諸葛亮孔明
■ 諸葛亮孔明
諸葛亮孔明
伏龍
■ 伏龍
伏龍
蜀の名軍師にして、軍事・行政・立法・司法のすべてを司ったスーパーマンです。若かりしころの諸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っており、世の知識人からは「伏龍」と称されていました。
「伏龍」の意味は「伏せて昇天する機会を待っている龍」です。これは龐徳公が「優れた才能を持っていながらまだ世に出ていない人」ということを表してつけたあだ名です。
臥龍
■ 臥龍
臥龍
上記とほぼ同じ意味で「臥れる(ねむれる)龍」ということを表しています。劉備(玄徳)が三顧の礼で諸葛亮を訪ねたときに弟の諸葛均に「臥龍先生はご在宅かな?」と聞いているので、臥龍は水鏡先生が諸葛亮を紹介するときに用いたものだと思われます。
龐統士元
■ 龐統士元
龐統士元
鳳雛
■ 鳳雛
鳳雛
龐統は、諸葛亮、徐庶と一緒に水鏡先生こと司馬徽を師事しました。諸葛亮、
徐庶とは親友同士で後に蜀の軍師として活躍します。
「鳳雛」の意味は「鳳凰の雛」です。「優れた才能があるのに、自分ではその才能の使い道がわかっていないほど幼い」という意味あいで龐徳公が名づけたとされています。
馬超孟起
■ 馬超孟起
馬超孟起
錦馬超/西涼の錦馬超
■ 錦馬超/西涼の錦馬超
錦馬超/西涼の錦馬超
蜀の五虎大将軍のひとりで漢人と羌人のクォーター。馬超が「錦馬超」という名を轟かせた由縁は、「肌の色は冠の白玉、眼は流れ星、唇が口紅を塗ったように紅く、虎のようにがっちりした体躯をしていた。また、腕は猿のようで、腹は彪のようにスレンダーで腰は狼のようにしっかりしている」という出立で、身にまとう鎧兜が「白い袍に、白銀の飾り…」で戦場の見事な姿からこのあだ名がつけられました。
曹操が「錦馬超とはうまいこと言ったもんだ」と納得するほど、錦に恥じないイケメンの武将だったようです。馬超は軍装に白の色を基調とした装束を身につけましたが、これには肉親の弔いの意味が込められています。
馬良季常
■ 馬良季常
馬良季常
馬氏の五常
■ 馬氏の五常
馬氏の五常
蜀の劉備(玄徳)に五人兄弟で仕えた馬氏には、馬良とその弟の馬謖の他に三人の兄弟がいました。馬家ご兄弟は全員蜀の家臣となっており、しかも全員優秀ぞろいの五兄弟でした。
五人は全員もれなく字に「常」の字がついていたので、周りの人々は、馬家五兄弟のことを「馬氏の五常」と呼んでいました。
他三名も負けず劣らずの優秀な人物であったとされていますが、後世まで名を残しているのは、馬良と馬謖のみで、他の兄弟の名や字はいずれも不詳です。
白眉
■ 白眉
白眉
馬氏の五常のうち、馬良にのみつけられたあだ名です。馬超は若い頃より眉毛に長い白髪が混じっており、壮年になると眉毛だけ白くなりました。
馬家の五兄弟は優秀揃いでしたが、その中でも馬良が最も秀でていたので、彼らの故郷では「馬氏の五常、白眉もっとも良し」と言われていました。
この故事から現在でも優秀な人材の集団の中から最も優れた者を指して「白眉」というようになりました。
司馬徽徳操
■ 司馬徽徳操
司馬徽徳操
水鏡先生
■ 水鏡先生
水鏡先生
司馬徽は隠者として生涯を閉じた清流派の人物評論家です。「水鏡」は「水のように真実を映し出す鏡のような人物評をするもの」という意味で龐徳公が名づけました。「先生」は中国語で「~さん」という敬称として用いられる言葉なので「あだ名+敬称」ということになります。先生というので、職業は教師と思っている方もいるかと思いますが、本職は政治コメンテーターです。
司馬徽は本来官職を得てもおかしくない知恵者であったが、先にあった清流派を弾圧する事件の「党錮の禁」があってから荊州で隠遁生活を始めたものだとされています。
