三国志・掟破りの風使い諸葛亮(孔明)は赤壁に東南の風を吹かせたのか?

三国志・掟破りの風使い諸葛亮(孔明)は赤壁に東南の風を吹かせたのか?

三国志で最も有名な戦いが「赤壁の戦い」です。劉備(玄徳)、曹操、孫権が入り乱れた駆け引きを繰り返します。手に汗を握るシーンですが、勝利に導く東南の風を諸葛亮(孔明)はどうやって吹かせたのでしょうか?


諸葛亮(孔明)

諸葛亮(孔明)

諸葛亮(孔明)

諸葛亮、字は孔明。徐州琅邪郡に住む諸葛氏の一族です。父親の諸葛珪は泰山郡の丞に任命されましたが、諸葛亮(孔明)が子供の頃に病没し、諸葛亮(孔明)と弟・諸葛均は叔父の諸葛玄を頼ったと記されています。

徐州といえば、193年に曹操が兗州から侵攻して大虐殺を行ったことが有名ですが、181年に生まれたとされる諸葛亮(孔明)が徐州に住んでいたのか、すでに諸葛玄を頼って徐州を出ていたのかは不明です。
もしかしたら狂気の戦乱の中を逃げ出した可能性もあります。
どちらにせよ諸葛亮(孔明)の曹操に対する憎しみはこの時に生まれたのではないでしょうか。

諸葛玄

諸葛玄

諸葛玄

諸葛亮(孔明)の叔父です。諸葛亮(孔明)の父親である諸葛珪の弟にあたります。諸葛玄がどのような人物であったのかは不明な点が多くあります。
とりあえず、豫章の太守に任命され、朱儁の子である朱皓と争うことになったことは記されています。朱皓は朝廷に任命されて豫章の太守になるのですが、同時期に諸葛玄は他の権力者に命じられて豫章の太守になったようです。諸葛玄に命令したのは、袁術だとする説もあれば、劉表だとする説もあります。
諸葛玄は争って負けたか、争うことをやめたかして、豫章太守の座から追放されています。
争って負けた場合は、197年に住民の反乱に巻き込まれて死亡し、諸葛亮(孔明)は弟を連れて荊州に逃れたことになります。争うことをやめた場合は、諸葛玄は諸葛亮(孔明)らを連れて荊州の劉表を頼ったことになるようです。

どちらにせよ諸葛玄も亡くなったことで、諸葛亮(孔明)は自立しなければならなくなったはずです。おそらく年齢としては現在の高校生くらいだったのではないでしょうか。
そこから「赤壁の戦い」までおよそ10年です。
この間に諸葛亮(孔明)は荊州の地で勉学に励み兵法を身に付け、劉備(玄徳)に出会い、三顧の礼で迎えられます。

赤壁の戦い

赤壁の戦い

赤壁の戦い

かつて徐州が侵略されたように、荊州の地も曹操の侵攻を受けることになります。支配者だった劉表は病没し、その後継者である劉琮は早々と曹操に降伏してしまいました。
劉備(玄徳)に仕えていた諸葛亮(孔明)としては曹操の侵攻を阻止したかったでしょうが、圧倒的に兵力が違います。曹操は長年対立していた河北の袁氏を滅ぼし、勢力を拡大していました。客将扱いの劉備(玄徳)では到底太刀打ちできません。最前線の新野にいた劉備(玄徳)は逃げることしかできませんでした。住民を引き連れて荊州を南下し、夏口まで落ち延びます。

曹操軍は荊州の水軍基地である江陵を押さえ、そのまま長江を下っていきました。その先は揚州であり、孫権が支配する領地になります。
孫権軍には優秀な人材が揃っており、さらに水軍は精鋭でした。降伏を主張する家臣も多い中で、孫権は曹操との交戦を決断します。
かくして曹操軍と孫権軍による「赤壁の戦い」が幕を開けることになるのですが、この時の劉備軍はわずか二千。曹操軍は四十万で、前線に出てきたのが半分でしたがそれでも二十万です。劉備軍はまともに戦場で活躍できる状況ではありませんでした。

