一時代を築いた天性の策士【司馬懿】② 蜀との激突

一時代を築いた天性の策士【司馬懿】② 蜀との激突

魏の曹操や曹丕から重用されるようになる司馬懿ですが、蜀の北伐が始まると、とうとう諸葛亮との対決が始まります。司馬懿の名を天下に知らしめた対蜀との前哨戦をまずはみていきましょう。


曹丕が亡き後も主力として出世を重ねる

曹丕が皇帝(文帝)として即位すると、司馬懿も出世を重ねていき、曹操の頃よりも発言力が増していきます。しかし、曹操旗揚げ時以降の幕僚たちも亡くなり、曹丕の権限が大きくなりそうな頃、226年に曹丕も若くしてこの世を去ります。後を継いだのが曹叡(明帝)です。ところが、曹叡の母は曹丕に殺害されており、皇位継承に関しても遅れがちで、幕臣たちもあまり面識がないほどでした。

曹叡を知るのは司馬懿や曹真、陳羣、曹休といった一部の臣下のみであり、曹丕も彼らに後事と補佐を託していました。主君が変わると側近たちも一様に変わりしますが、曹叡は司馬懿らを引き続き重宝していきます。

曹丕が死んだことを受けて、魏が混乱に生じたと察し、呉の孫権は大軍を以って魏の荊州に侵攻していきます。しかし、司馬懿は徐晃を伴って冷静に対処し、襄陽で諸葛瑾や張覇を打ち破りました。

諸葛亮との駆け引き

一方の蜀では、劉備(玄徳)亡き後に劉禅が皇帝に即位しますが、軍事・政治の全般は丞相である諸葛亮が握っていました。諸葛亮は益州南郡を制し、後方の憂いを無くしています。劉備(玄徳)の悲願でもあった漢王朝の復興を本格的に掲げていき、まずは一度蜀から魏に降伏していた孟達に目を付けています。

この孟達は関羽の救援に駆けつけず、劉備(玄徳)の報復を恐れて魏に投降していました。蜀からの投降者として警戒されていましたが、当時の曹丕だけは孟達を重宝し、信頼を寄せていました。司馬懿は孟達を信用せず、いずれ裏切るに違いないと思っており、警戒を怠ることはなかったといいます。

曹丕が死去すると、後ろ盾を無くした孟達は一気に立場が怪しくなってしまいます。これを察知した諸葛亮は孟達に手紙を送り続けていきます。孟達が赴任していた新城は、蜀からすると洛陽への近道とされており、ここを皮切りに漢王朝の復興を目指していました。

ところが、孟達はすぐに動こうとはしませんでした。曹丕に感謝の気持ちがあり、何よりも劉備(玄徳)が死んだとはいえ、関羽の件がある以上、簡単に蜀が再度受け入れてくれるとは信じがたいといえました。ただ、自分を信頼してくれる曹丕が死んだので、司馬懿ら幕臣たちからは真っ先に処罰されるのではないかと恐れも抱いていました。

電光石火の勢いで孟達を撃破

司馬懿は孟達が蜀との国境を任されていることを懸念し、孟達に翻意があるとして曹叡に進言しますが、父の曹丕が信頼を置いていたことを受けて、それを信じようとはしませんでした。司馬懿は最初から孟達がすぐに動かないであることを見抜き、孟達を討つ気でいました。しかし、司馬懿が赴任していた地から孟達までは1ヵ月以上はかかる道のりであり、まずは都にいる皇帝に行軍の許可ももらわないといけず、時間稼ぎとして諸葛亮同様に孟達へ感謝の手紙を送り続けます。

孟達は司馬懿からの直筆の手紙を受けて、悩み続けてしまいます。司馬懿を含めて魏が動く間に孟達を引き込みたい諸葛亮は、あまりに動かない孟達に業を煮やし、孟達に謀反の疑いがあるとして、嘘の情報を魏に流します。これに焦った孟達は魏を離れて蜀へと降るように気持ちを固め、近隣の城も誘っていきます。