自身の信念を広める、または身を守るために敢えて官職に就かず未然にトラブルを回避していた彼の態度は自身が信用を置かない者からは何を聞かれても、口をつぐんで高下の論評を避けていたとされています。
姜維伯約
■ 姜維伯約
姜維伯約
天水の美将
■ 天水の美将
天水の美将
姜維はもともと魏領の天水郡の4つの名門「天水の四姓」と呼ばれる豪族の出身でした。
天水の四姓の中でもさらに区別して「天水の美将」と呼ばれました。この異名に劣らないイケメン武将だったそうで、諸葛亮が「姜維は忠実に仕事に励み、きめ細やかな気配りができる者である。涼州で最高の人物」、「姜維は兵の動かし方長け、その上度胸があり、兵の気持ちをよく汲みとっている」などと評価されていました。
容姿端麗で人柄もよく、そのうえ才能豊かだった姜維は、三国志演義の話中でも魅力的な美丈夫として、忠実に描かれています。
趙雲子龍
■ 趙雲子龍
趙雲子龍
常勝将軍
■ 常勝将軍
常勝将軍
趙雲は蜀の五虎大将軍の一人で、故郷の常山郡からの推挙を受けて、義勇軍を従えて当初は公孫瓚の配下となりました。青州で劉備に随行して騎兵隊長を引き受けたときその人柄に惹かれて劉備の配下となりました。戦功をあげるたびに「牙門将軍」や「虎威将軍」と号されますが、趙雲がスタメンだったときは常に勝ち戦、敗戦であっても撤退戦や救出戦で類まれなる才能を発揮した趙雲のことを称賛して「常勝将軍」と周りの兵士から呼ばれていました。
劉備の死後、劉禅の治世になってから正式に「常勝将軍」の号が送られました。
順平侯
■ 順平侯
順平侯
趙雲も関羽と同じように死後、王侯に封じられて諡をされました。
劉禅は基本的に自分で考えることをせず、とりあえず臣下に意見を求めたり提案する臣下の口車に乗せられて言うことをほいほい聞いてしまうような節もありました。趙雲の諡を決定するときも、劉禅は躊躇なく臣下たちに対して「なににしたらよい?」と考えを聞きました。
「柔順・賢明・慈愛・恩恵を有する者を順と称し、仕事をするのに秩序があるのを平と称し、災禍・動乱を平定するのを平と称します。趙雲に順平侯の諡号を賜るのが至当と存じます」と姜維らが劉禅に進言したので、「順平侯」と諡されました。
劉禅公嗣(阿斗)
■ 劉禅公嗣(阿斗)
劉禅公嗣(阿斗)
昏君(フェイチェン)
■ 昏君(フェイチェン)
昏君(フェイチェン)
昏君(フェイチェン)は暗君・バカ殿という意味です。かつて、夏王朝最後の帝王・桀王と殷王朝最後の帝王・紂王(殷受)も臣下に「昏君(フェイチェン)!!」と罵られたことがあります。
司馬昭が魏国の丞相であったときに蜀漢二代皇帝の劉禅は一戦も交えることなく降伏。それだけならいざ知らず、司馬昭が劉禅を手厚くもてなして開いた宴会には、蜀の料理を提供し、蜀の歌や踊りを
披露してみせ「故郷が恋しくありませんか?」とからかったところ、「蜀など恋しくありません。洛陽にいた方が気楽で楽しいです。それにしても料理はおいしいし、女の子は可愛いですねー」と言って手を打って笑っていました。
これを見た蜀の旧臣下たちは涙を流し「このあり様なら、もし諸葛亮が存命であってもどうしようもない昏君だ」と言って軽蔑しました。
このことから、「阿斗」は救いようのない愚か者の代名詞となりました。
その2のまとめ
■ その2のまとめ
その2のまとめ
英雄のあだ名蜀編その2~をお送りしました。水鏡先生は厳密に言うと蜀に仕えた人物ではありませんが、弟子が蜀に大きな影響を及ぼしているため、蜀に分類しました。
魏や呉にもあだ名をつけられている武将がいるので、それはまた別の記事でご紹介します。