三国志演義による赤壁の戦いの脚色

三国志演義による赤壁の戦いの脚色

三国志演義による赤壁の戦いの脚色

劉備(玄徳)や諸葛亮(孔明)を主役に据える「三国志演義」としては、三国志で最もドラマチックな赤壁の戦いで、劉備(玄徳)や諸葛亮(孔明)らが活躍しないわけにはいきません。そのためほぼ無理やり諸葛亮(孔明)を話の中心に持ってきます。
実際は曹操と、孫堅軍を統率する周瑜の駆け引きがメインなのでしょうが、ここに諸葛亮(孔明)と周瑜の知恵比べが盛り込まれます。当然のように諸葛亮(孔明)の方が周瑜よりも格上という描かれ方になりますので、周瑜の活躍や功績は薄れていきます。

ちなみに周瑜が諸葛亮(孔明)に十万本の矢を用意するという難題を突きつけた際に、霧に紛れて船団を曹操陣営に近づけ、矢を放たせて十万本の矢を得るというエピソードがありますが、史実では孫権が、船に突き刺さった矢によってバランスを失ったのを回避するために、反対側を向いて矢を受けたという記録があります。
三国志演義ではこれを諸葛亮(孔明)の策に脚色し、周瑜を驚かすことに繋げています。曹操に対して真っ向から立ち向かう周瑜も、諸葛亮(孔明)の器量には恐怖を感じるという演出です。

東南の風はなぜ吹いたのか?

東南の風はなぜ吹いたのか?

東南の風はなぜ吹いたのか?

この戦いは火攻めによって決着がつくのですが、周瑜がこの火攻めを成功させるためには東南の風が必要でした。赤壁の戦いが行われたのは、旧暦11月の真冬です。
曹操の陣営でも火攻めを警戒する動きがありましたが、曹操が真冬に東南の風は吹かないと言い切っています。

三国志演義ではこの難題をやはり諸葛亮(孔明)が解決します。しかもその解決の仕方が神がっています。なんと南屏山に壇を築き、その七星壇で諸葛亮(孔明)が祈祷することで、東南の風が吹くのです。
兵法に通じているだけでなく、奇跡を起こす力が諸葛亮(孔明)にはあることになります。それができるのだったら、その後に起きる様々なトラブルも諸葛亮(孔明)の神通力で何とかなるのではないかと思ってしまうような設定です。
北伐の際に司馬懿を火攻めで焼き殺そうとした際に大雨が降って、司馬懿は一命をとりとめるのですが、それも諸葛亮(孔明)であれば解決できたのではないだろうかという疑問が残ります。

まとめ・地域の特徴を熟知していた

まとめ・地域の特徴を熟知していた

まとめ・地域の特徴を熟知していた

真冬の時期に東南の風が吹いたことについては、この地域では冬至の後、一時的に東南の風が吹くことがあったようです。周瑜と黄蓋はそのことを熟知していて、偽投降の策と火攻めの策を敢行したと言われています。
確かにその地域に長年住んでいないと分からない独特の特徴というものはあるものです。

風使いとして赤壁の戦いの勝利に絶大な貢献をした諸葛亮(孔明)も、もしかしたらそのことを知っていて祈祷をしたのかもしれません。諸葛亮(孔明)が豫章に住んだことがあったのなら赤壁の特徴を知っていてもおかしくはありません。かつて叔父の諸葛玄がそのような話をしていた可能性もあります。

だとしたら諸葛亮(孔明)は神通力に見せることで、劉備(玄徳)の存在感をアピールしたかったのかもしれません。荊州の民に人望があり、さらに神通力のある諸葛亮(孔明)がいる劉備(玄徳)とは同盟を結び続けた方がいいと、孫権側は考えるからです。

どこまでが真実で、どこまでがフィクションなのか、「三国志正史」には赤壁の戦いの詳細については記載されていません。
三国志演義の演出の仕方が、三国志の話を後世まで語り継ぎ、現代でも盛り上がる要因となっているのは、間違いないでしょう。


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