呉の”孫堅”
■ 呉の”孫堅”
呉の”孫堅”
三国志と言えば、魏と呉と蜀の国の勢力争いが見所の1つと言えるでしょう。そんな中でも特に武力に長けており、様々な国を脅かしたのは呉という国です。呉という国には武勇に長けている武将がとても多く所属していた国であり、戦闘ということにおいてはどの国にも引けを取らない強さを誇っていたと言われています。
そんな呉を引っ張り支えていたのが孫家の者たちです。孫家の者たちは呉の常にトップに立っており、民を引っ張りながら天下統一を目指したと言われています。
そんな孫家を表舞台に立たせ、息子たちに武勇を見せた孫堅が歴史的には様々な功績を残していますが、そこまで詳しく取り扱われていません。今回は呉の孫堅にフォーカスを当てて紹介していきたいと思います。
孫堅の先祖と孫堅が戦うようになったきっかけ
■ 孫堅の先祖と孫堅が戦うようになったきっかけ
孫堅の先祖と孫堅が戦うようになったきっかけ
孫堅にはとても有名で注目が集まるんですが、孫堅より前の孫家の者たちつまりは孫堅の先祖に関してはあまり注目が集まりません。それは何故かと言うと孫堅の先祖があまり正確に分かっていないからと言われています。
噂程度では孫子の兵法書を記した孫武と言われています。しかし、その噂は定かではありません。孫堅は漁師として呉郡一帯で生計を立てていました。漁師をやっていたそんな最中近辺の村が海賊によって、襲われている姿を目にします。
孫堅は海賊を撃退するために兵士を引き連れているように見せかけ、海賊に近づいていったところ、海賊は急いで逃走し、孫堅はそれを追いかけ海賊の頭領の首を取ります。その功績が認められて、村を警備する隊長に任命されることとなりました。
実力を上げていき、黄巾の乱へ
■ 実力を上げていき、黄巾の乱へ
実力を上げていき、黄巾の乱へ
実力を上げていった孫堅は県令の補佐官として職務に励んでいました。そんな最中に起きたのが三国時代の始まりと言われる黄巾の乱です。黄巾の乱が始まると孫堅は黄巾の乱に参加してくれないかと言う依頼を受けます。この黄巾の乱に孫堅も参加し、各地で華々しい活躍を行っていきました。
黄巾の乱が鎮圧された後に、張温という武将から討伐作戦があるので参加しに来いと言う命令を受け、孫堅はこの討伐に参加します。この戦いでも優れた武勇を見せて、彼の名はどんどん広がっていきました。とにかく戦場での振る舞い方や武勇が彼の名を押し上げていたと言っても過言ではありません。
そしてこの時、彼は黄巾の乱の終了後から猛威をふるっていた董卓の存在を危ぶみ、これを進言しましたが受け入れられる事はあまりありませんでした。
董卓を危ぶみ、董卓討伐へ
■ 董卓を危ぶみ、董卓討伐へ
董卓を危ぶみ、董卓討伐へ
その後にそんな董卓の様子に怒り始めた各地の実力者達が連合軍を組み、董卓を打つべく進軍を始めます。もちろんその中に孫堅の姿もありました。孫堅は袁術の部下となり、袁術の経済的な援助なども受けながら董卓との戦いに向けて準備を始めます。
そんな中、孫堅の順調であった足並みを阻む武将が現れます。当時猛将と呼ばれており、武勇ではかなり名を轟かせていた華雄という武将です。董卓は孫堅軍が近づいていることを知り、華雄を進軍させます。
華雄は軍勢を率いて孫権軍を迎え撃つべく体制を整えていました。孫権の耳にも董卓の元から華雄が向かってきていると言う報告が入りますが、ひるまず攻撃を開始します。両軍は当初互角といえるような戦いを繰り広げられていました。
孫権は自分の手下であった猛将たちの活躍によって追い込んでいき、華雄の軍は次第に負けムードになっていました。孫堅が華雄を切ったことによって、華雄の軍勢を完全に崩壊し、孫堅は董卓との戦いで初めての勝利を上げることになります。
孫堅による快進撃を続けていましたが思わぬ形でその快進撃が止まってしまいます。それは袁術からの兵糧が届かなくなってしまうことです。袁術の配下となり、自分の軍の兵糧が届くことが続いていましたが、その兵量が滞ってしまい、進軍は難しくなってしまいます。
ここで孫堅の快進撃はいちど止まってしまいます。孫堅は進軍をやめ、袁術のもとに戻ると兵量を送ってこなかった袁術に向かって大声で怒鳴ります。かなり激昂した様子でしたが、それを見た袁術はすぐさま孫堅に謝り、兵糧再度送り直すことを約束します。
孫堅は袁術からの兵糧の補給が再開されると同時に董卓のいる洛陽に進軍を始めます。董卓は孫堅の武勇と勢いに恐怖を抱き始め、彼と和解するために自分の配下などの使者を派遣しますが、孫堅はそんなもの全く目にせずにただただ進軍を続けていきます。各地の実力者もいたため、董卓は結果的に滅ばされてしまい、董卓討伐戦はこれにて閉幕しました。
兄弟ゲンカの戦場へ
■ 兄弟ゲンカの戦場へ
兄弟ゲンカの戦場へ
しかしこの時に関わっていた袁術によって、孫堅は再び戦場に足を運ぶことになります。袁術の兄弟喧嘩になって、孫堅は再び戦いの世界に足を入れることになります。袁術の下についた孫堅は兄弟である袁術の軍と敵対するようになります。
ここで、袁紹の味方となっている劉表の討伐を命じられた孫堅は命じられてすぐに進軍していきます。それまで武勇を誇っていた孫堅に対しても袁術は信頼感を寄せており、孫堅に任せておけば必ず良い結果がでると思っていました。しかし実はこの戦にて孫堅は命を落としてしまいます。
劉表は黄祖という武将に孫堅の退治を任せますが、やはり孫堅はとても勇猛で強いため、黄祖はあっさり破れてしまいます。黄祖が破れてしまい、一旦引きますが孫堅はそれを追い詰めるため、黄祖が山に入ったところを1人で追いかけてしまいます。
確かに、孫堅は強いため、1人で戦いを挑んでもそれなりに追い詰めることができたかと思いますが、あまりにも迂闊な行動でした。山の中に潜んでいたその黄祖が放った矢が孫堅の体を貫いてしまい、孫堅はこの矢によって亡くなってしまいます。
孫堅はこのような形で亡くなってしまいます。勇猛さによってその名を轟かせ、孫家という呉を担う勢力を作ったことは評価できますが、死に際が意外とあっさりしています。三国志の武将というと、死に際も華やかだったりすることが多いのですが、孫堅は意外と敵の術中にはまってしまい、あっさり死ぬというそれまでの戦績では考えられないような死に方をしてしまいます。
まとめ
■ まとめ
まとめ
今回は三国志の歴史の中で勇猛さを誇っていたのにあまり目立ったことがない呉の孫堅について紹介しましたが、やはり戦績などの戦いでの評価には見合っていない死に方をしている武将という印象を受けました。
しかし、孫堅の意志などは息子たちが引き継いでいき、呉という国の礎を作っています。孫堅の勇猛さを学んでいなければあのような勢いのある国を作ることはできなかったでしょう。