三国志演義の怪奇現象・亡霊
■ 三国志演義の怪奇現象・亡霊
三国志演義の怪奇現象・亡霊
三国志演義にはさまざまな怪奇現象、階段話が登場します。
特に有名なのが、関羽の亡霊が曹操の枕元に立つ逸話ですが、それ以外にも左慈という仙人が幻術を使って曹操をからかったり、馬が人間を生んだといったものまで存在します。
鳥肌が立ちそうな話、「えっ…それホント!?」と思わずにはいられなくなる怪談を収集したので、
ぜひ読み進めてほしいと思います。
呂蒙、関羽の亡霊に取り憑かれる
■ 呂蒙、関羽の亡霊に取り憑かれる
呂蒙、関羽の亡霊に取り憑かれる
「呂蒙が病気を患い大将軍を退いた」その知らせを聞いて憂いがなくなった関羽は曹仁との樊城の戦いに赴きます。
しかし、呂蒙は仮病を使っていて、関羽はまんまと呂蒙の罠にハマってしまったのでした。しかもこの頃、呉の孫権と魏の曹操が手を組んで関羽討伐のためあの手この手で蜀の将軍の懐柔作戦や補給路の遮断を行い、関羽を崖っぷちに追い込んだのでした。
進退窮まった関羽は、麦城(ばくじょう)の戦いで呉軍に挟み撃ちにされた後、捕縛されて息子の関平とともに処刑されました。
関羽を討伐して荊州を奪還した呉の孫権は、祝宴を開いて諸将をねぎらいました。しかし、関羽を巧妙な罠にかけ、いちばんの功労者とも言うべき呂蒙がなかなか現れません。だいぶ遅れて呂蒙が宴会場に到着すると、孫権は気前よく呂蒙に酒を注ぎました。すると、呂蒙が突然立ち上がり、杯を地面に叩き割り孫権に飛びついて胸ぐら掴むとこのように罵倒しました。
「碧眼の小童(こわっぱ)、紫髯(しぜん)の鼠輩(そはい)!わしを知っておるか?」
小童は小僧やガキ、紫髯とは赤毛の髭という意味です。どちらも孫権のことを指しています。
驚いて微動だにできない孫権。なぜなら、さきほどのセリフは孫権が関羽を捕らえて投降を進めた際に、関羽がこういって罵ったからです。呂蒙は物凄い形相で睨み付け、孫権を投げ倒して馬乗りになると「汚い計略を使ったことがそんなに得意か?生きて貴様の肉を食らうことは叶わぬが、呂蒙の魂を奪ってやる!!我は関羽なり!!」と叫ぶや、目、口、鼻、耳などの穴という穴から血を噴出して絶命してしまいました。
曹操の精神を崩壊させた関羽の亡霊
■ 曹操の精神を崩壊させた関羽の亡霊
曹操の精神を崩壊させた関羽の亡霊
呂蒙が宴会で絶命した一件があり、恐れをなした呉の孫権は、関羽の首を木箱に納めて魏の曹操に送りました。こうすることで関羽の怨念を曹操に向け、曹操を首謀者に仕立てることで蜀勢の矛先を魏に向けようとしました。いわゆる責任転嫁です。
これに対して司馬懿は、劉備(玄徳)が関羽の仇討ちを口実に戦を仕掛けに来るに違いないと考え、盛大な葬儀を行って関羽の霊を追悼し、劉備(玄徳)の怒りを孫権に向けさせるようにと進言します。曹操はそれを聞き入れ、関羽の首から下の等身大木像を彫刻させ、首と木像をくっつけてから納棺しました。
曹操が木箱に入った関羽の首をみたところ、まるで生きているようだったので、「変わりはないか?」と思わず冗談で声をかけると関羽の目がカッと見開き髪を逆立てたので、驚きのあまり失神してしまいました。
その後も関羽の亡霊は夜な夜な曹操の枕元に立ち、曹操を悩ませました。そのうち曹操は今まで殺害してきた武将たちの亡霊も見えるようになって精神崩壊。そのせいで息が詰まり目も見えなくなって、ついには衰弱死してしまいました。
関羽の亡霊を鎮魂した僧侶
■ 関羽の亡霊を鎮魂した僧侶
関羽の亡霊を鎮魂した僧侶
関羽の霊魂があちこちを飛び回っているときに、関羽と同郷の普浄という僧侶に呼び止められました。