この情報が都にいる曹叡にまで届くようになると、さすがに曹叡も心配になり、司馬懿に追討するよう指令を出します。孟達が蜀へと降る決断をやっとしたことを受け、諸葛亮ら蜀の重臣たちは歓喜を挙げていました。もともと北伐の準備を整えていた諸葛亮でしたが、そこには魏がどれだけ準備を整えようとも1ヵ月はかかると予想していた計算があったからといえました。

しかし、司馬懿は蜀が動くまでに一気に方を付けようと昼夜と問わず行軍を続け、通常は1ヵ月もかかるといわれる道のりを、わずか10日以内で駆けつけるという離れ業をやってのけます。それだけ孟達が蜀へと降るのは魏にとって危険であると認識していたからに違いありません。これを分かっていたのは恐らく諸葛亮と司馬懿だけだったといえるでしょう。

司馬懿は新城まで進めると、周辺の城に降伏するよう勧め、孟達軍を一網打尽にしていきます。結局孟達は仲間にも見放され、遂に司馬懿に捕えられてしまい処刑されています。この一連の流れに諸葛亮は落胆し、司馬懿の恐ろしさを見せつけられた格好になりました。

荊州の軍事責任者から中央の権力者へ

孟達を退けたとはいえ、司馬懿は一大権力者となったわけではありません。魏には一族出身で戦にも手慣れた曹真と曹休が将軍として存在していました。司馬懿は軍事的重要な位置である荊州を任されています。

蜀の諸葛亮は夷陵の戦い以来、呉と再度手を組んで共同で魏に対抗する姿勢を貫き、南と東の憂いを無くしたことから、遂に北伐を開始します。孟達の失敗もあったので、別ルートから進軍することを余儀なくされますが、囮の部隊を使い、西側から進軍していきます。

当時の魏国内では、蜀の驚異となるのは関羽と劉備(玄徳)であり、劉禅が即位してからはほぼ眼中にない状態ともいえました。唯一警戒していた司馬懿も西側からは遠く離れた荊州に赴任していたので、魏は蜀に全く無警戒だったといえます。

諸葛亮は姜維らを降伏させ、一気に北へと進軍していきます。魏国内でも焦りが見え始め、曹叡自らが長安へと赴く事態となってしまいました。曹真が総大将として蜀と対決し、ここに街亭の戦いが勃発します。この戦いでは、諸葛亮の万全の作戦を無視した馬ショクの失態によって魏が勝利し、曹真は再度諸葛亮が攻めてくるルートを予測して兵を含ませて増員することにより、第二次北伐も防いでいます。

呉と対決していた司馬懿

この第一次・第二次北伐において、司馬懿は参戦できませんでしたが、その理由として呉との対決となった石亭の戦いが起こったことが挙げられます。諸葛亮は北伐に際し、呉も共同で北へ進軍することで魏の兵力を分散しようという狙いがあったからといえます。

この石亭の戦いでは曹休が総大将として参戦し、10万もの大軍で呉へ対決しました。司馬懿は本隊と別で荊州から進軍し、呉の城を落としていきます。しかし、曹休は呉からの偽りの投降者を信じ、兵を繰り出していたので、待ち受けていた陸遜の計略によって追い詰められてしまいます。司馬懿や諸葛亮にも劣らない軍略を持つ陸遜相手だけに、さすがの魏軍も壊滅状態に陥り、別働隊となっていた司馬懿も撤退せざるを得ない状態となりました。

大将軍へと昇進する

曹休はこの敗戦のショックで病気となり死去し、司馬懿は大将軍として昇進します。折しも曹真が大規模な蜀遠征軍を起こしながら失敗し、病を発祥してしまいます。この状態を受けて、魏は蜀に対する総司令官として司馬懿を赴任させます。231年に曹真が亡くなると、司馬懿は遂に軍権を掌握し、諸葛亮と直接対決をすることとなります。

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