心になって発言していました。孔子の子孫という肩書きをもち、後に「建安の七子」と呼ばれる、才能溢れた文人の一人でもありました。そのため、多くの人が孔融に意見を求めました。孔融もストレートな意見を言ったため、多くの人に認められていました。
ところが、いつの世もストレートな物言いの人は権力者とぶつかるものです。当時の最高権力者である曹操と孔融は事あるごとに意見がぶつかっていました。そのため、曹操は孔融を毛嫌いしていました。また、知識人にありがちな、正論であっても、現実にそぐわっていない屁理屈に聞こえるような意見も多かったようです。
そして、赤壁の戦いの直前、孫権の使者に対して曹操を誹謗中傷する発言をしたという罪で曹操に妻子共々処刑されます。このため、孔融の直系は途絶えます。孔子の子孫である孔融の家系を途絶えさせたということは、後々まで曹操を非難する材料として使われます。
演義でも孔融の役割は正史と同じような感じです。常日頃から曹操のことを非難しています。そして、曹操が劉備(玄徳)を攻めることを
「悪をもって善を討つ。うまくいくわけがない」
と言ったとして処刑されます。
孔融の評価
■ 孔融の評価
孔融の評価
魏の文帝(曹丕)は孔融の詩文を非常に好み、いつも読んでは感嘆していました。
「(古の文人である)揚雄・班固にも劣らぬ」
と言い、天下に募集して、孔融の文章を届ける者があれば、その度に褒美を与えていました。
また、この時代の五言詩を中心とする詩文学は「建安文学」と呼ばれます。この文学の特徴は激情的で反骨に富んでいました。また、型にあまりとらわれない自由闊達な文調を生み出しました。まさに戦乱の世が生み出した形の文学です。この建安文学の文人としてトップクラスと、後の世に認められたのが「建安の七子」で、孔融・陳琳・徐幹・王粲・応瑒・劉楨・阮瑀がそれに該当します。孔融はこの中で一人目に挙げられるほど高い評価を受ける文人です。
孔融の生き方のまとめ
■ 孔融の生き方のまとめ
孔融の生き方のまとめ
小説や漫画、映画では孔融は荀彧と並んで曹操にあくまで漢王朝の臣であるべきだと主張し、最期には死に追いやられる忠臣として書かれることが多い人物です。劉備(玄徳)の蜀漢を正統とした小説などではその見方は正しいかも知れません。ですが、歴史上では魏が漢の正当な後継王朝です。孔融は時代の移り変わりについていけなかった人物という見方もできます。また、あくまで漢王朝を守ることを考えていたとしたら、時の実力者曹操を真っ向から非難するようなことはどうかとも思います。処刑されては漢王朝を守ることも出来ません。うまく世渡りをして、曹操に気に入れられて、発言力を増して漢王朝を守る、それこそ真の忠臣ではないでしょうか?世間や他人からは曹操におべっかを使っている佞臣と捉えられるかも知れません。ですが、殺されてでも忠義を守るという気持ちなのでしたら、自分が他人にどう思われようが、最期まで諦めず、守って見届ける。そういう生き方もあったはずです。孔融の生き方は誠実ではあったけど不器用で直線的、その結果最期まで漢王朝を守ることが出来なかった人生であったと言えそうです。