関羽の霊魂は「俺の首を返せー」と大声を発しました。普浄が怯まず「では聞くが、その昔関公(関羽のこと)に首を刎ねられた者どもは、誰に返せと申せばよいのか?」と問いかけると、関羽の霊はあっさり納得し、故郷へ帰っていきました。
馬超の祟り
■ 馬超の祟り
馬超の祟り
馬超の墓は四川省新都区馬超村にあるそうですが、そこで何十年か前に馬超の祟りが起きたそうです。
馬超村に住むある老人が畑を拡張しようとして馬超の墓を壊したところ、白い着物を着て長い髪をふり乱した鬼が出現しました。その鬼は「エーエーエン!!」と叫んでその老人に憑りつきました。それからしばらくしてその老人は家庭が滅茶苦茶になり、衰弱して亡くなったそうです。馬超村に住む人々はこれを「馬超の祟り」と信じているそうです。
文化大革命中に起きた諸葛亮の祟り
■ 文化大革命中に起きた諸葛亮の祟り
文化大革命中に起きた諸葛亮の祟り
四川省成都には諸葛亮が築いたとされる諸葛九里堤に諸葛祠があります。文化大革命中ということもあって、そこに祀られていた諸葛亮の像を2名の小学校教諭が道路に持ち出して破壊しました。すると三日後に一人は諸葛亮の像を壊した場所で交通事故に逢い、もう一人は原因不明の病気で亡くなってしまったそうです。
「三国志演義」の作者・羅貫中の心霊体験
■ 「三国志演義」の作者・羅貫中の心霊体験
「三国志演義」の作者・羅貫中の心霊体験
劉備(玄徳)・関羽・張飛の義兄弟が一時期離れ離れになっていたときの話です。関羽は官渡(かんと)の戦いの最中に劉備(玄徳)の居場所を知るや劉備(玄徳)のふたりの夫人を連れて身を寄せていた曹操のもとを去ります。そして袁紹の庇護を受けていた劉備(玄徳)に仕えるために、千里の道を6人の武将と5つの関所を突破しながら進みます。これが、俗にいう「関羽の千里行」です。このときに実は関羽が劉備(玄徳)の夫人に手を出したとか出さなかったとか、賛否両論が飛び交う時代がありました。その根拠として持ち出されたのが、「三国志演義」の作者・羅貫中の心霊体験です。
関羽のカミングアウト
■ 関羽のカミングアウト
関羽のカミングアウト
羅貫中が「三国志演義」の原稿を書いたとき、彼のもとに関羽の霊が現れてこんな頼みごとをしたそうです。それは「夫人たちに手を出したのは過ちであった。そこだけは削除してくれ。」というもの。羅貫中がこの願いごとを拒むと、関羽は激怒し剣をふりかざして羅貫中を脅迫してなかったことにしてしまいました。羅貫中はこれに相当怯えてしまい、その後も関羽の都合の悪いことは一切書けなくなりました。
構想中の羅貫中への忠告
■ 構想中の羅貫中への忠告
構想中の羅貫中への忠告
関羽も男だから一本のろうそくに女性と身を寄せ合っていればその気になるんじゃないかな~っと関羽と劉備(玄徳)の夫人が不倫したような構想を練っていると、関羽の霊が現れて「そんなふざけたことを書かないでくれ」と頼んだそうです。羅貫中がヘラヘラ笑いながら「英雄色を好むと言うじゃないですか。少しくらい官能的な話を混ぜたほうが読者は喜ぶんですよ」と返答すると、「俺は女色を近づけなかったのに」と怒りだしました。そして、机にあったろうそくを刀で一刀両断すると、「さもないと貴様の頭をこうなるぞ」と捨て台詞をはいて消えていきました。これが相当恐ろしかったようで、羅貫中は関羽のことを邪念のない人物として書かざるをえなくなりました。
まとめ
■ まとめ
まとめ
強い武将は、亡霊になっても強いようです。関羽の怨念は相当なものですね。また、死後1000年近くたっているにも関わらず、わざわざ「消してちょーだい」と頼みにくるとは意外にお茶目な部分もあったようです。
ホラー・オカルトが好きであっても、面白半分で人のお墓にいたずらするのはやめましょう。